第38話 リーナの「普通」
それは、予定にない空白の時間だった。王女宮を抜ける途中、王子はふと思い立って回廊を曲がった。理由はない。急ぎの用もない。ただ、吸い寄せられるように足がそちらへ向いただけだ。
廊下の先で、リーナが作業をしていた。床の隅を整え、窓際の飾り布の揺れを直している。動きは静かで、無駄がない。誰かに見られていることを、微塵も意識していない様子だ。王子は、少し距離を保ったまま声をかけた。
「今、邪魔ではないか」
リーナは、すぐに振り返らない。布を置いてから、しなやかに姿勢を正した。
「いいえ。今は区切りのよいところでしたので」
声は落ち着いている。媚びた調子も、硬すぎる緊張もない。
「そうか」
王子は、それ以上近づかなかった。彼女の領分を侵さない位置で、足を止める。
「今日は、少し暖かいな」
世間話だった。意味はない。
「はい。朝よりも、空気が軽うございます」
即答だが、会話を広げようとはしない。必要以上に言葉を足さない。
「王女宮は、風の通りがいい」
「存じております」
それだけ。ふっと沈黙が降りる。だが、気まずさはない。リーナは作業に戻り、王子は立ったまま、それを眺めている。
——売り込まない。王子は、心の中でそう呟いた。気に入られようとしない。役に立つと誇らない。特別だと示そうとしない。ただ、そこにいる。
「……忙しいか」
「はい。ですが、お答えするのに差し支えるほどではありません」
曖昧な返事だが、嘘ではない。忙しい。けれど、不満はない。そういう言い方だ。王子は、小さく息を吐いた。
「楽だな」
思ったままの言葉が、口をついて出た。リーナは、一瞬だけ手を止めたが、すぐに再開した。
「恐れ入ります」
感謝でも、拒否でもない。評価を受け取った、という態度でもない。王子は、それが妙に心地よかった。張り付くような視線もない。探るような沈黙もない。期待も、要求もない。
——一緒にいて、疲れない。それは、王子にとって極めて珍しい感覚だった。
「ではな」
「はい。お気をつけて」
それだけで、会話は終わる。王子は、その場を離れながら思った。力があるとか、ないとか。測定がどうとか。そういう話ではない。この侍女は、“普通”でいようとしている。それを守ってきた。それを、崩さずに生きてきた。
——気に入った。
理由は、説明できない。だが、確かに。王子は、少しだけ足取りを軽くした。




