四つの花 『八.過去』
慶応三年(1867年) 葉月(8月)
「今日は、お月様が良く見えて良かったですね・・・。
兄上・・・」
私は、司郎兄上の部屋の障子を少し開けながら言った。
廊下には、三方(供物台)の上に置かれたまん丸いお月見団子と魔除けのすすきがあった。
そして、暗い藍色の空には淡い黄色の望月が浮かんでいた。
障子の隙間から、涼しい風が入って来た。
鈴虫の声も、聞こえて来る・・・。
もうそろそろ、秋だ・・・。
振り返ると、兄上は布団の中から月を眺めていた。
そして目を細め、呟いた。
「『あの時』も・・・このように・・・月が・・・綺麗な夜だった・・・」
「え・・・?」
私は兄上の言葉に、戸惑った。
兄上は月を真っ直ぐ見つめながら、続けた。
「『あの人』を・・・。
死んだ『あの人』を見つけた時も・・・このような満月の夜だった・・・」
「・・・」
もうあまり起き上がれなくなった兄上が、私に視線を移して言った。
「ゆきは・・・もう・・・知っているのだろう・・・?」
私はその言葉に、知らないふりをして聞き返した。
「何を・・・ですか?」
兄上は今度は天井に視線を移し、続けた。
「私が、『労咳』に罹った理由を・・・」
「・・・」
私は、沈黙した。
何故なら、その理由を私は何となく知っていたから・・・。
兄上は、天井を眺めながら言った。
「隠さなくても・・・良い・・・。
人の口に、戸は立てられぬ・・・。
それも、その話が駆け落ちなら・・・尚更だ」
「・・・」
「それと・・・私に対するお前の態度が、ある時から少し変わった事に・・・気付いていた。
きっと・・・ゆきも『あの話』を知ってしまったのだと思った・・・」
「・・・」
『ああ・・・。
やはり、兄上は私の心の変化に気付いていたのだ・・・』
私は、震えながら兄上に聞いた。
「・・・どうして・・・そんな事を・・・聞くのですか・・・?」
兄上は、自嘲気味に笑いながら言った。
「ゆきに・・・私の過去を・・・聞いて貰いたいと思ったからだよ・・・」
「私に・・・?
どうして・・・ですか・・・?」
「私は・・・もう・・・長くはないから・・・」
「!!!」
私は、言葉を発する事が出来なかった。
『そんな話、聞きたくない・・・!!』
私は、心の中で叫んだ。
兄上は、自分の過去を話してから
『死にたい』
と思っている。
自分の過去を話せば、
『死ねる』
と思っている。
だからもし私が兄上の過去を聞いたら、
兄上は
『消えてしまうのかもしれない』
と私は思った。
それに兄上の過去は、
私にとって
『受け入れたくないもの』
だった。
だから、私は兄上の過去なんて聞きたくなかった。
でも・・・。
でも・・・今、聞かなければ・・・。
きっと・・・
『後悔する』
と思った。
私も・・・。
そして・・・。
兄上も・・・。
私は、
『聞かなければならない』
と思った。
私は布団に横たわる兄上にゆっくりと近づき、傍に座った。
そして、黙ったまま兄上の言葉を待った。
兄上は私に優しく微笑み、呟いた。
「・・・聞いて・・・くれるのか・・・?」
私は黙って、こくりと頷いた。
兄上は、私をじっと見つめた。
私を見つめる兄上の目は私ではなく、遠くを見ているようだった。
兄上はにっこり微笑み、話し始めた。
「私は父上や母上が決めた人なら、結婚する相手は誰でも良いと思っていた・・・。
それが、家の為だと思っていた・・・。
周りもそうであったから、何の疑問も持たなかった・・・。
それが普通の事だと、考えていた・・・。
・・・いや。
ただ・・・『何も考えていなかった』だけなのかもしれない・・・」
「・・・」
「四年前、江戸へ留学した時・・・私は『ある女性』に出会った・・・。
その女性の名は、お静・・・。
貧しい、農家の女性だった・・・」
「・・・」
「お静に初めて出会った時、激しい雨が降っていた・・・。
私は道場の帰り、傘も差さずに一人で雨の中に立っているお静を見付けた・・・。
お静の手はあかぎれだらけで、目はどことなく虚ろだった・・・。
髪は乱れ・・・そして、裸足だった・・・。
私は、お静の許へ駆け寄った。
自然に、身体が動いた。
私は、自分の傘をお静に差し出した。
お静は、私を見上げた。
私の心は、高鳴った。
雨に濡れたお静は、とても美しかった。
私は自分の心の乱れをお静に気付かれないように、お静に言った。
『こんな所にいては身体が冷えるから、庇のある所へ行きましょう』
と。
お静は、何も答えなかった。
ただただ、私を見つめていた。
私は震える手でお静の肩を抱き、近くの商家の庇の下へお静を連れて行った。
私は、お静に聞いた。
『何故、傘も差さずに立っていたのですか?』
と。
お静は、ゆっくりと小さな声で答えた。
自分は、村のはずれに住む農家の女だと。
夫に二年前に先立たれ、一緒に生きて来た夫の忘れ形見を昨日亡くし、頼るところもなく、生きるかいもなく、『死に場所』を求めて彷徨っていたそうだ。
私はお静を気の毒に思って、お静に言った。
『貴方が死んでも、夫も子供も戻って来ない』
『彼らも、貴方が死ぬ事を望んでなどいない』
『貴方が長く生き、亡くなった人達の事を忘れないでいる事が、彼らへの供養なのではないか』
と。
当時、私はまだ十七歳。
こんな言葉しか、見つからなかった。
私は、必死だった。
夫や子供の後を追ってお静まで死んでしまったら、お静があまりにも『可哀そう』だと思った。
お静には、どうしても
『生きて貰いたい』
と思った。
・・・いや・・・。
違う・・・。
恐らく・・・あの時既に、お静を見た時から、私はお静の事を好いていたのだ。
だから、私は
『私の為に、お静に生きて貰いたい』
と思ったのだ」
「・・・」
「お静が、私の言葉を受け入れてくれたのかどうかは分からない・・・。
しかし、お静はじっと私の言葉を聞き続けてくれた。
そして二日後、同じ場所、同じ時間に会う約束をした。
『誰かと一緒にいれば、死にたいなどとは思わなくなりますよ』
と、取って付けたような理由を言って・・・」
「・・・」
「私は二日間、ずっとお静の事だけを考えていた。
二日後が、待ち遠しかった。
お静に再び会える事が嬉しくて嬉しくて、その事を考えているだけで幸せだった。
二日間は、あっと言う間だった。
私は少し早く『あの場所』に着き、お静を待った。
『お静は、来てくれるのだろうか?』
『もしあの時が、最後だったら・・・』
私は、不安と期待で落ち着かなかった。
すると、私に近づいて来る女性を見付けた。
それは、お静だった」
「・・・」
「その日は、とても天気の良い日だった。
太陽の光を浴びたお静は、『あの時』会った時よりも美しかった・・・。
・・・とても・・・美しかった・・・」
「・・・」
「私達は、他愛もない話をしながら一緒に歩いた。
ほとんどが私の話で、お静は私の話を黙って聞いているだけだったが・・・」
「・・・」
「私はお静と一緒に居られるだけで楽しく、幸せだった。
お静に喜んでもらおうと、私は子供のように夢中になって色々な話をした」
「・・・」
「私達はその後、何度も会うようになった。
お静はとても物静かで、いつも優しく微笑んでくれた。
お静は、私の話を真剣に聞いてくれた。
私が少し寂しそうにしていると、お静はあかぎれの手で私の手を優しく握ってくれた。
お静の手は、とても暖かかった。
お静と一緒に居るだけで、心が和んだ・・・」
「・・・」
「ある日、私は伽羅で作られた『源内櫛』を町で見付けた。
伽羅の甘い香りと桔梗の模様が、お静に良く似合うと思った。
私はその櫛を買い、お静に贈った。
お静は、言った。
『こんな高価なものを頂くわけには、まいりません。
わたしは、司郎様に生きる喜びを再び教えていただきました。
これ以上、求めるわけにはまいりません。
わたしは司郎様とお会いするだけで、幸せですから・・・』
そう言って、お静は絶対に櫛を受け取ろうとしなかった。
お静は頑固で、芯のしっかりした女性だった。
だが私は、どうしてもお静に櫛を身に付けてもらいたかった。
何か『形あるもの』を、『目に見えるもの』を、お静に身に付けていて貰いたかった。
お静が櫛を身に付けていてくれれば、ずっと私はお静の傍にいられると思った。
お静が、私の事を忘れないでいてくれると思った。
私は会う度に、何度も何度もお静に櫛を贈ろうとした。
だが、お静はいつも受け取ってくれなかった。
お静は、本当に頑固だった・・・」
兄上はお静様を思い出したのか、とても懐かしそうに微笑んだ。
兄上は、続けた。
「だが、私も頑固だった。
受け取ってくれるまで、ずっと贈り続けた。
そして一年後、お静はやっと櫛を受け取ってくれた。
困ったような、泣き笑いのような顔をしてお静は
『ありがとうございます。
大切にします』
と、言ってくれた。
それからお静は、ずっとその櫛を自分の髪に挿し続けてくれた。
『伽羅の香り』は、やがて『お静の香り』になった・・・」
「・・・」
「ある時から、お静は咳をするようになった。
私は、細い身体で激しく咳をするお静を心配した。
『大丈夫ですから・・・。
風邪を引いているだけですから・・・』
と、お静は苦しみに耐えながら笑顔で言った。
だが、いつまで経ってもお静の咳は止まず、熱っぽさも引かなかった。
薬湯も、効かなかった。
私はこれは
『何か、他の病ではないか』
と思い、無理矢理お静を『養生所』へ連れて行った。
そして其処で、お静が『労咳』に罹っていると言われた」
「・・・」
「『養生所』から帰る途中、お静は苦しそうに私に言った。
『申し訳ありません・・・』
と・・・。
私はお静を抱き締めながら、必死に言った。
『何故、お静が謝る?
『労咳』になったからか?
それは、お静のせいではない!
お静が『労咳』に罹っていた事に気付かなかった、私が悪い!』
と・・・」
「・・・」
「私は何かの役に立てばと思い、手元にあった金子をお静に渡そうとした。
お静は私の手の中にある金子を見て、悲しそうに言った。
『わたしが司郎様にお会いしているのは、決してお金が欲しいからでは・・・ありません・・・』
と。
お静の目には、涙が溜まっていた。
私はその時、初めて知ったのだ。
お静の誇りを、傷つけた事に・・・。
お静を、軽んじていた訳ではない。
純粋に
『お静を助けたい』
『お静の力になりたい』
と思った・・・。
だが、それは私の『驕り』だった。
私の行動は、お静にとって
『悔しく』
『悲しく』
『心ない行動』
に映ったのだろう・・・。
お静は、私が
『自分の命を、金で救おうしている事』
が辛かったのだ。
私は、『お静の気持ち』を考えていなかったのだ。
その時から、私は益々お静を愛するようになった。
私に出来る事は、ただただお静を『愛する事』だけだと思った。
だがお静は自分が『労咳』に罹っていると分かってから、私と一切会わなくなった。
何度もお静の家を訪ねても、
『うつるから、もう来ないで下さい』
と言うだけだった。
私は毎日、薬だけを家の前に置いて帰った。
そんな日が、十日間続いた・・・」
「・・・」
「『私はお静を愛しているのに、苦しんでいるお静を救う事が出来ないのか・・・』
『どうしても、お静に会いたい』
『どうしても、お静の顔が見たい』
『どうしても、お静を助けたい』
だから、私は決心をした。
乱暴な振る舞いだとは思ったが、私はお静の家の戸口をこじ開け、無理矢理家の中に入った」
「・・・」
兄上は私の方を向き、少し困った顔をしながら聞いた。
「ゆきは・・・私が『狂っている』と思うか・・・?」
私はその質問に、何も答えられなかった。
兄上はとても物静かで、落ち着いていて、無理矢理家に入るような、そんな激しい人ではないと、私はずっと思っていたから・・・。
兄上が・・・そこまでお静様を愛していたなんて、想像もしなかったから・・・。
兄上は私から視線を外し、天井を見上げ話を続けた。
「久しぶりに会ったお静は、とても痩せ細っていた・・・。
お静は私の姿を見ると眼を見開き、震える声で呟いた。
『なぜ・・・?』
と。
お静は、哀しい目をしていた。
私は堪らなくなり、以前よりも細くなってしまったお静を強く抱き締めた。
お静は始め戸惑ったが・・・か細い腕で、優しく私を抱き締め返してくれた。
私は、お静の耳元に呟いた。
『夫婦になろう・・・』
と・・・」
「・・・」
「お静は、大きく真っ黒な目を見開いた。
『信じられない・・・』
と言う目をしていた。
だが、私は『本気』だった。
私には、お静のいない人生など考えられなかった。
考えたくもなかった。
たとえ短くとも、死ぬまでずっとお静の傍にいたいと思った。
お静は私の腕の中でもがきながら、小さな声で叫んだ。
『夫婦なんて・・・なれるわけがありません・・・!
そんなこと、わたしは一度だって望んだことはありません・・・!
望むことなんて・・・できません!
わたしは農民で、あなたは武士です!
身分が、違います!
それに、わたしは『労咳』にかかっています!
あなたのご家族が、反対するに決まっています!
わたしは、あなたにこれ以上迷惑をおかけしたくありません・・・!
あなたを・・・不幸にしたくありません・・・!
わたしのことは・・・もう・・・忘れて下さい・・・!!』
その言葉を聞き、私はお静が壊れるくらい更に強く抱き締め、叫んだ。
『忘れるなんて、出来る訳がない!!
お静がいなければ、私は・・・死ぬ・・・!!』
お静は私の着物を両手で握り締めながら、苦しそうに呟いた。
『わたしのわがままのせいで、あなたをこんな風に思わせるようにしてしまった・・・!
自分のことを・・・家族のことを顧みない人にさせてしまった・・・!
わたしの・・・せいで・・・!
わたしが・・・あなたを愛してしまったせいで・・・!
わたしが、あなたを愛してしまったから・・・!
わたしがあなたを愛し、あなたから離れられなくなってしまったから・・・!
離れたく・・・なかった・・・!
ずっと・・・あなたの傍にいたかった・・・!
そんな日が・・・続くわけがなかったのに・・・!
離れる日が・・・必ず来ると分かっていたのに・・・!
わたしの自分勝手な思いが・・・あなたを苦しめてしまった・・・!
わたしが・・・悪いのです・・・!
許して・・・!!
許して下さい・・・!!』」
「・・・」
「お静は、私に謝り続けた。
『許して下さい。
許して下さい』
と、泣き続けた」
「・・・」
「私は、何故お静が謝るのか分からなかった。
私はお静に会えて、お静と一緒に同じ時を過ごす事が出来て、お静を愛する事が出来て、幸せだったのだから・・・。
お静の為なら私は金も、地位も、武士の身分も、何もいらないと思った。
『お静が私の傍にずっといてくれれば、それだけで良い・・・』
そう思った。
私はお静と共に生きる為、脱藩する覚悟だった。
私は、お静の耳に囁いた。
『私は・・・脱藩する。
そして、二人で蝦夷へ行こう』
と。
お静は目を見開き、私の目をじっと見つめた。
そして、叫んだ。
『いけません!!
脱藩も駆け落ちも、死罪です!!
わたしは・・・もうすぐ死ぬ身です!!
けれど・・・あなたはまだ生き続ける・・・!!
わたしは、あなたを死なせたくない!!』
お静は、息を乱しながら訴えた。
私はそんなお静を愛おしいと感じながら、お静に言った。
『私はお静がいなければ、生きていけない・・・。
お静の為なら・・・死んだって構わない・・・』
と・・・」
「・・・」
「私は自分の思いを・・・思った事を、言葉にした。
お静は、私をじっと見つめ続けた。
私の心は、高ぶっていた。
この先ずっとお静と一緒に居られるかもしれないと言う喜びで、何も見えなかった。
だから・・・この時のお静の『覚悟』と『決意』に気付く事が出来なかった・・・」
「お静様の『覚悟』と『決意』・・・?」
兄上は少し頷き、続けた。
「お静はゆっくりと目を閉じ、そして目を開き、私の目をしっかりと見つめながら言った。
『わかりました・・・。
けれど一つだけ、わたしの『願い』を聞いて下さい・・・』
と。
私は、驚いた。
お静は今まで、私に『願い』などした事がなかった・・・。
私に、遠慮をしていたのだろう・・・。
だから私は、初めての『お静の願い』がとても嬉しかった。
『お静が願う事』なら、私はどんな『願い』でも聞くつもりだった・・・。
私は、お静に聞いた。
『『願い』とは・・・?』
お静は少し頬を赤らめながら、答えた。
『その『願い』は、口には出しにくいことなので・・・。
手紙を・・・したためます・・・。
初めて・・・あなたに、わたしの『願い』を書きます・・・。
司郎様・・・わたしの『願い』を必ず叶えて下さい・・・。
約束・・・してくれますか・・・?』
と。
お静は、真っ直ぐ私の目を見つめて聞いた。
私に、迷いはなかった。
『『お静の願い』を叶えれば、私はお静と一緒になれるのだ』
私は生きてきた中で、これほど嬉しかった事はなかった・・・。
私は喜びで、心が躍っていた。
私は、直ぐに答えた。
『約束する!!
必ず叶える!!』
と。
私は
『お静の『願い』を、必ず叶える』
と、固く誓った。
お静は、にっこりと微笑んだ。
それまで見た中で、一番美しい笑顔だった。
お静は、静かに言った。
『では手紙は、今度迎えにいらっしゃった時にお渡し致します・・・』
と」
「・・・」
「私はその後、
『二日後の、朔の日の夜九ツ(二十四時頃)に迎えに来る』
と言い、屋敷へ戻った。
私は興奮し、ずっと眠る事が出来なかった。
私は他の藩士達に気取られぬ様に旅の準備をし、朔の日の月が・・・満月が輝いていた夜の四ツ時(二十二時頃)に屋敷を出た。
お静とこれから共に暮らす事が出来る事が嬉しく、私は早足で歩いた。
私はその時まで・・・お静の『覚悟』と『決意』に、気付いていなかったのだ・・・。
私はお静の家に着き、外から声を掛けた。
『お静、迎えに来た』
と。
しかし、家の中からお静の声は聞こえなかった。
私は、何度も何度も声を掛けた。
やはり、声は返って来なかった。
私は
『お静は、もしかしたら家の中で倒れているのかもしれない』
と思い、戸口を開け家の中に入った。
家の中は、真っ暗だった。
僅かな月明かりが、部屋を照らしていた。
藤色の着物が、目の中に入って来た。
その藤色の着物は、私がかつてお静に贈ったものだった。
その着物を贈った時も勿論お静は受け取る事を拒んだが、私はお静の家に勝手に着物を置いて行った。
お静は何度も私に着物を返そうとしたが、私は受け取らなかった。
お静はとうとう諦め、
『預かるだけですから』
と言った。
そしてお静は着物を風呂敷に入れて、部屋の片隅に置いた。
ただ時々、お静がその風呂敷を愛おしそうに見つめている事に私は気付いてた。
だから私は家に入って藤色の着物を見た時、やっとお静が私の着物を着てくれたのだと思った。
『お静が、私を受け入れてくれたのだ』
と、思った。
私はお静の事を心配しつつも、喜びを感じていた。
私は、藤色の着物を着てくれたお静に近づいた。
だが近づくにつれて、お静が横たわっている事に気付いた。
私は急いでお静に駆け寄り、抱き上げて言った。
『お静!!
大丈夫か!?』
返事は、無かった。
私の背にある満月が、お静を少しずつ照らしていった。
私は、動けなくなった。
藤色の着物には、血がべっとりと付いていた。
私は、お静の顔を見た。
月に照らされたお静は口から血を流し、顔も血で深紅に染まっていた。
私はお静が血を吐いて倒れ、意識を失っているのだと思った。
私は、早くお静に目を覚ましてもらいたかった。
私は、何度も何度もお静の名前を呼んだ。
『お静お静お静お静お静』
と・・・。
それでもお静は、目を瞑ったままだった。
『嫌な予感』がした。
私は、恐ろしさで震えた。
そして、真っ赤に染まったお静の頬に触れた。
お静はもう既に、冷たくなっていた・・・」
「・・・!!」
「お静は、完全に死んでしまった・・・。
お静の魂は、私から離れてしまった・・・」
「・・・」
「ふと見ると、お静の傍に根のない紫色の附子(鳥兜)の花があった」
「附子・・・」
「その時初めて、私は知ったのだ。
お静は、『労咳』で死んだのではない。
附子の根を食べ、自ら命を絶ったのだ・・・」
「・・・」
「私は、混乱した。
『何故、お静が自ら死を選んだのか?』
『何故、お静は私を置いて逝ってしまったのか?』
『お静にとって、私と一緒になる事はそれ程辛い事だったのだろうか?』
『私が、お静を苦しめたのだろうか?』
『私が、お静を殺したのだろうか?』」
「・・・」
「私は訳も分からず、ただただお静の身体を抱き締め泣き続けた。
どれ位の時間、私はお静を抱き締めていたのだろう・・・。
一生分の涙を、全て流してしまったようだった・・・」
「・・・」
「私は、真っ赤に染まったお静の美しい顔を見つめた。
そして、思った。
『私も、直ぐにお静の後を追おう』
と。
私は、お静を横たえた。
すると、お静の着物の襟の中から手紙が落ちた。
私は、この手紙はお静が私に渡すと言っていた『お静の願い』が書かれた手紙だと思った。
お静は、私と出会うまで字を書く事が出来なかった。
そんなお静に、私は会う度に字を教えた。
お静は、まだ字を書く事が不得手だった。
それでも
『私に伝えたいこと』
『お静の思い』
を、死ぬ前に一生懸命書いたのだろうと思った。
私はお静の最後の手紙を読んでから、『お静の願い』を叶えてから
『死のう』
と思った。
だが・・・読むのではなかった・・・。
読まなければ・・・良かった・・・」
「読まなければ・・・良かった・・・?」
兄上は、泣き笑いのように答えた。
「手紙には
『どうか 生きてください』
と、一言だけ書かれていた・・・」
「・・・」
「『お静の願い』は、『私が生きる事』だった。
お静を失ったのに、お静は『私が死ぬ事』を許さなかった」
「・・・」
「残酷だと・・・思った。
お静がいなければ、私には『生きる意味』がないのに・・・」
「・・・」
「私は
お静の最初で最後の『願い』を叶える為、
生き続けなければならなくなった」
「・・・」
「しかし、このお静の最初で最後の『願い』を、
本当に叶える事は私には出来ない・・・」
「『本当に叶える事は、出来ない』・・・?」
「お静が死んだと同時に、私の魂も死んでしまった・・・。
今、此処にいる私は、単なる入れ物に過ぎない・・・」
「・・・」
すると兄上は懐からあの『匂い袋』を取り出し、私に見せてくれた。
そして、言った。
「お静の傍には、私がお静に贈った櫛が落ちていた。
その櫛は、粉々に砕かれていた。
お静が、砕いたのだろう・・・。
自分から私を、解放する為に・・・」
「・・・」
「櫛は、『苦』と『死』に通じる。
お静は櫛を砕く事によって、私を『自分』から・・・『苦しみ』と『死』から解放しようとしたのだ・・・」
「・・・」
「私はお静がたとえ『労咳』に罹っていても、『苦しい』などと思った事はなかった・・・。
私はお静と居るだけで、それだけで『幸せ』だった・・・。
お静がいつか『死ぬ』と分かっていても、それでも傍にいたかった・・・。
最期まで、一緒に居たかった・・・」
「・・・」
「お静は、そんな私の姿を見る事が
『辛かった』
のかもしれない・・・。
私を、
『救いたかった』
のかもしれない・・・」
「・・・」
「私は、その砕けた櫛の欠片を一つ残らず集めた。
そして、それらをこの『匂い袋』の中に入れて、肌身離さず持つようにした」
「・・・」
「櫛には、『人の魂』が宿ると言う。
この櫛には、『お静の魂』が宿っている。
私はお静と、ずっと一緒に居たかった。
お静の『苦しみ』も『死』も、傍に置きたかった・・・」
そう言って、兄上は『匂い袋』を愛おしそうに眺めた。
そんな兄上を見て、私は思った。
『ああ・・・。
そうか・・・。
あの『匂い袋』の中には、お静様がずっと身に付けていた櫛が・・・『お静様の魂』が宿っていたのだ・・・。
だから、あの『匂い袋』から、何となく『死』が・・・香っていたのだ・・・』
私は、やっとあの『匂い袋』の意味が分かった。
兄上は、『匂い袋』を強く握り締めた。
「私は、自分が『労咳』に罹っていると分かった時・・・心から嬉しいと思った。
これからは、お静と同じ苦しみを感じる事が出来る。
お静を、もっとずっと傍に感じる事が出来ると思った・・・」
「・・・」
「人は私を『気の毒だ』『愚かな人間』だと言うが、私はこの世の誰よりも『幸せ』だ・・・」
「・・・」
沈黙が続いた。
そして、聞こえてしまった・・・。
本当に・・・。
本当に・・・。
小さな声が・・・。
「お静と同じ病で・・・やっと・・・お静がいる所へ行ける・・・。
早く・・・お静に会いたい・・・」
ああ・・・。
『これ』が、兄上の心の奥底にある兄上の
『本当の気持ち』
なのだと、私は思った。
松江久兵衛様がおっしゃっていた、
『兄上が、本当に望んでいる事』
なのだと思った。
私は、月に照らされる兄上の顔を見つめた。
そして、空に浮かぶ満月を見上げた。
この満月は、過去の兄上とお静様を照らした月なのだ。
二人を見つめていた、月なのだ・・・。
しかし、今、この月は、兄上しか照らせない・・・。
そして・・・。
いつか・・・。
兄上は、誰かに知っていてもらいたかったのかもしれない・・・。
遺したかったのかもしれない・・・。
お静様の事を・・・。
そうする事によってお静様を、お静様との思い出を、『永遠』にしたかったのかもしれない・・・。
満月は、兄上を明るく照らし続けた。
兄上は『匂い袋』を握り締めながら、微笑んでいた。




