第39話 王子のひっかかり
その日の終わり、王子は一人で回廊を歩いていた。特別な用事があるわけではない。執務も終わり、誰かに呼ばれる予定もない。ただ、自室へ戻るには少し早い気がして、無意識に足を動かしているだけだった。
——静かだな。
夜の王女宮は、驚くほど音が少ない。昼間は気にならなかった足音や衣擦れの音が消え、ただ澄んだ空気だけが満ちている。その空気が妙に整っていることに、王子は今さらながら気づいた。
ふと、脳裏に浮かぶ姿があった。黙々と作業をする背中。こちらに視線を向けない横顔。短く、必要最低限の返事。
——リーナ。
王子は、ふと足を止めた。もし。もし、あの侍女がここにいなかったら。その仮定は一瞬で浮かび、すぐに否定された。馬鹿馬鹿しい。いなくなる理由などない。王女も「手放さない」と言っていた。……確かに、そう言っていたはずだ。
それでも、思考の端に「引っかかり」が残る。いなくなったら。もう、あの「居心地の良さ」が失われるとしたら。王子は、わずかに眉をひそめた。特別な会話を交わしたわけではない。劇的に助けられたわけでも、頼り切った覚えもない。それなのに。
「……惜しい、か」
ぽつりと、独り言がこぼれた。「欲しい」ではない。「守りたい」でもない。ただ——失うのが、惜しい。
王子は、その感情の正体に戸惑った。人は、便利なものがなくなれば困るものだ。慣れ親しんだ環境が変われば、違和感を覚える。これは、その程度の話なのだろうか。
……いや、違う。便利だからではない。必要不可欠というわけでもない。それでも、単純に「いなくなったら嫌だ」と思うのだ。
王子は、軽く舌打ちをした。面倒な感情だ。だが、あえて否定はしなかった。否定してしまえば、この引っかかりはもっと深く、心の奥に刺さってしまうと分かっていたからだ。
回廊の先、開いた窓から夜風が流れ込む。そこにあるのは、昼間と同じ、整った空気。——この空気を作り上げているのは、誰の仕事だったか。答えは、分かりきっている。
王子は、再び歩き出した。「離れがたい」という言葉が、頭の隅で静かに反響している。その感情の入り口に、まだ足を踏み入れたばかりだ。今なら引き返すこともできるだろう。
だが、王子は、薄く唇をゆがめて笑った。
……どうやら、もう一度くらいは、その足を止めてしまいそうだ。
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