第40話 兆し
男爵邸で、最初に異変が起きたのは、朝のことだった。
夜のうちに整えたはずの玄関が、なぜか薄暗く湿っている。床に残る、拭き跡とも、何かが這った跡ともつかない奇妙な筋。使用人の一人が首を傾げながら、もう一度、布で拭い直した。
「……こんなに湿っぽかったかしら」
誰に言うともなく、呟く。それでも、その場では大事にはならなかった。季節の変わり目だ。雨が続いている。理由はいくらでもつけられた。だが、昼を過ぎる頃には、別の場所でも「違和感」が形を成し始めた。
廊下の角。応接室の隅。掃除をしても、しても、薄くこびりついて離れない重苦しさ。匂いではない。汚れでもない。ただ、空気が澱んでいるのだ。
「……換気を」
「もう、済ませております」
「なら、香を焚いて」
「今朝から、絶やさず焚いているのですけれど……」
使用人たちの声が、次第に硬くなる。夕闇が迫る頃には、それははっきりと自覚できるものになっていた。息が、しづらい。体調を崩す者が出たわけではない。だが、胸の奥に薄い膜が張ったような得体の知れない圧迫感がある。長くいると、理由もなく疲弊していく。屋敷は広い。人手が足りないわけではない。それでも、改善しない。
「……前は、こんなじゃなかった」
誰かが、ぽつりと漏らした。否定する者はいなかった。確かに、前は違った。もっと空気は軽く、澄んでいたはずだ。いつからだろう。そう思っても、誰も答えを出せない。使用人を増やした。掃除の回数も増やした。香も、換気も、手順通りに行っている。
それでも、何かが決定的に足りない。足りない、というより——戻らない。夜、屋敷の奥で、誰かがこらえきれず咳き込んだ。別の部屋では、風もないのに灯りがゆらりと揺れた。
誰も「おかしい」とは口にしなかった。言葉にした瞬間、もっと厄介なものになる気がしたからだ。ただ、全員が肌で感じている。——何かが、いなくなった。それが何かは、まだ誰も言わない。言えない。
――男爵家の屋敷は、その夜も静かだった。どこまでも静かで、そして、ひどく重かった。
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