第36話 変わらない侍女
廊下を歩いていて、ふと足が止まった。理由ははっきりしない。向こう側で、一人の侍女が掃除をしている。いつも通りの、無駄のない動き。音を立てないように、一定の間隔で布を滑らせているだけだ。特別なことは、何もない。
——なのに。視線が、外せなかった。王子は自分が立ち止まっていることに、数拍遅れて気づいた。
「……」
小さく咳払いをし、再び歩き出そうとした、その時。
「何をなさっているの? お兄様」
背後から、落ち着いた声がした。王女だ。王子は、一瞬の間を置いてから振り返った。
「通りかかっただけだ」
言い訳としては、出来が悪い。王女はそれを指摘しなかった。ただ、王子の立っていた位置と、その先にいる侍女を一度見やり、それ以上は何も言わない。
「そう」
それだけだった。王子は、再び前を見る。侍女は、視線に気づいた様子もなく、淡々と手を動かしている。測定が終わっても、何も変わらない。昨日と同じ。今日も同じ。
——変わらない。その事実に、なぜか胸の奥が微かにざわついた。王子は、今度こそ歩き出す。理由の分からない違和感を、まだ言葉にはしなかった。
それは、意図した行動ではなかった。王女宮の回廊を抜ける途中、兄はふいに行き足を緩める。理由はない。用事もない。ただ、いつもより少しだけ、足が止まった。
——いた。応接間の一角。リーナが、黙々と仕事をしている。測定が終わってから、何日も経っているはずだ。それでも、彼女の動きは変わらない。速すぎず、遅すぎず。衣擦れの音さえ立てない。
王子は、柱の影からその様子を窺う。光は差し込んでいる。だが、魔法の気配はない。意識して隠している様子もない。使おうとして、我慢している感じでもない。
——最初から、使う前提で動いていない。それが、一番近い。布巾を絞る手。床に視線を落とす角度。無駄がない。だが、力も入っていない。「抑えている」のではない。けれど、それは「力を抑えている」のとは決定的に何かが違う。
王子は、わずかに眉を寄せた。測定を受けた直後の人間は、たいてい変わる。期待する。怖がる。誇る。あるいは、怯える。だが、彼女には、それがない。
——「抑える」という癖すら、日常に溶け込んでいる。誰かが近づく気配に、リーナは一瞬だけ動きを止めた。振り返らない。確認もしない。ただ、相手が通り過ぎるまで、静かに待つ。必要以上に反応しない。必要以上に、前に出ない。それは、訓練された態度というより——生き方だ。私は、そう思う。力があるから、抑えている。
——違う。抑える生き方を、してきたんだ。力があるかどうかは、後から付いてきただけ。先にあったのは、「目立たない」「出過ぎない」「必要以上に存在しない」という前提。
それは、王宮で身につくものじゃない。もっと、狭い場所。逃げ場のない場所。私は、足を動かした。気づかれる前に、その場を離れる。声をかける理由はない。今、踏み込むべきでもない。だが、胸の奥に澱のような重みが残っていた。
——これは、守るとか、管理するとか、そういう話じゃない。この侍女は、「自分を抑えなければ生きていけない世界」で生きてきた。それを、力の問題にしてはいけない。私は、静かに息を吐いた。違和感は、もう偶然ではない。だが、まだ言葉にはしない。言葉にした瞬間、この均衡は、いとも簡単に壊れてしまう気がした。
だから今は、見るだけでいい。
——変わらない侍女を。
その「変わらなさ」が、どれほど異常で、どれほど重いのかを。
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