第44話 越えかけた線
男爵家からの返答は早かった。王女宮からの正式な拒否を突きつけた、その翌日のことだ。今度は書状ですらなく、直接の揺さぶりだった。
「使いの者が来ております」
侍女長の報告に、私は静かに目を伏せた。
「……中へは通していないわね?」
「はい。王女宮の門前で足止めしております」
それでいい。王族付きの侍女を、家政の都合を理由に呼び戻す。それが通らないと悟った瞬間、次に出てくる手段は——おおよそ予想がついていた。
「伝言があるとのことです」
「内容は?」
侍女長は、一拍だけ重い間を置いた。
「『このままでは、弟君の治療が立ち行かなくなる』と」
胸の奥が、静かに冷えていく。——そこを突いてくるか。私は、ゆっくりと、深く息を吸い込んだ。
「それ以上は?」
「『これは家の問題ゆえ、外部の口出しは無用だ』とも」
私は椅子から立ち上がった。ここまで来れば、相手の意図ははっきりしている。家政の話でも、屋敷の管理でもない。人質を取るかのような卑劣な脅しだ。
私は兄の執務室へ向かった。扉を開けると、兄はすでに事態を察しているような顔でこちらを見た。
「来たか」
「ええ」
「……弟をダシに使ったな」
「ええ、そのようです」
兄の表情から、温度が消える。不機嫌という言葉では到底足りないほどの怒りがそこにはあった。
「線を……踏み越えようとしているな」
私は深く頷いた。
「ええ。まだギリギリのところで踏みとどまっている。でも——」
「……時間の問題だな」
兄は短く、吐き捨てるように言った。家政を口実にし、次は弟の命を盾にする。これはもう「戻ってほしい」という願いではない。力で屈服させたいだけなのだ。
「調査の方は?」
「進んでいる」
兄は、机の引き出しを指先で軽く叩いた。
「……証拠はもうすぐ、すべて揃う」
私は再び目を伏せる。リーナはまだ知らない。最愛の弟の名前が、こんなにも醜い形で利用されていることを。
「本人には?」
「まだ、何も」
「正解だ」
兄は即答した。
「今知らせたら、あいつは——自分の身を捧げてでも、戻ってしまうだろう」
その言葉には、確信がこもっていた。恩や義務ではない。彼女の献身的な性質ゆえの、避けられない選択。私は奥歯を噛みしめるように唇を噤んだ。
「だから、先に結果を出すのですね」
「そうだ」
兄は窓の外、遠くの景色を射抜くような目で見つめた。
「調査が終われば、話の土俵は変わる」
それは脅しではなく、冷徹な事実だった。男爵家は、まだ分かっていない。この件が“家族の諍い”で済む段階を、すでに通り過ぎようとしていることに。
私は決める。次に動かすのは、感情ではない。制度ですらない。
——揺るぎない事実だ。そして、それが突きつけられた時。もはや「越えかけた線」では済まされなくなる。
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