第19話 確認しても
兄は、何も聞かなかった。私が「寝室へ来て」と言っただけで、黙って隣を歩いている。廊下を進むあいだ、足音だけが静かに響いた。私は一度も振り返らなかった。今さら言葉を足しても、意味はない気がしたからだ。
寝室の扉の前で立ち止まると、兄が扉を開けてくれた。兄が、私より先に中へ入ることはなかった。——同時に、足を踏み入れる。たった一歩、寝室に入っただけだった。
その場で、二人ともピタリと止まる。まるで体が「待て」と言っているようだった。私も兄も、言葉が出なかった。互いに視線を交わすことすら、できない。天蓋の布は、前と同じように張られている。床も、調度も、何一つ乱れていない。……なのに。
「……なあ」
先に声を出したのは、兄だった。
「ここ、本当にあの日と同じ部屋か?」
私は、答えられなかった。視線が、自然と床へ落ちる。そこに、何かがあった。確かにあったはずだ。染み。ぶどうの色が残った、あの跡。けれど今は——
「消えた、って感じじゃないな」
兄が、独り言のように言う。
「分からなくなった、だ」
その言葉に、胸が詰まる。そうだ。消えたのではない。探せない。どこにあったのか、思い出せない。視線が、そこに留まらない。
私は、気づく。これは「隠された」のではない。「見えなくなった」のだ。
兄が、ゆっくりと息を吸った。そして、小さく——けれど、はっきりと言った。
「……息がしやすい」
私は、はっとして兄を見る。軽い喘息を持つ兄が、こういう言い方をする時は決まっている。苦しくない。無理をしていない。——安心している。
「前はさ」
兄は天井を仰いだ。
「この部屋、胸が重かった。お前が寝るまでの短い時間なのに、苦しくなった。それも、何度も」
私は、喉の奥が締め付けられるのを感じた。掃除が足りないから? 管理が甘いから? 違う。——整え方が、違っていた。見た目ではない。「汚れ」を取ることでもない。
ここにあるのは、人が“楽に呼吸できる状態”だ。私は、ゆっくりと床を見下ろす。そこには、何もない。けれど、それが「安全」だと、初めて分かる。
順番を——私は、順番を間違えたのではないか。守るべきものを、後回しにして。裁くべきでないものを、先に裁いた。
「……順番を、間違えたのは」
声が、震えた。
「……私?」
兄は、何も言わなかった。ただ、その沈黙が、答えだった。
――沈黙が、胸の奥に重く沈んだ。




