第53話 学ぶ時間
王女の執務室は、静かだった。紙をめくる音。ペン先が走る音。時折、遠くの廊下を誰かが通り過ぎる気配。それらが、穏やかなリズムとなって部屋を満たしている。リーナは壁際に控え、必要があればすぐ動ける位置で、静かに佇んでいた。
今日は、掃除ではない。机の端に、小さな板と紙が置かれている。王女が用意したものだ。正式な教材ではない。書き損じた文書の余白や、使い終えた帳簿の切れ端。それでも、リーナにとっては十分すぎるものだった。
「これが、文字よ」
王女は、執務の手を止めてそう言い、一つだけ指し示した。よく使われる、名前を書くときにも出てくるような簡単な字だ。王女は、それ以上の説明をしない。読み方も、意味も、その先の続きも。——教えすぎない。それが、この方なりの教育方針なのだ。
リーナは、その字をじっと目で追い、形を記憶に焼き付けた。線の傾き、長さ、筆を止める位置。声には出さず、ただ頭の中で何度もなぞる。
分からないことはあった。だが、聞かなかった。質問をすれば、王女は答えてくれるだろう。それは分かっている。それでも、今は自分で拾える分だけを、こぼさないように拾い上げる。そういう時間なのだと、直感で理解していた。
昼を過ぎても、執務は続く。王女は、時折リーナに視線を向けるが、何も言わない。文字を覚えているかどうかを、確かめようともしない。——見ていないふりをして、見守っている。その絶妙な距離感が、リーナにはありがたかった。
夕方、執務が一区切りつくと、王女はゆっくりと立ち上がった。
「今日はここまででいいわ」
「はい」
紙と板を片づけ、いつもの仕事に戻る。その動作も、いつも通りだった。学んだことを誇る様子も、できたと主張する気配もない。
その夜――。部屋に戻ると、リーナは小さな灯りをつけた。昼間に見た文字を、暗がりの中で呼び起こす。形を思い出し、指先で空中になぞる。何度も、繰り返し。覚えるのは、苦ではなかった。元から、そうだった。言葉も、作業も、順序も。誰かが話しているのを聞き、その通りに繰り返す。失敗しないように、目立たないように、ただ正確に。
文字も、それと同じだ。一つ、また一つ。増えていっても、焦りはない。灯りを消す前、リーナは今日覚えた字を、もう一度だけ思い浮かべた。まぶたの裏に、間違いなくその形が浮かぶ。その瞬間、少しだけ、胸の奥が温かくなった。
——できた。
声には出さない。誰にも、言わない。それでも、自分の中に確かに何かが積み重なっている。それが分かるだけで、今は十分だった。
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