10公証人の態度
その足で公証所に出向いた。
公証所は王宮に向かう坂の道沿いの通りにある。ルノス商会はその通りより一本川沿いに寄った所で歩いて10分ほどの場所だった。
表には【公証所】と書かれた小さな看板が出ていた。
通りを坂に向かって歩くと王宮の入り口がある。その中には国中の行政関連の機関があり内務府には内務局や夫に働く財務局などがある。他にも騎士団や外交府などがあると聞いていた。
婚姻届や離縁届は内務局に届けを出す事になっていると聞いた。二人の署名をした届けを出せばそれでいい。
オリディアは公証所の前で一度立ち止まった。
周りを一度見回すが誰もオリディアを見ている者はいない。
公正所の扉は丈夫な木で出来ていて扉の向こうを伺う事は出来なくない。通りに面した窓は磨りガラスでそこからも中の様子を伺う事は出来ない。
これならプライバシーは守られる。
何だかほっと息をつくと自分が悪い訳でもないのにと可笑しくなった。
「オリディア?」
エドワード様が声をかけた。
「エドワード様はここまでで、中には私一人で入りますから」
「でも、一人で大丈夫か?」
「一人で行きたいんです。お願いします」
オリディアは持っていた小さな鞄の取っ手をぎゅっと握った。
エドワード様の視線が握った手に落ちて彼は両手を拳にした。
「わかった。じゃ、向かいのカフェで待っている。終わったら来てくれるか?」
「はい、わかりました」
「後で話を聞かせてくれるか?」
「言われた事を言います」
「ああ、わかった」
オリディアは、一歩踏み出し公証所の扉を開けた。
入り口の扉を開けての中に入る。
「失礼します。ご相談があって来ました」
中に入るとすぐに受付があった。
「はい、どのようなご依頼でしょうか?」
意外にも受付は男の人だった。
じっとこちらを見ている。
オリディアはいつものように少し躊躇った。でも、帰るつもりはなかった。
喉の奥が渇いて一度唾を飲み込んで声を出す。
「離縁の手続きをしたいんです。夫の方から離縁を申し出られています。それで…私も離縁をしたいと思いますので公証所でその手続きをお願いしたいんですが」
「奥様は旦那様と直接話はしたくないと言う事でよろしいでしょうか?」
「はい、交渉は公証人の方にして頂きたいんです」
「分かりました。少しお待ち下さい」
オリディアは備え付けられた長椅子に腰を下ろして待つ。
しばらくして受付の向こうにある部屋に案内された。
中に入ると中年の少し痩せぎすで眼鏡をかけた男性が窓を背にして座っていた。
男はオリディアの顔を見て一度大きく息を吐いた。
きっと髪色で竜族と気付いたのだろう。この国の貴族はいつもオリディアを見ると同じような反応をした。
「私は公証人をしているグレン・ラフォードと言います。どうぞよろしく。話は伺いました。どうぞ座って下さい」
オリディアは居心地の悪さを感じたがここで帰るわけには行かなかった。
「はい、よろしくお願いします」
ぎこちなく挨拶をして指差されたソファの端に腰を下ろした。
オリディアはボルターの事を話し、夫の浮気の事、すでに相手の女性と結婚の話もしている事を話した。
「それでは、相手方も離縁に同意しておられるという事で間違い無いですね?」
「はい、離縁は合意しています。その事で揉める事はないと思っています。ですが、私は家の為に領地の切り盛りをして資金繰りにも自分のお金を出して来ました。ですので、夫には賠償金を請求したいんです。その事で相談に乗ってもらいたいんです」
男の首が数センチ前に出て、片方の手の甲が眼鏡を押し上げた。レンズの向こうの瞳がオリディアをあしらうかのように逸らされた。
「失礼ですが、ご主人は三年間あなたを侯爵夫人として扱ってこられたのでしょう?仕事は夫人として当然の事と思われていた。そう伺がいましたが」
「はい、夫の態度は酷いものでした。ですが、夫とはうまくやって行きたいと思っていました」
「まあ、こう言ってはあれですが、お見受けしたところ奥様は竜族の血を引いていらっしゃる。それでもご主人は三年間あなたを夫人として扱っていたいたんでしょう?まあ、浮気が本気になった訳でしょうが、それも奥様が竜族となれば仕方のない事ではないですか?ご自分も三年侯爵夫人をしていい思いもされて来たはず、ここは離縁を受け入れ賠償金など分相応な手続きはされない方がいいのではありませんか?」
ラフォードさんは冷たい視線でオリディアを見た。
オリディアはあまりの発言に驚いた。すぐに言葉が出て来ず、一度深呼吸をしてやっと話を始めた。
「わ、私はこの国で生まれ育ちました。確かに母は竜族ですが、それでも、私はこの国の人間です。どうしてそんな不当な扱いを受けなければならないんです!私は誠心誠意夫に領民に尽くして来ました。それを無かった事にされたくはありません」
ラフォードは腕を組んでオリディアの話を気怠そうに聞いていた。
それからゆっくりソファに傾けた身体を起こして口を開いた。
「ええ、ですがあなたは正式な侯爵夫人だったのでしょう?三年間も。よく考えて下さい。もしここであなたが事を荒立て相手が離縁書に署名しないと言い出したら?お二人の間にはお子さんもいらっしゃらない。と言う事になれば第二夫人を迎える事も出来ますよ。あなたは肩書だけの妻として離縁を諦めてまんじりともしない生活を一生続けて行けるのですか?きっとご主人は以前にも増してあなたに冷たい態度を取るかも知れません。もしかしたら暴力や生活基盤も制限されるかも知れません。そんな事になるくらいなら離縁だけで終わらせた方がいいのではと申し上げているんです。私は奥様の為を思っているんですよ」
ラフォードさんはオリディアの為にと言う所で語気を強めた。
「お話はわかりました。もう結構です」
「ですから、そのように事を荒立てない方がいいと申し上げているのがおわかりになりませんか?」
「公証所は望めば誰でも調停申し立てが出来ますよね?」
「それはもちろんそうですが」
「でも、竜族の私にはそんな権利もないとラフォードさんはお考えなのでしょう?もう結構です」
「そこまで言われるのでしたら、ご自分で離縁手続きをなさって下さい。お役に立てず申し訳ありません。では、失礼」
ラフォードはソファから立ち上がると扉の前に行った。
オリディアも立ち上がった。
「ええ、では失礼します」
公証所を出ると胸の奥で押さえ込んだ怒りが迫り上がった。
(いけない!また魔力が)
オリディアは深呼吸して気持ちを落ち着けようとした。
通りの街頭の支柱にしがみついた。
息が苦しい。心臓がバクバク脈打ち身体中が強張って行く。
(エドワード様助けて…)
咄嗟にそう思った。
胸が苦しくてその場に倒れそうになった。
もう、だめ!
身体が傾き次にやって来る衝撃に目を閉じる。
その瞬間、ふっと身体が軽くなった。
「オリディア、大丈夫か?お前また魔力が暴走仕掛けてる。何があった?」
抱き上げられたその手はオリディアをしっかり支えてくれている。
心配そうに覗き込まれた優しい目に思わずドキッとする。
「あ、ありがとう。大丈夫です」
争うように身体を捩る。
「ちょっと待って」
エドワード様がいきなり額に手を当てて魔力を抑えてくれる。
「これでいい」
ほっとした顔で微笑みを向けられた。
オリディアの心臓がまたバクバクした。今度は魔力暴走ではないとわかった。
「いいから、下ろして」
いきなり恥ずかしさが込み上げてオリディアは声を上げる。
「わかったわかった。暴れるなって…」
オリディアは立ち上がると顔が火照って思わず手を頬に当てた。
「ったく。危ないだろ。もしかして殴られたのか?!」
「もう、そんなんじゃないってば」
エドワード様が心配そうに声をかけて来た。
オリディアはううんと首を振った。
さっきの辛い出来事がほんの少しだけ和らいだ気がした。




