第18話 兄の証言
考えるより先に、身体が動いていた。
入浴の準備を中断させたまま、私は廊下を早足で進む。理由は、はっきりしていない。ただ、このまま湯に浸かる気にはなれなかった。
兄の部屋は、私の寝室とは別棟にある。扉の前に立った時、ほんの一瞬だけ躊躇したが、ノックは軽く済ませた。
「お兄様、私です」
「お、どうした? 珍しいな」
返事と同時に扉が開く。兄は書類を広げた机の前に座っていて、私の顔を見るなり、少しだけ目を丸くした。
「その顔……何かあった?」
「……確認したいことがあって」
そう言ってから、言葉に詰まる。どう切り出すべきか分からない。怒っているわけでも、責めたいわけでもない。ただ——。兄は私を椅子に座らせ、自分は机に腰を預けた。
「で?」
促されて、私は口を開く。
「先日、お兄様が……ぶどうのジュースをこぼしたと言っていたでしょう。私の寝室で」
「ああ、あれか。雷が凄い日だったからな。お前の部屋へ様子を見に行った日だよな?」
兄はあっさり頷いた。
「お前は昔から雷が嫌いだと知っていたからな。きっと部屋から出ていないだろうから、喉が乾いているかと思って持っていったんだ。だが、ベッドの手前で躓いて、零してしまった」
優しい声で、私の困惑に気を遣っている話し方だった。
「……量は?」
「結構。床に派手にいったな」
胸の奥が、ひくりとする。
「それで……そのあと、どうしたのですか」
「どうもしてないぞ?」
兄は不思議そうに首を傾げた。
「拭く布もなかったし、夜中だったしな。朝になったら侍女が来るだろうって」
私は、思わず視線を落とした。——あれ。私、あの娘に怒っちゃった……。頭の奥に、さきほどの感情が蘇る。汚れている、だらしない、管理が行き届いていない——そう決めつけて、叱った。あの日から、侍女は誰一人として私の部屋を掃除していないはずなのに。兄は、そんな私の沈黙をどう受け取ったのか、肩をすくめる。
「まあ、悪かったとは思ってる。でもさ」
少しだけ、声音が変わった。
「……あんな部屋で寝るなよ。病気になる」
私は顔を上げた。
「え?」
「床がどうとかじゃない。空気が重すぎるんだ」
兄は、あっけらかんと言う。
「お前が寝るまでそばにいたが、息が詰まりそうだった。あれ、長くいたら体調崩すぞ」
——空気が、重い。さっきあの部屋で私が感じたことと、真逆の言葉。胸の奥で、何かが静かに崩れる。私は、唇を噛んだ。
「……では」
声が、少し震える。
「あの状態から……どうやって、“あそこまで”整えたのですか?」
兄は答えない。
ただ、少し困ったように眉を寄せる。
「整っていたのか? それは……逆に、その理由を俺が知りたいくらいだな。侍女が頑張ってくれたんじゃないのか?」
その言葉が、決定打だった。私は立ち上がる。もう、ここに留まる理由はなかった。確かめなければならない。
——今度は、怒りの感情ではなく。
私は、あの部屋が“どうなったのか”ではなく、“誰が触れたのか”を確かめに行く。




