13離縁状に署名する
その翌日、オリディアはエドワードと一緒に夫ボルターの働く財務局に行った。
約束通りエドワードは王宮の用を済ませると言って別の棟に入って行った。
「いいかオリディア、俺の用は三十分で終わるから、ここで待ってる。いいな?」
「はい、それで構いません。って言うかエドワード様はどこに行くんです?」
「外務府だ」
「それってやっぱり魔石協定の話ですか?」
「まあ、そんなところだ。じゃ」
それだけ言うとエドワード様の方が先に去って行った。
オリディアは夫のいる財務局に入って行った。途中の廊下で人とすれ違うと髪色を見てはっと驚いたような顔をされてオリディアの方が身を縮めたくなった。
それでも受付まで行きボルター・ロードナートの妻だと言えた。妻だと告げると「あなたがロードナート侯爵夫人でしたか」などと全身を舐め回すように見つめられた。
一瞬俯きかけたが、ルノス商会で励まされた事を思い出すと背筋が伸びて堂々と出来た。
「夫を呼んで下さい」
そう言うと受付の女性が慌てて目を逸らし部屋に案内した。
「こちらにどうぞ。すぐにロードナート侯爵をお呼びします」
女性は急いで出て行った。
案内された部屋は小さな客間で仕事関係で外部から来た人と会うための部屋らしい。
部屋にはこじんまりとした祖ソファとテーブルがあった。オリディアは今朝商会の人が取り寄せてくれた離縁状を持って来た。
離縁状には二人の署名をする欄があり、そこに署名して届ければ離縁した事になるが、賠償金や財産などの取り決めがある場合竜族はその書類も同時に一緒に提出しなければならないと今朝知った。
今まではとにかく離縁届けさえだせば後は何とかなると思っていた。でも、ここも竜族と言う壁があった。
オリディアの考えが甘かったのだ。
話し合いですぐにボルターがオリディアに賠償金を払う事が決まる見込みはほとんどないだろう。
離縁さえ出来ればこれから先のルノス商会の取引は中止になるだろうし、この先の商権の配当金はオリディアの手元に入って来る。
だったら、もうこれでいいのではとも思う。
この国で竜族の女が訴えを起こしたところで貴族が行政のほとんどを行っている事を考えればどう言う結果になるか予想もついた。
でも…
夫は財務局の手当を一度も家計に入れてはくれなかった。自分の稼いだ金を好きに使って何が悪いと言われた。
おまけにオリディアが苦労して立て直した領地の収入さえリリアのドレス代やプレゼント、観劇や外食代に使われていた。
そんな事を考えていると夫が部屋に入って来た。
「オリディア、こんな所にまで押しかけてどう言うつもりだ?」
「離縁状に署名して下さい」
「離縁状に署名?おい、お前それよりどこにいた。探したんだぞ」
「そんな事はどうでもいい事です。署名をお願いします」
「いや、離縁はする。だが、言っただろう。お前がいないと無理なんだ」
「何の事でしょう?」
「だから、領地や家の事だ。今月の終わりにはルノス商会との契約の事もある。お前じゃないと任せられないだろう?」
ボルターはオリディアのやっていた事なら誰でもできると思っていた。
だが、昨晩帰ってみれば机の上には手紙が山のようにあった。執事のダンカートは取引の事や領地の苦情や橋の修理など細かい事は自分にはわからないと言うし、引き継ぎ書を見ても何の事だかさっぱりわからないのだ。
家の使用人はワイン一本を出すにも手間取り何かにつけてオリディアの指示でやっていたからわからないと言う。
リリアはリリアでドレスを頼みたいだの買い物に連れて行けだのと言い、家の事を頼めばまだよくわからないと言う。
ボルターは今朝もシャツの洗濯が間に合わず仕方なく昨日のシャツを着たのだ。
「だからそれはお断りしました。ロードナート侯爵、離縁と言うのはそう言うことではないですか。妻の権限を失う私がこれ以上ロードナート家の事に関与するのはおかしい話です。リリア様を新しい妻にするとあなたははっきり言いました。でしたら今後の事はリリア様とお二人でご相談なさって下さい」
「だから、領地の事は私にはわからないと言っているだろう。しばらくでいいんだ」
オリディアはあまりの無神経さに腹が立った。一刻も早く離縁したいと思った。この男に一分一秒でも同じ空気を吸う事さえ嫌になった。
「いいですか。あなたはそうなると知っていて私と離縁するとおっしゃったのです。私がこれ以上あなたの為に何かするとでも?新しい奥様の為に家の仕事を手伝うとでも?どこまで私を馬鹿にすれば気が済むんです?とにかく離縁状にサインして下さい!」
オリディアの声はもはや悲鳴に近かった。
ボルターはオリディアを宥めようと手を伸ばしたが、オリディアが近づけた手を振り払った。
「わかった。離縁状に署名する。だから…どうだ?お前をオリディアを雇う。執務の代行をしてロードナート侯爵家で働いてくれないか?そうすればお前も仕事を探さなくて済むだろう。家で暮らすのが嫌なら住まいを借りればいい。通いで来てくれればいいだろう?」
ボルターは困った顔でオリディアを見るが、オリディアの気持ちは変わる事はなかった。
反対にますますボルターに嫌悪感を抱いた。
「お断りします。男なら一度口にした事をしたらどうです?今すぐに署名して下さい。届けはこちらで提出しますのでご安心下さい!」
「わかった。とりあえず離縁状にサインする。話はそれからだ」
ボルターはいつもの癖で面倒な事は先延ばしにする癖があり、オリディアの気迫に言い負かされるように離縁状に急いで署名をした。
目の前ですらすらと夫の名前が書かれた。
オリディアの署名はすでに済ませてある。
二人の署名が揃った。
借金の返済に四苦八苦し、領地の苦情にどうすればいいか何日も悩んだ。夫は全く頼りにならず手当さえ入れてくれなかった。
一人で、いや、使用人のダンカートや侍女長のリネット、マーサ、料理長のハンス厩番のケビス、メイドのゾラ。いつしかみんなが助けてくれるようになった。
ここにいるボルター以外は。
こんな男に三年間もこき使われて捨てられる。
オリディアは手のひらを握りしめた。
このまま終わらせたくはない。でも、一つ目の目的は果たせたと強張った肩の力がほんの少し抜けた。
ボルターが優しい声で話しかけて来た。
「さあ、オリディア。サインはした。これからの事について話し合おうじゃないか。まあ、ここは職場だから、そうだな。詳しい話は屋敷に来てもらってでいいか?」
ボルターはまだ自分をこき使おうとしている。
オリディアの心に新たな闘志が湧いた。そっちがその気ならこちらもそれだけの話をする機会が出来ると思った。
「私もまだ話し合う事がありますが屋敷には行きません。リリア様もいらっしゃるにでしょう?どこか…そうだ、ルノス商会ではいかがです?話の出来る部屋もあるでしょうし」
「ああ、商会なら都合もいいな。ついでに来季の契約の事も話が出来るし、いいぞ。今度の休みはどうだ?午前中なら時間がある」
「はい、構いません」
「オリディア、と言う事はお前今ルノス商会にいるって事か?ははん、そこで働くつもりなんだな」
こういうところに夫は昔っから勘が働くし口が上手い。
でも、隠す必要もないだろう。
「はい、ご存知のように私、ルノス商会の商権を持っていますのでその兼ね合いで住まいを紹介していただきました。それだけです」
「まあいい、ルノス商会はお得意様だからくれぐれも失礼のないようにな。では、今度の休日に商会に行く」
「はい、ルノス商会には私から話を通しておきますので」
「わかった、では頼む」
ボルターはそう言うと部屋を後にした。
オリディアは署名された離縁状を大切に鞄にいれるとエドワードと待ち合わせた場所に行った。
「オリディア、遅い!心配したぞ」
「すみません。でも、離縁状の署名はもらいましたので」
「そうか。良かった」
彼はほっと息をつくと強張っていたエドワードの顔が少し緩んだ。
「それで今度の休日、ボルターとの話し合いをルノス商会でしたいのですが」
「あいつが来るのか?」
「はい、商会でなら私も安心なので」
「ああ、それはいい考えだな。今度の休日が楽しみだ」
「エドワード様?酷いですね。楽しい話ではありません。私はうまく行くか緊張してるんですよ」
「すまんすまん。俺たちがそばにいれるから安心だって事だ」
「私もあなたがそばにいてくれるとこころ強いです」
「ああ、そばにいる。あいつの好きにはさせないから安心しろ!」
「ありがとうございます」
オリディアは一人ではないと感じて心が温かくなった。




