第56話 弟からの返事
それは、王女の執務がひと段落した時のことだった。
リーナは、いつものように控えの位置に立っていた。けれど、その日は珍しく視線がどこか落ち着かない。手は止まっておらず、姿勢も崩れてはいない。ただ、呼吸だけがわずかに浅かった。
王女は、その小さな変化に気づいていた。
「リーナ」
名前を呼ばれると、彼女はすぐさま顔を上げる。
「はい」
応える声は、いつも通りだった。
「何か、言いたいことがあるのではないかしら」
問いは断定ではなく、急かすような響きもない。リーナは一拍、間を置いた。それから、静かに、けれど意を決したように口を開く。
「……弟のことなのですが」
王女は、持っていた筆をそっと置いた。
「ええ」
「私は……こちらに残ることを選びました。でも」
言葉を選ぶように、一度、深く息を吸う。
「それを、弟に押し付けたくはありません」
王女は何も言わず、続きを待った。
「私が決めることもできるのだとは、分かっています。ですが……だとしたら、弟にも選ぶ権利があると思いました」
逸らさない視線だった。強く主張するわけではない。ただ、どこまでも誠実な眼差し。
「一緒に来たいのか。それとも、今の場所に残りたいのか。それは……弟自身が決めることだと思うのです」
王女は、ふわりと微笑んだ。
「ええ。そうね」
否定も、条件もつけない。
「手紙を書きなさい。こちらから届けるわ」
「……ありがとうございます」
それだけで、十分だった。
その日から、数日が過ぎた。王女宮は、相変わらず静かな時間が流れている。仕事は続き、勉強の時間も、掃除の時間も変わらない。リーナは、手紙のことを一度も口にしなかった。待つことには、慣れている。
——そして、返事は届いた。
封を切るのは、王女の前だった。主君への配慮という形式的なものだが、リーナは震えるのをこらえて紙を受け取る。文字は、まだすべては読めない。それでも、弟の筆跡だということは分かった。王女が、その言葉を静かに読み上げた。
「『姉ちゃんへ。手紙、ありがとう。どこにいても、姉ちゃんが決めたなら、それでいいって思った。でも……一緒にいられるなら、そっちがいい。姉ちゃんがいる場所に、行きたい』」
そこまで読んで、王女は声を止めた。続きは短い。体調のこと。無理はしていないこと。そして、姉を信じていること。リーナは、何も言えなかった。視界がにじみ、胸の奥がぎゅっと詰まる。声を出そうとしても、言葉より先に、熱い吐息が零れた。
——選ばれた。
守るために自分が決めたはずが、選ばれたのは自分の方だったのだ。王女は、何も言わない。ただ、机の上に手を置いたまま、静かに待っている。急かさない。慰めない。今は、それが一番の慈しみだと知っているから。リーナは、届いた紙を胸に抱きしめた。
「……一緒に、来たいと。そう、書いてあります」
やっとの思いで、それだけを口にした。
「ええ」
王女は深く頷く。
「それが、あの子の選択よ」
リーナの肩が、小さく揺れた。声は出ない。ただ、初めて、抑えきれない感情が目尻から溢れた。泣くつもりはなかった。耐えられないほど辛いわけでもない。
ただ——嬉しかった。選ばれたことが。信じてもらえたことが。
王女は、しばらく間を置いてから告げた。
「準備は、私が整えるわ」
それは命令でも、施しでもない。
「あなたが自分で選んだことなのだから」
リーナは、深く、深く頭を下げた。
——これで、帰る場所は一つになった。
それは、何かを失ったのではなく、自らの手で選び取った、新しい居場所だった。




