第23話 母との約束
それは、本当に些細な瞬間だった。午後の公務を終え、王女宮の回廊を歩いていた時のことだ。リーナはいつも通り、私の数歩後ろを静かに付いてきている。
――ほんの少し、大気が震えた。誰かが遠くで魔法を放ったのだろう。大抵の者は気づきもしないほどの僅かな魔力の揺らぎ。けれど私は視界の端で、リーナの動きが止まるのを確かに捉えた。わずかな静止。浅くなる呼吸。その指先が、無意識に――何かを抑え込むように握り込まれた。私は足を止めた。
「……今のは?」
声をかけると、リーナははっとして顔を上げた。
「失礼いたしました」
返ってきたのは、型通りの謝罪だった。だが、理由の説明はない。私は彼女の瞳を見つめる。さっきの仕草。あれは――迷いだ。魔法を使おうとして、反射的に押し止めた。
「……あなた」
問いは、吐息のように自然と口をついて出た。責める意図も、深く探るつもりもなかった。
「使えない、の?」
リーナは、即座には答えなかった。一拍。二拍……。その沈黙は、言い逃れの言葉を探しているのではない。真実をありのままに告げるべきか、その是非を慎重に押し量っているようだった。
「……使ってはいけません」
短すぎる返答。そこには理由も、弁明も、一切の装飾も添えられていない。言い訳も、説明もない。私は、肺を冷たい空気が満たすのを感じた。
「――誰に、禁じられたの?」
リーナの瞳が僅かに揺れた。
「母に」
それだけだった。胸の奥に、冷たい石が静かに沈み込むような感覚が走った。『使えない』ではない。「使わない」でもない。「使ってはいけない」。それは約束か、命令か。あるいは――呪縛にも似た誓いか。母というのは、実母のことだろうか。今は継母が家を管理していると、事前に目を通した身上調査の記録を思い出した。
私はそれ以上、問いを重ねることはしなかった。詳しく聞いてしまえば、瞬く間に激情が沸き上がり、己の冷静さを焼き尽くしてしまうだろう。自分が彼女の置かれた不遇な境遇と、受けてきたであろう不当な扱いに、耐えがたい憤りを抱いてしまうことを――予見していたからだ。何故だ。どうしてこれほどの才を秘めていると理解していながら。
「――その親は、何をしていたというの」剥き出しになりかけた鋭い問いを、辛うじて喉の奥へと押し込める。今は、まだだ。私は再び、歩みを始めた。リーナもまた、何事もなかったかのように静かに付き従う。けれど、二人の間を流れる空気は、もはや先刻までと同じではない。私の内なる調査は、より深く、昏い段階へと移行する。
それは、単に憤るためだけではない——思索の刻を稼ぐための調査だ。




