第52話 選んだあと
私は決めたはずだった。王女の前で、言葉にして「戻らない」「ここに残る」と。なのに——実感は、まだなかった。
朝はいつも通りに訪れる。使い慣れた布を手に取り、床に膝をつく。埃の溜まりやすい角から順に、力を入れすぎないように丁寧に拭いていく。動きは変わらない。考えることも増えてはいない。決断の余韻が胸を揺らすこともなければ、遠い未来を思い描くこともない。
ただ、目の前の仕事がある。それだけだった。王女は、それを何も言わずに見ていた。問いも、確認も、催促もない。忙しそうに執務を進めながら、時折こちらにまなざしを向けるだけだ。その瞳に、試すような色はない。
——急がせない。それが、はっきりと分かった。昼前、書類を運んだ時、王女がふと手を止めた。
「疲れていない?」
問いかけは、軽い。体調を案じるような、何でもない調子だった。
「大丈夫です」
即答だった。嘘ではない。本当に疲れてはいない。ただ——何かが変わった実感が伴わないだけだ。王女はそれ以上、踏み込まなかった。
「今日は、もうそのままでいいわ」
それだけ言って、視線を書類に戻す。その態度が、かえって胸に残る。決めたのだから次に進め、とは言わない。選んだのだから責任を感じろ、とも言わない。
夕方、仕事を終えて部屋に戻る。いつもの一人用の部屋。狭いが、慣れている。椅子に腰を下ろし、何もせずに、しばらく壁を見ていた。
——選んだ。頭では分かっている。けれど、心はまだ追いついていない。戻らないと決めた実家の風景も、弟の顔も、今ははっきりとは浮かばない。選択は、感情よりずっと先に置かれている。今はそれでいいのだと、どこかで思っていた。急がなくていい。今は、まだ。
王女がそうしてくれたように、自分にも時間を与える。選んだあとに、ようやく分かることがあるのだと——無意識に、そう理解していた。
その夜、私は早めに灯りを落とした。考えるためではない。眠るためでもない。ただ、今日という日を終わらせるために。明日も、同じ朝が来る。同じ仕事があり、同じ時間が流れる。けれど、確かに一つだけ違う。
——もう、戻る前提では生きていない。その事実だけが、静かに、暗闇の中にあった。
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