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廃屋に残された監査記録

翌朝。


シラスは宿の窓辺で、昨夜拾った紙片を眺めていた。


『記録を探すな。』


その下に描かれた、円と交差する二本の線。


何度見ても、意味は分からない。


だが、警告を残した人間が、エルンスト・ヴァルデンの旧居を知っていたことは確かだった。


「……昨日の男と同じ人物か」


シラスは呟いた。


「何が?」


寝台の上で旅支度をしていた鈴が顔を上げる。


「警告を残した人間と、路地で逃げた男だ。別人かもしれない」


「追いかけた時、顔は見えなかったんだよね」


「ああ。だが、俺たちが旧管理責任者を探していることは知られている」


鈴は銀飾りを指先で弄んだ。


「それでも、昨日の家をもう一度調べるの?」


「調べる。警告があったということは、何かを隠している可能性がある」


「危険じゃない?」


「危険だろうな」


シラスは即答した。


「だから、慎重に行く」


鈴は少しだけ口を尖らせた。


「……そういうところ、もっと自分のことも考えてほしい」


「考えている」


「本当に?」


「お前に怒られる程度にはな」


鈴は一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。


「それなら、いいよ」


     ◇


南西区の旧住宅地は、朝の時間帯でも静かだった。


シラスと鈴は、昨日訪れた石造りの家へ向かった。


周囲の建物には住人の姿が見える。窓を開けて掃除をする女性や、荷物を運ぶ商人もいた。


だが、エルンストの家だけは、時間が止まったように見えた。


板で塞がれた窓。

錆びた郵便受け。

閉じられた扉。


シラスは周囲を確認してから、家の裏手へ回った。


「昨日、ここに新しい靴跡があった」


彼は地面を指差した。


「今朝も残っている?」


鈴がしゃがみ込む。


石畳の隙間には、僅かな土が残っていた。そこに、靴底の跡が一つ。


昨日のものと完全に同じかは分からない。


だが、少なくとも最近、誰かがこの場所を訪れている。


「裏口は?」


鈴が尋ねる。


「確認する」


家の裏側には、小さな木製の扉があった。


錠は古い。


シラスは周囲に人がいないことを確かめ、道具袋から細い金属片を取り出した。


数秒後、錠が小さく音を立てた。


扉が開く。


中は暗く、埃の匂いが漂っていた。


「入るぞ」


「うん」


二人は慎重に家の中へ入った。


     ◇


室内には、古い家具が残されていた。


机。

椅子。

壁に掛けられた時計。


どれも長い間、使われていないようだった。


シラスは部屋を調べながら、家具の配置に違和感を覚えた。


「……不自然だな」


「何が?」


「埃の積もり方だ」


彼は机の上を指差した。


周囲には厚い埃が積もっている。


しかし、机の右端だけが、僅かに綺麗だった。


誰かが最近、そこに物を置いたか、動かした跡がある。


シラスは机の引き出しを開けた。


中には空の封筒が数枚と、古い筆記具が残されている。


鈴は壁際の棚を調べていた。


「シラス、これ……」


棚の下段に、小さな木箱があった。


箱の蓋には、何も記されていない。


シラスが開けると、中には数枚の紙片が入っていた。


一枚目は、古い住所の一覧。


二枚目は、交易都市内の施設名。


三枚目には、手書きの文章が残されていた。


『第三保管区の監査は、通常の移送記録だけでは成立しない。現地記録と照合する必要がある。』


シラスの目が細くなる。


「……現地記録」


鈴が隣から覗き込んだ。


「北部集落のこと?」


「おそらくな」


彼は紙片を裏返した。


そこには、短い記述があった。


『原記録の保管場所――鐘楼下の旧文書庫。』


「鐘楼……?」


鈴は首を傾げた。


「この街に、鐘楼があるの?」


「中央広場の古い鐘楼だ。昼間、管理局へ向かう途中に見た」


シラスは地図を取り出した。


「だが、旧文書庫という場所は聞いたことがない」


「そこに、エルンストさんの監査記録があるのかな」


「可能性はある」


シラスは紙片を丁寧にしまった。


その時だった。


家の外から、足音が聞こえた。


二人は同時に動きを止める。


足音は玄関の前で止まった。


続いて、扉を叩く音。


「……誰かいるのか?」


男の声だった。


シラスは鈴に目配せした。


彼女は静かに頷き、棚の陰へ移動する。


シラスは短剣を抜き、裏口の近くへ身を潜めた。


もう一度、扉が叩かれる。


「ヴァルデンさん。いるなら、返事をしてください」


男はそう言った。


シラスの眉が僅かに動く。


この男は、エルンストを探している。


「……留守か」


足音が離れていく。


だが、完全に遠ざかる前に、男は小さく呟いた。


「監査記録が見つかる前に、処理しなければ……」


その言葉を、シラスは聞き逃さなかった。


足音が消える。


しばらく待ってから、彼は鈴の方へ戻った。


「今の男……」


鈴が小声で尋ねる。


「エルンストを探していた」


「それに、監査記録を処理するって……」


「聞こえたな」


シラスは短剣をしまった。


「鐘楼へ行く」


     ◇


中央広場の鐘楼は、都市の中心に建つ古い石造りの塔だった。


現在も時刻を知らせる鐘として使われているが、その下部には長年閉鎖された区画がある。


二人は広場の人混みに紛れながら、塔の裏側へ回った。


そこには、古びた扉があった。


扉の横には、色褪せた金属板が取り付けられている。


『旧文書保管区――関係者以外立入禁止』


鈴が文字を読み上げた。


「ここが、紙片に書かれていた場所?」


「そうだろう」


シラスは扉を調べた。


鍵は掛かっている。


しかし、錠の周囲には新しい傷があった。


誰かが最近、開け閉めした痕跡だ。


「……先客がいる」


シラスは低く呟いた。


鈴は銀飾りを押さえた。


「私、少しだけ魔法を使ってもいい?」


「何に使う?」


「扉の向こうの気配を確かめたい。強い魔法じゃないよ」


シラスは彼女の瞳を見つめた。


昨夜の装置の反応が、頭をよぎる。


「……一度だけだ。異常があればすぐ止めろ」


「分かった」


鈴は目を閉じた。


指先に、小さな青白い光が灯る。


それは以前のように大きく広がることはなかった。淡い光が扉の隙間を通り、内部へ静かに伸びていく。


数秒後。


鈴は目を開けた。


「……人はいないみたい」


「他には?」


「紙の匂い。それと……少しだけ、冷たい感じ」


シラスは頷いた。


「十分だ」


彼は錠を慎重に開けた。


扉が、静かに動く。


     ◇


旧文書庫の内部には、狭い階段が続いていた。


壁には古い灯具が並び、床には埃が積もっている。


地下へ降りると、広い部屋が現れた。


壁沿いに書棚が並び、中央には大きな机が置かれている。


そこには、古い帳簿や書類が残されていた。


シラスは一冊の帳簿を手に取った。


表紙には、薄い文字でこう記されている。


『北部移送記録――監査用』


鈴が息を呑んだ。


「……見つかった」


シラスは帳簿を開いた。


最初のページには、通常の荷物の記録が並んでいる。


しかし、数ページ進んだところで、記載内容が変わった。


『移送対象――未記載』


『受領者――不明』


『現地確認――要再調査』


そして、最後のページ。


そこには、エルンストの手書きと思われる文章があった。


『北部集落の事件について、公式報告と現地記録に重大な相違がある。』


シラスの指が止まった。


「……重大な相違」


彼は次の行を読んだ。


『現地に残された武器の記録は、当初の報告と一致しない。』


鈴はシラスを見た。


彼の表情が、僅かに変わっていた。


「……俺の剣か」


彼は静かに呟いた。


帳簿には、さらに続きがあった。


『武器の所有者について、追加確認が必要。』


その下に、何かが書かれていた。


だが、紙の一部が切り取られている。


「……ここだけ、抜かれている」


鈴が指差した。


シラスは紙の切断面を確認した。


刃物で切られたような跡がある。


誰かが、この記録の一部を持ち去った。


そして、その内容はおそらく――


シラスの過去に関係している。


     ◇


その時。


階段の上から、扉が閉じる音がした。


二人は顔を上げる。


続いて、重い足音。


誰かが、地下へ降りてくる。


シラスは帳簿を閉じ、鈴を棚の陰へ引き寄せた。


「……来たな」


足音は、ゆっくりと近づいてくる。


やがて、階段の最後の段に人影が現れた。


黒い外套。

顔を隠すフード。

腰には細い剣。


昨日、路地で逃げた男と似た装いだった。


男は部屋の中央に立ち、静かに告げた。


「そこにいるのは分かっている」


シラスは短剣を握り直した。


「……何者だ」


男は答えなかった。


代わりに、机の上に視線を向ける。


「その記録を、持ち出すな」


鈴はシラスの袖を掴んだ。


彼は一歩前へ出た。


「お前たちは、何を隠している?」


男の声が低くなる。


「知る必要はない」


「北部集落の事件は、俺の罪として処理された。だが、記録には相違がある」


男は沈黙した。


その沈黙が、シラスの疑念を深める。


「……お前は、俺の剣について知っているのか」


男の視線が、僅かに揺れた。


ほんの一瞬。


だが、シラスは見逃さなかった。


「答えろ」


男は腰の剣に手を掛けた。


「ここから先は、戻れなくなる」


「もう戻る場所などない」


シラスの赤い瞳が、暗闇の中で鋭く光った。


鈴は彼の隣に立った。


青い瞳には、恐怖があった。


それでも、彼女は離れなかった。


「……シラス」


「下がっていろ」


「嫌」


少女は静かに答えた。


「あなた一人で戦わせない」


男は二人を見つめた。


そして、剣を抜く。


地下文書庫に、金属の音が響いた。


消された記録の先にある真実。


それを守ろうとする者との対峙が、始まろうとしていた。

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