第43話 王子の本音
書状への返答が決まった、その日の夕刻。王女宮の一室で、兄と向かい合っていた。机の上には、例の書状。すでに処理済みの印が押されている。兄はその紙面を、指先で軽く叩いた。
「あいつを」
視線は書状に落としたまま。
「戻す理由は、あるか?」
私は即答した。
「ないわ」
迷いのない、断固とした響きだった。補足も説明も、もはや必要ない。兄は、しばらく黙り込んだ。長くも短くもない沈黙。考えているというより、自分の中の境界線を越えるかどうかを測っているようだった。やがて、兄が顔を上げる。
「……なら、俺も反対だ」
静かな声だった。だが、そこに揺らぎはない。王族としての判断でも、兄としての義務でもない。——一個人の確かな意思。私は、その言葉をしっかりと受け止めてから、深く頷いた。
「ありがとう」
「礼を言われることじゃない」
兄は、自嘲するように少しだけ口元を歪めた。
「放っておく理由が、もう見当たらないだけだ」
それが、彼の本音だった。この件に関して、兄はもう“外側”の人間ではない。立場は、はっきりと変わったのだ。——守る側へと。
その夜、私はリーナを呼んだ。応接間の片隅、一日の作業を終えた後の静かな時間。
「実家から、連絡が来たわ」
リーナは表情を変えなかった。驚きも、動揺も見せない。
「戻るように、とのことでしょうか」
「ええ」
それだけで、彼女は状況をすべて理解したようだった。だが、すぐに言葉を返そうとしない。私は、はっきりと告げた。
「今回は、戻る必要はないわ」
リーナの視線が、わずかに揺れた。それは拒絶でも期待でもない。——ただ、事実を確かめようとする確認の眼差し。
「……理由を、お聞きしても?」
媚びることも、責めることもない声。
「理由は、ないからよ」
私は、まっすぐに彼女を見つめた。
「あなたを戻すべき正当な理由が、どこにも見当たらないわ」
リーナは一拍、間を置いた。それから、そっと溜め息をつくように息を吐く。
「……承知いたしました」
疑問も不安もすべて飲み込んだ返事だった。“守られること”に慣れていない者の、精一杯の受け入れ方。
その様子を、扉の外から兄が見ていた。立ち聞きではない。偶然通りかかっただけだ。彼はそこで足を止めなることも、声をかけることもなかった。ただ、思う。
——戻らなくていい。
それだけで、こわばっていた胸の奥がわずかに軽くなる。理由は、まだ言葉にしない。言葉にした瞬間、別の何かに形を変えてしまいそうだから。だが、立ち位置は決まった。
この件に関して、もう引くつもりはない。
守る側に回る。ただ、それだけのことだ。
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