旧管理責任者の名と、追跡者の影
夜明け前の宿は、静寂に包まれていた。
窓の外では、運河を渡る風が古い看板を揺らしている。
シラスは机に向かい、昨夜持ち帰った情報を整理していた。
北部集落からの移送記録。
受領責任者の欠落。
別管理への引き継ぎ。
そして、候補者の反応を記録した地下装置。
どれも、偶然で片づけるには不自然だった。
「……旧管理責任者か」
彼は、管理局で聞いた言葉を思い返す。
現在の担当者は不明。
引き継ぎの記録はある。
だが、受領者の署名が欠落している。
記録が消されたのか。
最初から、誰も記録しなかったのか。
どちらにしても、過去の管理責任者を探す必要がある。
「シラス……?」
寝台から、鈴の声がした。
彼女は白い髪を少し乱しながら、ゆっくりと起き上がった。青い瞳には、まだ眠気が残っている。
「もう起きてたの?」
「ああ」
「また調べてたんだ」
「眠れなかった」
鈴は彼の机に目を向けた。
「昨日の装置のこと?」
「それもある」
シラスは紙片を一枚、彼女へ差し出した。
そこには、地下記録室で確認した文章が書き写されていた。
『現地確認を実施。対象者の反応を待つ。』
鈴はその文字を見つめた。
「……対象者」
「お前を指している可能性がある」
彼女は銀飾りに触れた。
「私が、あの場所に来ることを知っていたのかな」
「分からない。記録が作られた時期も不明だ」
シラスは椅子から立ち上がった。
「今日は、旧管理責任者の情報を探す」
「私も行く」
「昨夜の反応は?」
「少し疲れたけど、もう大丈夫」
鈴は笑った。
「それに、あなたが一人で危ない場所へ行くのを止める役目もあるから」
「そんな役目を与えた覚えはない」
「私が勝手に決めたの」
シラスは小さく息を吐いた。
「……分かった。だが、無理はするな」
「うん」
◇
午前中、二人は管理局へ向かった。
昨日対応した若い職員は、二人の姿を見ると僅かに驚いた。
「昨日のお客様ですね」
「旧管理責任者について、もう少し調べたい」
シラスは簡潔に用件を告げた。
職員は困ったように眉を寄せる。
「その情報は、通常の閲覧記録には残っていません」
「名前もか?」
「現在の管理責任者については分かります。しかし、旧保管区の責任者は……」
職員は周囲を確認した。
そして、声を落とす。
「一つだけ、古い資料に記載があったかもしれません」
「どこにある?」
「管理局の地下書庫です。ただし、閲覧には上級職員の許可が必要です」
シラスは職員の顔を見た。
「許可を取れるか?」
「……少しお待ちください」
職員は奥へ向かった。
鈴は小さく呟いた。
「昨日も、今日も。みんな何かを知っているのに、すぐには教えてくれないね」
「知っていることと、話せることは別だ」
「あなたもそう?」
「俺は、知らないことの方が多い」
鈴は彼を見つめた。
「……そうだね」
彼の過去についても、まだ何も分かっていない。
北部集落で何が起きたのか。
なぜ彼は賞金首になったのか。
誰が彼の剣を受け取ったのか。
鈴は、その全てを知りたいと思っていた。
しかし、今は彼の隣に立つことしかできない。
それでも、彼女は一歩も引かなかった。
◇
しばらくして、職員が戻ってきた。
「閲覧許可が下りました。ですが、資料は一冊のみです」
彼は二人を地下書庫へ案内した。
階段を下りると、冷たい空気が肌に触れた。
地下には、古い書類棚が並んでいた。紙の匂いと、長年閉じられていた部屋特有の湿気が漂っている。
職員は奥の棚から、厚い帳簿を取り出した。
「こちらです」
表紙には、かすれた文字でこう書かれていた。
『第三保管区 管理責任者記録』
シラスは帳簿を開いた。
古い名前が並ぶ中、ある一人の記載に目が止まった。
『管理責任者――エルンスト・ヴァルデン』
その下には、役職の変更日と、退任に関する簡単な記録がある。
『退任後、旧北部移送記録の監査を担当。以後、所在不明。』
「……所在不明か」
シラスは眉を寄せた。
鈴が帳簿を覗き込む。
「この人が、旧管理責任者?」
「少なくとも、第三保管区を管理していた人物の一人だ」
シラスはさらにページをめくった。
退任記録の末尾に、手書きの追記があった。
『監査資料は本人が持ち出した。返却記録なし。』
「監査資料……」
鈴の声が僅かに震えた。
「北部集落の記録も、その中にあるのかな」
「可能性はある」
シラスは追記を見つめた。
エルンスト・ヴァルデン。
旧管理責任者であり、北部移送記録を監査していた人物。
そして、所在不明。
「この人物の最後の住所は?」
職員は別の帳簿を確認した。
「都市の南西区にある住宅地です。現在は建物が残っているか分かりません」
「住所を教えてくれ」
職員は紙に住所を書き写した。
シラスはそれを受け取った。
「助かった」
「……ただし」
職員が言葉を続ける。
「その資料について、他の職員には話さないでください。上から、閲覧内容を広めないように指示されています」
シラスの目が細くなる。
「誰からの指示だ?」
「記録監査官です」
その名前を聞いた瞬間、シラスは黙った。
現在の記録監査官。
昨日、受付の女性が不在だと告げた人物。
「……分かった」
シラスは帳簿を閉じた。
◇
管理局を出た二人は、都市の南西区へ向かった。
その地域は、中心部よりも古い住宅が多かった。
石造りの家々は密集し、狭い路地には洗濯物が吊るされている。運河の水音が遠くから聞こえ、時折、荷車が通り抜けていった。
「ここに、エルンストさんが住んでいたんだね」
鈴が住所の紙を見つめる。
「過去形だ。今も住んでいるとは限らない」
「でも、監査資料を持っていたなら、何か知っているはず」
「そうだな」
シラスは目的の建物を探した。
やがて、古い石造りの家が見つかった。
扉は閉じられ、窓には板が打ち付けられている。玄関の脇には、錆びた郵便受けが残っていた。
シラスは扉を叩いた。
返事はない。
もう一度、叩く。
やはり、静寂だけが返ってきた。
「……誰もいないみたい」
鈴が呟く。
シラスは周囲を確認した。
玄関前には埃が積もっている。長い間、誰も出入りしていないようだった。
だが、郵便受けの下に、小さな紙片が落ちていた。
シラスはそれを拾い上げる。
紙には、短い文字が書かれていた。
『記録を探すな。』
鈴の表情が強張った。
「……これ」
シラスは紙片の裏側を確認した。
そこには、円と交差する二本の線。
あの印が描かれていた。
「誰かが、先に来ている」
彼は紙片を懐にしまった。
「エルンストは、ここにはいない」
「どこへ行ったのかな」
「分からない」
シラスは、家の周囲を調べ始めた。
扉の錠は古い。
窓は閉じられている。
だが、裏手の壁に新しい靴跡が残っていた。
誰かが最近、この家を訪れている。
そして、警告を残した。
◇
その時だった。
路地の向こうで、金属が擦れる音がした。
シラスは振り返る。
黒い外套を着た男が、建物の角に立っていた。
顔はフードに隠されている。
男は二人を見つめていた。
「……誰だ」
シラスが声をかける。
男は答えなかった。
代わりに、僅かに後退した。
「待て」
シラスが一歩踏み出した瞬間、男は路地を走り出した。
「シラス!」
鈴が叫ぶ。
シラスは男を追った。
左腕に痛みが走る。
それでも、彼は足を止めなかった。
狭い路地を抜け、運河沿いの石橋へ。
男は橋の向こうへ走り抜けた。
シラスは距離を詰める。
だが、橋の先に広がる人混みの中で、男の姿は消えた。
「……くそ」
シラスは立ち止まった。
息を整えながら、周囲を見渡す。
男の姿はない。
鈴が追いついてきた。
「大丈夫?」
「ああ」
「左腕……」
「問題ない」
鈴は彼の包帯を見つめた。
「問題あるよ」
シラスは返事をしなかった。
彼は、男が消えた方向を見つめていた。
あの男は、偶然そこにいたわけではない。
旧管理責任者の住所を調べた直後に現れた。
そして、警告の紙片。
「……俺たちが調べていることを、誰かが知っている」
シラスの声は低かった。
鈴は彼の隣に立った。
「それでも、調べるんだよね」
「ああ」
「なら、私も一緒に行く」
シラスは彼女を見た。
「危険が増えている」
「分かってる」
鈴は真っ直ぐに彼を見つめた。
「でも、あなたを一人にしたくない」
その言葉に、シラスは僅かに目を伏せた。
「……勝手にしろ」
「うん」
鈴は微笑んだ。
◇
夕暮れ。
宿へ戻ったシラスは、机の上に紙片を広げた。
『記録を探すな。』
その下に描かれた印。
誰が警告を残したのか。
エルンスト・ヴァルデンはどこへ消えたのか。
そして、追跡者は何者なのか。
まだ、答えはない。
だが、少なくとも一つ。
彼らが触れようとしている記録は、誰かにとって今も隠し続けるべきものだった。
シラスは窓の外を見た。
運河の向こうで、街灯が一つずつ灯っていく。
「……逃げるつもりはない」
彼は静かに呟いた。
鈴は隣で、銀飾りを握り締めていた。
その表面には、今夜も何の変化もない。
しかし、彼女の胸の奥には、微かな不安が残っていた。
知らないはずの名前。
知らないはずの記録。
それなのに、どこかで自分と繋がっている気がする。
鈴はその感覚を、まだ言葉にできなかった。




