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むつの花  作者: 野口 ゆき
20/77

二つの花 『八.覚悟』

慶応(けいおう)元年(1865年) 葉月(はづき)(8月)


長岡城は、渡河不可能な二つの『天然要塞(てんねんようさい)』によって守られている。

一つは、増水した信濃川(しなのがわ)

もう一つは、八丁沖(はっちょうおき)である。

八丁沖とは、長岡城の東北に広がる大きな沼である。

東は百束(ひゃくそく)大黒(だいこく)、南は富島(とみじま)亀貝(かめがい)まで広がっている。

南北約一里九町(約5キロ)、東西約二十七町(約3キロ)の大きさだった。

八丁沖には、昼も薄暗くなるほどの背の高い(あし)が一面に生い茂っていた。


この沼には、恐ろしい『噂』があった。


『八丁沖の中央部は、底なし沼になっている』


『八丁沖には、大蛇や怪魚が住んでいる』


だから皆、八丁沖には怖くて寄り付かなかった。


_ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _



その日は、夕焼けがとても綺麗だった。

橙色に染まった夕焼けの中を、(かり)が連なって飛んでいた。

私はその雁を追って、気付いた時には八丁沖に辿り着いていた。

歩きながら雁を眺めていると、小さな葦小屋の中に背中を丸めながら釣竿を垂らして座っている人がいる事に気付いた。

その人を見て、私はある『噂』を思い出した。


長岡藩士・鬼頭熊次郎(きとうくまじろう)様の『噂』を。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


鬼頭熊次郎様は、鬼頭家(三十二石)の二男として生まれた。

剣術が得意で、とても律儀で、生真面目な方だと聞いている。

今は、確か三十八歳位だったと思う。

兄上の少山(しょうざん)様は藩校『崇徳館(そうとくかん)』の教授だけれど、家は大変貧しかった。

鬼頭様は東山(ひがしやま)へ薪を採りに行ったり、川へ魚を釣りに行っては家計を助けているそうだ。

鬼頭様は八丁沖に葦小屋を作り、毎日のように魚を釣ってはそれを魚屋へ売っていたらしい。

そして何日も其処に居続けて魚釣りをしたせいで、鬼頭様の足は内側に曲がっていると言う。

妻子はおらず(『部屋住み』であると言う事を気にしてか)、自分の身体を犠牲にして働いている、とても家族思いな方だと聞いた事があった。


私は今まで、鬼頭様と直接話をした事はなかった。

しかし、機会があれば『話をしたい』と思っていた。

鬼頭様に、ずっと聞きたい事があったから。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


私は、近づいて鬼頭様に声を掛けた。

「あの・・・。

鬼頭様・・・ですよね・・・?」

鬼頭様はゆっくりと振り向き、不思議そうな顔で答えた。

「そうだが・・・貴方は?」

「私は、野口ゆきと申します」

「・・・野口?」

「はい」

鬼頭様は釣竿に目を戻し、しばらく考えた。

そして思い出したのか、顔を上げ、私の方を再び振り向いた。

鬼頭様は、子供のような笑顔で言った。

「ああ!

野口久馬(きゅうま)殿のご息女、ゆきさんか?」

鬼頭様の笑顔がとても可愛らしく、私も笑顔で答えた。

「はい!

はじめまして」

「ああ。

で、どうして、そのゆきさんが此処にいるのだ?

八丁沖は恐ろしがられて、あまり人が来ないのに・・・」

私は、照れながら答えた。

「雁を追って来たら・・・此処に着いたのです」

私の答えに鬼頭様は馬鹿にする事もなく、答えてくれた。

「そうか。

そうか。

雁を追うのに夢中になって、此処まで来てしまったのか」

鬼頭様の無邪気な笑顔に安心し、私は鬼頭様を身近に感じた。

私は、鬼頭様の魚籠(びく)を覗きながら聞いた。

「何の魚が、釣れましたか?」

「それが・・・今日はさっぱりでな・・・」

そう言って、鬼頭様は私に魚籠の中を見せてくれた。

魚籠には、何も入っていなかった。

私は、気の毒そうに言った。

「空っぽ・・・ですね・・・」

鬼頭様は、少し悲しそうに答えた。

「ああ・・・。

今日はもう無理だから、そろそろ帰ろうと思っていたところだ」

「そうですか・・・」

鬼頭様は、本当に残念そうだった。

鬼頭様は、魚釣りの道具を片付け始めた。

私も、手伝った。

手伝いながら、思った。

『今なら、聞けるかも?

ずっと、聞きたかった事が・・・。

でも、こんな時に鬼頭様に質問するなんて失礼かな・・・?

でも、今度いつ聞けるか分からないし・・・』

色々考え、私は鬼頭様に思い切って質問する事にした。

「あの・・・。

一つ、質問をしても宜しいでしょうか?」

鬼頭様は道具を片付けながら、答えた。

「何だ?」

「鬼頭様は、どうしていつも八丁沖で魚釣りをしていらっしゃるのですか?

此処は『底なし沼』だとか、『魔物が住む』とか、恐ろしい『噂』がある所ではありませんか?

そんな恐ろしい八丁沖で、わざわざ魚釣りをしなくても良いのではありませんか?

他の川でも、信濃川でも良いのではありませんか?」

鬼頭様は私の方を向き、私の質問に真面目に答えてくれた。

「八丁沖でなければ、ならないのだ」

「何故ですか?」

「城を守る為だ」

「お城を守る為?」

「そうだ。

信濃川と八丁沖は、『天然の要塞』だと言う事は知っているだろう?」

「はい・・・」

「『増水した信濃川と底なし沼である八丁沖から、敵は城を攻める事が出来ない』

と考えられている」

「はい・・・」

鬼頭様は八丁沖に目を移し、じっと見つめながら続けた。

「だが、元に戻った信濃川から、敵が攻めて来る事は『可能』だ。

それを想定し、長岡藩は対処法をしっかりと考えている。


『川が元に戻れば、敵は舟を使って渡って来るだろう。

ならば、舟を全て壊しておこう』


『川が元に戻れば、敵は川の浅い所から攻めて来るだろう。

ならば、浅い所に人員を多く配備しよう』


『川が元に戻れば、敵は川幅の狭い所から攻めて来るだろう。

ならば、狭い所に人員を多く配備しよう』


渡河が『可能』であると知っていれば、敵がどう攻めて来るかを想定し、どう対処すべきか対策を練る事が出来る」

「はい・・・」

「しかし、八丁沖は信濃川とは()()

「違う?」

鬼頭様は大きく頷き、続けた。

「敵がもし八丁沖から攻めようとするのなら、必ず事前に情報収集するだろう。

情報収集して、敵は知る。


『八丁沖には、底なしの所がある』


『八丁沖には、魔物が住んでいる』


『長岡に住む人でさえ、恐ろしがって八丁沖に近づこうとはしない』


『八丁沖の渡河は不可能だ』


それを知った敵は、危険を冒してまで八丁沖を渡ろうとはしないだろう。

八丁沖を渡るよりも、元に戻った信濃川を渡って攻めた方が成功率も高く、危険が少ないと考えるだろう。

そして、我々も同じように考える。


『八丁沖から、敵は攻めて来ない』


『八丁沖からの攻撃に対する対策を練っても、無駄だ。

寧ろ、信濃川への対応を強化すべきだ』


『我々も、危険な八丁沖からの攻撃は避けよう』


と。


しかし

()()()()()()()()()()()()()()()()だろうか?

()()()()()()()()()()()()()()()()()()だろうか?

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだろうか?」

「・・・」

「いや。

どんな事にでも、『可能性』は必ずある。

敵は、その『可能性』に賭けるかもしれない。

(いくさ)に勝つ為に、敵は八丁沖を渡る『方法』を見つけるかもしれない。

常人では考え付かない『方法』で、死に物狂いで八丁沖を渡って来るかもしれない。

それが、『奇襲攻撃(きしゅうこうげき)』だ」

「『奇襲攻撃』・・・」

「そうだ。

予期しない攻撃に、長岡藩は混乱する。

長岡藩の守備は遅れ、反撃する余裕がなくなる。

多くの犠牲が出る。

長岡藩は、恐怖心や失望感、不安感、脱力感に苛まれる。

長岡藩の士気は低下し、抵抗する気力を失う。

そして、『奇襲攻撃』に成功した敵は自信を持つ。

それは、次の攻撃に『力』を与える。

戦において勝敗を決めるのは、『奇襲攻撃』なのだ」

「では敵が八丁沖から攻めて来れば、敵から『奇襲攻撃』を受ければ、長岡藩は負けるかもしれないと言う事ですか?」

「そうだ」

私は怖くなって、質問した。

「では・・・。

では、どうすれば・・・」

()()()()()()()()()()と言う事は、()()()()()()()()()()()と言う事だ」

「?」

「敵が八丁沖から攻撃を仕掛けて来る前に、我々が先に攻撃を仕掛けるのだ。

『地の利』は他国から来た敵よりも、長岡に住んでいる我々にある」

「でも、どうやって?」

「先ず、

『八丁沖は底なし沼だから、渡る事は不可能だ。

危険だ』

と言う固定概念を取り去る。

取り去る為に、八丁沖の中でも渡る事が『可能』な場所を探す。

渡る事が『可能』であると言う、『事実』を探す。

そして、それを見つけた後、敵が考え付かないような、『不可能』と考えられる作戦を実行する」

「作戦とは?」

「作戦を考えるのは、『軍師の役割』だ。

俺の『役割』ではない。

俺の『役割』は八丁沖を熟知し、渡る事が『可能』な場所を知っておく事だ。

だから俺は八丁沖を知り、城を守る為にいつも此処を訪れ、魚釣りに来るのだ。

それが、俺が八丁沖に魚釣りに来る『理由』だよ。

ゆきさん」


そして鬼頭様は私の顔をじっと見、微笑みながら言った。


「『常在戦場(じょうざいせんじょう)』だよ」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


『常在戦場』とは、

『常に戦場にいる心構えで事をなせ』

と言う意味である。

これは、長岡藩主・牧野(まきの)家の『藩是(はんぜ)』である。

戦国時代、牧野家は三河(みかわ)(愛知)の牛久保城(うしくぼじょう)に住んでいた。

牛久保は武田(たけだ)氏や今川(いまがわ)氏、松平(まつだいら)徳川(とくがわ))氏に囲まれており、其処に住む牧野家は四面楚歌(しめんそか)の状態であった。

いつ滅亡させられるか分らない状況で、牧野家はいつ何が起こっても良いように常に精神を鍛え、質素な生活を心掛けていた。

それがいつしか長岡藩の藩風となり、牧野家家臣の心の拠り所となった。


私は『常在戦場』と言う言葉を聞いて、伊東道右衛門(いとうどうえもん)様の事を思い出した。

伊東様もいつ敵が攻めて来ても対応出来る様に、槍の訓練を怠らないと言っていた。

鬼頭様も、そして他の藩士達も、同じ気持ちなのだろう。


戦場で、何かがあってからの対処では遅い。

それは、死に繋がるからだ。

何が起こっても直ぐに対応出来るように、準備を怠ってはならない。

最悪を、想定しておかなければならない。

『常在戦場』を心掛けていれば、平常心を保つ事が出来る。

そうすれば、想定外の事が起こっても落ち着いて対処出来る。

たとえその時対処出来なかったとしても、その失敗を教訓にし、次回必ず対応出来るようにする。


『常在戦場』は、『死ぬ事』を前提としたものではない。


『生きる為の心構え』だ。


しかし私は以前、團一郎(だんいちろう)が素読していた『葉隠(はがくれ)』の一節を聞き、この 『常在戦場』と言う言葉が『人を殺す』のではないかと思った事があった。

『葉隠』とは肥前(ひぜん)(佐賀)鍋島(なべしま)藩士・山本常朝(やまもとじょうちょう)が、武士としての『心得(こころえ)』を語ったものである。

私が聞いた、その『葉隠』の一節とは、


『武士道と()ふは、死ぬ事と見付たり。

二つ二つの場にて、早く死方に片付ばかり也』


である。


つまり、


武士道(ぶしどう)の本質は、死ぬ事であると知った。

生死二つを選ぶ時、即座に死ぬ方を選ぶべきである』


と言う意味である。


『常在戦場』を旨として生きている長岡藩士は『生きる為』よりも、『常に死ぬ覚悟を持って生きている』ように見える。

だから、もし何かあったら、戦となったら、長岡藩士は躊躇(ちゅうちょ)なく死を選ぶのではないかと思った。

私はこの『葉隠』の一節を聞いて、とても怖いと思った。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


私は、鬼頭様に質問した。

「『常在戦場』は、人を殺しませんか?」

私の言葉に、鬼頭様は怪訝な顔をして言った。

「何故、そう思う?」

私は、説明した。

「以前、私は弟が素読していた『葉隠』の一節を聞いた事がありました。

『生きるか死ぬかの選択をする時、死を選ぶべきだ』

と。

私は『常在戦場』を心掛けている長岡藩士は、常に『死ぬ覚悟』をして生きているのではないかと思います。

だから生死どちらかを選ぶ時、皆、死を選ぶのではないかと思うのですが・・・」

少し怖々しながら言う私の頭を、鬼頭様は大きくゴツゴツした手の平でぽんぽんと叩いてくれた。

それは、私を安心させる為だったのかもしれない。

鬼頭様は、微笑みながら言った。

「ゆきさん。

その一節の『本当の意味』を知っているか?」

「え?

『本当の意味』・・・?

え・・・と」

私は團一郎の素読を聞いた事はあったけれど、実際に『葉隠』を読んだ事はなかった。

だから自信はなかったけれど、自分の思った通りの事を言った。

「武士の本懐(ほんかい)は潔い死であり、それが美しい。

だから何かあった時は、躊躇なく死を選べ』

と言う意味なのではないですか?」

鬼頭様は、首を大きく横に振った。

「それは違う」

「違う?」

「ああ。

山本常朝は死を美化などしていないし、軽々しく死を選べとも言っていない」

私は鬼頭様の言葉に驚き、聞いた。

「そうなのですか!?

では、『本当の意味』とは何なのですか?」

鬼頭様はにっこりと笑い、言った。

「例えば、目の前で誰かが殺されそうになるのを見た時、ゆきさんはどうする?

『助けようとする』か?

『必ず助ける』か?

それとも、『見殺しにする』か?」

いきなりの質問に私は戸惑ったが、何とか考え答えた。

「え?

え・・・と、助ける相手にもよりますが・・・。

流石に、『見殺し』にはしないと思います・・・。

でも、もし自分の家族や友人など大切な人と全くの赤の他人どちらを助けるかと言われたら、

『大切な人は、必ず助けます』

が、

『赤の他人は、助けようとする』

と・・・思います・・・」

「うん。

『見殺しにする』とは、完全に『自分が生きる事を優先している』と言う事だ。

『自分だけ生き残りたい』

『自分さえ生き残れば良い』

と言う『我欲』だ。

『人を助けず自分のみ生きる』を選べば、生きる事は出来るだろう。

しかし、たとえ生き残ったとしても、臆病者と言う不名誉が一生付きまとう。

また『助けようとする』とは、『助ける事を少し躊躇している』と言う事だ。

この躊躇は『人を助けたい』が、『自分も死にたくない』と言う『希望』と『願望』だ。

この『死にたくない』と言う中途半端な『希望』と『願望』は、下手をすると他人も自分も助ける事が出来ない。

『死にたくない』と思うと、『死なない為の方法』を考える。

すると、迷いが生じる。

迷いがあると、隙や弱みが出来る。

隙や弱みが出来れば、それは死に繋がる時がある。

人は

『自分だけ生きたい』

『死にたくない』

と強く思うと、

『死なない為には、何でもしよう』

『死なない為に、何が何でも生きよう』

と考える。

場合によっては、非道な行いまでする事さえある。

もし人が『非道な行いによって生き残る事』が出来たとしても、人は慙愧(ざんき)の心から少しずつ『内側』から蝕まれていく。

そして他者からの(さげす)みの目にも晒され、『外側』からも蝕まれていく。

やがて人は知らない内に、『自分』に、『他人』に殺される。

つまり『見殺しにする』や『助けようとする』を選べば、人は『見苦しい生き方』をし、その結果『惨めな死に方』をするかもしれない」

「・・・」

「一方『必ず助ける』とは、『自分の命に代えてでも、その人を助けたい』と言う『無私の心』だ。

それは、『自分が死ぬかもしれないと言う可能性を選ぶ』と言う事だ。

『死ぬ覚悟』をすると言う事だ。

『死ぬ覚悟』をした人間には、迷いがない。

迷いのない人間は、心に余裕が出来る。

心に余裕のある人間は、落ち着いて対処出来る。

結果、もしかしたら生きると言う事もあり得る。

もし運よく生きる事が出来れば、『生き残った経験』を次に活かす事が出来る。

その経験を活かす事が出来れば、今後、死ぬ確率が減る」

「・・・」

「また『必ず助ける』を選んで万が一自分が死んだとしても、それは恥にはならない。

その死は『犬死』ではなく、意味のある、『名誉ある死』となる」

「・・・」

「つまり、『必ず助けるを選んだ死ぬ覚悟をした人』は、

『生きても』『死んでも』、その生き方は賛美される。

『生きても』『死んでも』、その名は語り継がれる。

『生きても』『死んでも』、その人は永遠に生き続ける」

「・・・」

「常朝の言う『生死を選ぶ時に死を選べ』と言う言葉は、

『死を覚悟して事に臨めば、見苦しい生き方をしない』

『誇りを持って生きる事が出来る』

『潔く生きる事が出来る』

と言う事だ。

その為にも、常に『死を覚悟して生きろ』と言う事だ。 

その『死ぬ覚悟』とは、『死ぬ為の死ぬ覚悟』ではなく、

()()()()()()()()()

だ。

『生きる為の死ぬ覚悟』を持つ事が、生きる事に繋がる。

『生きる為の死ぬ覚悟』を持つ事が、『武士の本懐』である。

それが、『武士道』であると言う事だ」

「『生きる為の死ぬ覚悟』を持つ事が、『武士道』・・・」

鬼頭様は、続けた。

「常朝は、決して死を美化などしていない。

常朝は、決して死を軽んじてはいない。

ゆきさんが解釈した『葉隠』は、本当の『葉隠』ではない。

意味を、取り違えてはいけない。

それは、とても危険だ。

もし、ゆきさんが解釈した通りの事が正しいと思われた場合、人の命が軽んじられてしまう可能性がある。

『躊躇なく死を選べ』と言う解釈の下では、何かあった時、人は玉砕や自決など自分の命を簡単に捨てる行動を取り兼ねない。

解釈によっては、人を殺す事さえある。

本の本質を、正確に理解しなければならない」


私は鬼頭様の言葉を聞き、継兄さんの言う『精読(せいどく)』の意味がやっと分かった気がした。

本の本質を知る事は先人の声を聞き、思いを正確に理解する事なのだと思った。


鬼頭様は、続けた。

「俺達は、死を恐れてはいない。

恐れているのは、『犬死』と『見苦しい死に方』だ」

「・・・」

「そうならない為にも、俺達は『常在戦場』を旨としている。

『常在戦場』は、常朝の言う『生きる為の死ぬ覚悟』をしろと言う事だ。

『常在戦場』は、人を殺さない。

人を生かす為の『言葉』だ。

潔く生きる為の『心構え』だ」

「・・・」

そして鬼頭様は青色と紫色に染まる空を眺め、目を細めながら言った。

「命は・・・貴い・・・。

だから・・・」

鬼頭様は、言葉を止めた。

私は鬼頭様の横顔を見ながら、言葉を待った。

鬼頭様は唇を少し噛み、続けた。

「・・・だから俺達は、簡単に死を選ばない」

鬼頭様の顔は、とても優しい顔をしていた。

私はその顔を見て、少し安心した。

そして、私も鬼頭様と同じ空を見た。


しばらく二人で空を眺めた後、鬼頭様は私の方を向いて言った。

「・・・そろそろ帰るか・・・。

送ろう。

ゆきさん」

そう言って、鬼頭様は魚釣りの道具を持って立ち上がろうとした。

その時、鬼頭様は少しよろけた。

私は、咄嗟に鬼頭様を支えた。

鬼頭様は、済まなそうな顔をして言った。

「ああ。

有難う。

ゆきさん」

「いえ・・・」

私はそう言いながら、無意識に鬼頭様の曲がった足を見た。

鬼頭様はそんな私に気付き、言った。

「ゆきさんは、俺の足を気の毒だと思うか?」

私は、戸惑った。

自分の心が、読まれてしまったのかと思った。

『鬼頭様は不自由な足のせいで、きっと苦労されているのだろうな・・・。

お気の毒だ・・・』

確かに、そう思っていたからだ。

でも

『鬼頭様は、お気の毒です』

と、はっきり言って良いのか分からなかった。

鬼頭様は

『同情される事を、悲しむのではないか?』

と思った。

私が言葉を探していると、鬼頭様は自分の足を見つめながら答えた。

「人は生まれた時から、『不平等』だ・・・」

「え?」

私は、鬼頭様の言葉に驚いた。

鬼頭様は、苦笑いしながら続けた。

「生まれながら有能な人もいれば、無能な人もいる。

生まれながら身分の高い人もいれば、身分の低い人もいる。

生まれながら剣術が得意な人もいれば、不得意な人もいる。

生まれながら絵が上手な人もいれば、下手な人もいる。

生まれながら美しい人もいれば、醜い人もいる。

生まれながら裕福な人もいれば、貧しい人もいる」

「・・・」

「人は、生まれを変える事は出来ない」

「・・・」

「だから

『こうありたかった』

『こうあれば』

と想像する事も悩む事も、無意味だ」

「・・・」

「人は、『不平等』である事を受け入れなければならない」

「・・・」

「だが、問題はその『不平等』を受け入れた後だ。

『不平等』を受け入れ、人は変わらなければならない。

『運命』は、変わる。

人は、()()()()()()()()()()()()()()

勿論『運命』が変われば、変えれば、今より良くなるとは限らない。

もしかしたら、今より悪くなるのかもしれない。

それでも、少しでも、今より

『変わりたい』

『変えよう』

と言う気持ちさえあれば、人は自分の『運命』を変える事が出来る。

()()()()()()()()()()()()()()()、『()()()()()』。

これこそ、上杉鷹山(うえすぎようざん)公の

()らぬは人の()さぬなりけり』

だ。

何もせずに『不平等』を受け入れないまま生きるよりも、良くなるかもしれないと言う可能性に賭け、自分の『運命』を変えた方が、自分の人生を生きていると実感する事が出来る。

『良く生きる』事が出来る」

「・・・」

そう言うと、鬼頭様は私の顔をじっと見て言った。

「人生は、一度しかない。

精一杯生きて、悔いのない人生を生きた方が、同じ『生きる』でも『意味』があると、俺は思う」

鬼頭様は、自分の曲がった足をさすりながら言った。

「俺の足がこうなったのは、俺が選んだ『運命』だ」

「鬼頭様が選んだ・・・『運命』・・・?」

「知っての通り、俺の家はあまり裕福ではない。

次男の俺が魚を釣って売り、少しでも家計を楽にするしかない。

まあ。

『働かざる者食うべからず』と、安藤昌益(あんどうしょうえき)も言っているしな・・・」

「・・・」

「俺の足はこのような形になってしまったが、俺はそれを今まで恨んだ事は無い。

家族が幸せになるのなら、それで良いのだ。

それが俺の選んだ『運命』であり、俺の『役割』でもあるのだ」


『運命』・・・。

『役割』・・・。


以前、はるちゃんも言っていた。

自分の『運命』や『役割』について・・・。

鬼頭様とはるちゃんの姿が、重なった。

私は鬼頭様やはるちゃんのように、自分の『不平等』を受け入れた事も無いし、自分の『運命』を変えた事も無いし、自分の『役割』も未だに分からない。

私は、自分が情けなかった。

それと同時に、私は思った。

『鬼頭様達のように『不平等』を受け入れ、『運命』を変える事が出来るのなら、探し続けている私の『役割』を見つける事が出来るのかもしれない』

と。

そして、その方法を知りたいと思った。

私も自分の『運命』を変えたい、自分も変わりたいと思った。

私は、口を開いた。

「私は時々

『自分が、もっと美人だったら』

とか、

『男に生まれれば、江戸へ留学に行けたのに』

と思う事があります。

でも、それは変える事の出来ないものだと思って諦めていました。

どうしたって、私は美人にはなれないし、男にもなれないからです。

私は鬼頭様のように『不平等』を受け入れた事もないし、自分を変えようと思った事もありませんでした。

でも、もし変える事が出来るのなら、変えたいです」

すると、鬼頭様は悲しそうに微笑みながら言った。

「・・・俺も、昔、ゆきさんのように『不平等』を受け入れる事が出来なかった。

自分の『不平等』や『これまでの運命』を、呪った。

『自分が、長男に生まれていれば』

『自分の家は、何故こんなにも貧しいのだろう?』

『自分は、何故こんなにも苦しいのだろう?』

『こんな家に、生まれてこなければ良かった』

俺は『不平等』も、自分の『これまでの運命』も受け入れる事が出来ず、恨み、憎み、苦しんだ。

俺はその恨みや憎しみや苦しみを、得意な剣術にぶつける事によって発散した。

俺の剣術は、どんどん上達していった。

誰にも負けない位になった。

だが、それと同時に俺の剣筋は鋭くなり、次第に人を傷つけるようになっていった。

剣術道場に通う人間の多くが、俺よりも裕福な家の人間だった。

俺は彼らに自分の気持ちをぶつける事によって、彼らを傷つける事によって、知らず知らずに自分の鬱憤(うっぷん)を晴らしていたのだ。

心が、荒んでいった。

次第に、俺と一緒に竹刀を交える人間がいなくなっていった。

この時の俺は、彼らを単なる腰抜けだと思っていた。

裕福だから、心が弱いのだと思っていた」

「・・・」

私は、穏やかな鬼頭様にもそんな時代があった事に驚いた。

私は、何も言えなかった。

鬼頭様は、続けた。

「ある日、俺はいつものように八丁沖へ魚釣りに出掛けた。

その帰り、一輪の赤紫色の躑躅(つつじ)を目にした。

俺は『母に喜んでもらおう』と思って、躑躅を手折った。

今思えば躑躅に対して申し訳なかったと思うが、あの頃はそんな事を思う余裕もなかった。

家に帰り、俺は母に躑躅を渡した。

母はその躑躅を見て、言った。

『躑躅を手折ったのですか?

可哀そうに・・・。

花も、一生懸命生きているのですよ。

これからは、簡単に命を狩ってはいけませんよ』

そう言って、母は花瓶に躑躅を挿した。

そして大切そうに、愛おしそうに躑躅を見つめた。

しばらく躑躅を眺めた後、母は私の方を振り向き、悲しそうに言った。

『有難う・・・。

熊次郎・・・。

私の為に、躑躅を手折って来てくれたのでしょう?

お前には、いつも苦労を掛けて・・・申し訳ないと思っています・・・』

そして、母はにっこりと笑った。

俺は、久しぶりに母の姿を間近で見た。

『母の髪は、こんなにも白かっただろうか?』

『母の顔に、こんなにも皺があっただろうか?』

『母の手は、こんなにも(あかぎれ)だらけだっただろうか?』

『母は自分の境遇に、今まで文句を言った事があっただろうか?』

『母は私が手折った事を諌めたけれど、私が手折った、たった一輪の躑躅を喜んでくれた』

俺は母の姿を見て、初めて気付いた。

母は『不平等』を、自分の『これまでの運命』を受け入れ、生きている。

そして、それらを受け入れつつも、自分の『これからの運命』を選んで生きているのだと思った。

だから、あんなにも優しく微笑む事が出来るのだと思った。

それなのに、俺は『不平等』も『これまでの運命』も受け入れようとしなかった。

自分は、今まで変わろうとしなかった。

自分が変わろうとしなかったから、人を傷つけ、憎み、恨んだ。

だから、苦しかった。

貧乏で不幸せだと、苦しいと思ったのは、『不平等』を受け入れなかった『自分の心』のせいだったのだ」

「・・・」

「『俺は今まで自分の態度や言動によって、どれだけの人を傷つけて来たのだろうか?』

『俺は自分が振るう刀で、自分も他人も傷つけていたのではないか?』

『自分の心は、両刃の剣だったのではないか?』

俺はそれに気付いた時、本当の苦しみを知った。

そして俺は憎んでも、恨んでも、苦しんでも、『意味が無い』事に気付いた。

俺は、考えた。

『不平等』も『これまでの運命』も、変わる事はないし、変える事も出来ない。

俺は『不平等』を、『これまでの運命』を受け入れるしかない。

ならば、『これからの運命』は自分で変えようと思った。

『これからの運命』は選ぶ事も、変える事も出来ると思った。

そう思うと、気持ちが少し楽になった。

心に、余裕が出来た。

今まで見えなかったものが、見えるようになった。

今まで感じなかった事を、感じるようになった。

どんなに小さな事でも、幸せだと思えるようになった。

道端に小さな花が咲いているだけでも、幸せだと思うようになった。

世の中には、幸せが沢山あると思うようになった。

家が貧しいからこそ、小さな幸せを沢山感じる事が出来ると思うようになった。

辛く苦しい中でも、人は幸せを見つける事が出来ると思うようになった。

幸せは、人それぞれだと思うようになった。

自分の辛さを知っているからこそ、他の人の辛さを理解する事が出来ると思うようになった。

人を傷つけると言う事は、自分も傷つく事だと知った」

「・・・」

「『不平等』を、『これまでの運命』を受け入れた俺は、自分の『これからの運命』を変える為にどうすべきかを考えた。

『次男だからこそしがらみもなく、自由に生き方を決める事が出来る。

ならば、自分の為すべき事をしよう』

『私を愛してくれている家族に、与えられる以上の愛情を与えよう』

そして、俺は具体的にどうすれば良いかを考えた。

『俺に特別な能力があれば、藩の重役になれるかもしれない。

しかし、俺は平凡な人間だ。

ならば、自分の出来る範囲の事をしようと思った。

では、俺の出来る事とは何だ?

俺が出来る事は、剣術と働く事だと思った。

『剣術が上達すれば、何かあった時に藩も家族も守る事が出来る』

『八丁沖でもっと魚を釣って、今よりも家族に楽をさせよう』

『八丁沖を熟知していれば、敵が攻めて来た時に役に立つはずだ』」

鬼頭様は夕日に染まる八丁沖を眺めながら、続けた。

「俺は『不平等』を、『これまでの運命』を受け入れ、『これからの運命』を変え、俺の人生を変える事が出来た。

だから、ゆきさんも出来るはずだ」

「私・・・にも・・・?」

鬼頭様は深く頷き、言った。

「俺はゆきさんが不美人であるとは思わないが、もしゆきさんがもっと美人になりたいと思うのなら、心を美しくすれば良い」

「心を美しくする?」

「化粧をしても、限界がある。

あまりにも分厚い化粧は、却って品がない。

心が美しければ、姿も美しい。

心の美しさは、所作(しょさ)や言葉、表情に表れる。

それと、もし江戸へ留学したいのなら、女でも江戸留学が出来るように勉学に励むと良い。

江戸留学へ行く人間は、やはり優秀な人間が多い。

確かに天才もいるだろうが、大抵の人間は努力して藩に認められて江戸へ行っている。

だから人一倍勉学に励み、藩に認められるまで知識を蓄えるのだ。

そして女でも江戸留学をする権利があり、藩を、国を支える一員になれると証明すれば良い。

これらは、()()()()()()()()()()()()()()』だ」

「・・・」

私は、どちらも自分には難しいと思った。

でも『運命』を本気で変えようと思うのなら、やはり努力をしなければならないのだと思った。

私は自信がなかったけれど、力強く答えた。

願いも込めて。

「はい!!」

鬼頭様は私の元気の良い返事に満足そうに頷き、静かな声で言った。

「長岡藩には、

(ひん)(さむらい)の常という事』

日陰奉公(ひかげぼうこう)という事』

と言う言葉がある」

「『(さむらい)恥辱(ちじょく)十七ヵ条(じゅうななかじょう)』ですね・・・」

「そうだ。

これらは先人の(いまし)めであり、教えであり、願いでもある。

この言葉を思い出す度に、俺は思うのだ。

『辛い思いをしているのは、自分だけではないのだ』

と。

自分のように・・・。

いや。

『自分以上に辛い思いをしてきた人は、沢山いたのだ。

だからこそ、この言葉が残っているのだ』

と。

だから、

『自分も、耐えねばならないのだと思った。

この言葉を(かて)に、俺達は生きてきたのだ。

自分も、そう生きよう』

と」

そう言うと、鬼頭様は小さくなった雁を見えなくなるまで眺めた。

そして、ぼそりと言った。

「此処にいると、とても落ち着く・・・。

空気は美味しいし、城下では見られない花や木を見る事が出来る・・・。

動物や虫にも、触れる事が出来る・・・。

ゆっくりと、空を眺める事が出来る・・・。

底なし沼と言われているこの沼も、朝昼晩全て違う顔を持っている・・・。

俺が好きなのは、夕方の今の時間だ・・・。

此処にいると、自然と一体化していると感じられる・・・。

自然の中で生きていると、自然が色々と教えてくれる・・・。

人の中では見られないものを、見せてくれる・・・。

此処での経験や知識は、俺以外誰も持っていないものだ・・・。

『俺だけのもの』だ・・・」

「・・・」

「俺は出来ればこの美しい八丁沖を戦に利用されたくないし、汚されたくない。

だが藩や家族を守る為に俺の経験や知識が必要な時が来れば、俺は必ずそれを活かす。

その為に俺の足はこんな形になってしまったが、俺はそれを自分が変えた『運命』だと思っている。

俺の足は俺が変えた『運命』の証拠であり、誇りでもある。

だから、()()()()()()()()()()()()()()()・・・。

ゆきさん」


微笑んだ鬼頭様の顔は茜色に染まり、光っていた。


私は、鬼頭様をとても美しいと思った。


私もいつか、こんな顔をして笑いたいと思った。

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