集落を知る男の証言
宿場町の夜は、思いのほか静かだった。
酒場から漏れる笑い声や、荷馬車の車輪が石畳を軋ませる音が、時折通りを通り過ぎていく。
シラスは宿の二階にある部屋で、窓の外を眺めていた。
机の上には、昼間に見た手配書の写しが置かれている。
『北部集落大量殺人』
その文字を見つめるたび、胸の奥に何かが沈んでいく。
「……シラス?」
ベッドに腰掛けていた鈴が、彼の背中に声をかけた。
「さっきの人、来るのかな」
「来ると言っていた」
「……信じていい人?」
シラスは少し考えた。
「分からない」
「そっか」
鈴は銀飾りを指で触れる。
「でも、あの人はシラスのことを知っているんだよね」
「少なくとも、あの集落で俺を見たと言っていた」
「……だったら、話を聞く価値はあるね」
シラスは頷いた。
その時、扉が三度叩かれた。
コン、コン、コン。
二人は同時に顔を上げる。
「……来たか」
シラスは剣の位置を確認し、扉へ向かった。
◇
扉の向こうに立っていたのは、昼間の灰色の髪の男だった。
古びた革の上着。疲れた顔。腰には短剣。
男は廊下を確認してから、部屋へ入った。
「……邪魔する」
シラスは扉を閉める。
「名前は?」
「ローヴェンだ。ローヴェン・ハルト」
男は椅子に腰を下ろした。
「昔、北部の集落で荷運びをしていた。お前がそこにいた頃、何度か顔を見ている」
シラスは彼を見つめる。
「……俺が集落を離れた日のことを知っているか?」
ローヴェンはすぐには答えなかった。
「正確には知らない。だが、あの日の前後に何があったかは覚えている」
鈴は緊張した様子で、二人の会話を聞いていた。
ローヴェンは懐から古い紙片を取り出した。
「俺が集落を訪れたのは、事件の三日前だ。荷物を届けるためだった」
「三日前……」
「あの時、集落はいつも通りだった。子供たちは広場で遊び、老人たちは井戸の周りで話をしていた」
シラスの瞳が、わずかに揺れる。
「……俺も、その光景を覚えている」
ローヴェンは続けた。
「だが、一つだけ妙なことがあった」
「何だ」
「集落の外れに、見慣れない連中がいた。黒い服を着た男たちだ」
シラスは眉を寄せる。
「……黒い服?」
「顔はよく見えなかった。だが、彼らは住民と話をしていた。何かを確認しているようだった」
鈴が尋ねる。
「何を確認していたんですか?」
「分からない。ただ、集落の古い倉庫を何度も訪れていた」
シラスは記憶を探る。
古い倉庫。
集落の外れ。
だが、はっきりと思い出せない。
「……その倉庫は、どこにあった?」
「集落の北側だ。古い石壁に囲まれていた」
ローヴェンは紙片を机に置いた。
そこには、簡単な地図が描かれていた。
「事件の後、俺はもう一度集落へ向かった。だが、そこには何も残っていなかった」
「……何も?」
「焼け跡だけだ。住民の姿も、荷物も、家畜も……ほとんどが消えていた」
シラスの表情が険しくなる。
「報告書では、集落の住民全員が死亡したとされている」
「俺もその報告を見た」
ローヴェンは低い声で言った。
「だが、あの場所で見つかったものが、本当に住民全員の遺体だったのか。俺には分からない」
部屋に沈黙が落ちた。
鈴はシラスを見つめる。
彼の目は、机の上の地図に向けられていた。
◇
「……もう一つ、聞きたいことがある」
シラスが口を開いた。
「俺の剣についてだ」
ローヴェンは顔を上げる。
「報告書には、俺の剣が集落の焼け跡から見つかったと書かれていた」
「ああ」
「だが、俺はあの剣を持っていなかった。集落を離れる前に、誰かへ渡したはずだ」
ローヴェンは目を細めた。
「……誰に渡した?」
「覚えていない」
その言葉を口にするのは、シラスにとって苦痛だった。
自分が確かに覚えていること。
自分が確かに行ったはずのこと。
それなのに、最も重要な部分だけが抜け落ちている。
ローヴェンはしばらく考え込んだ。
「……事件の翌日、俺は集落の近くで一人の人物を見た」
シラスの視線が鋭くなる。
「誰だ?」
「顔は分からなかった。外套を着ていて、手には剣を持っていた」
「……その剣は?」
「遠目だったから、細かい形は分からない。ただ、柄の部分に赤い装飾があった」
シラスの呼吸が止まった。
赤い装飾。
彼が使っていた剣の柄にも、同じような装飾があった。
鈴が彼の表情を見て、そっと声をかける。
「……シラス?」
彼は答えなかった。
ローヴェンは続ける。
「その人物は、集落から北へ向かっていた。俺が声をかけようとした時には、もう姿が見えなくなっていた」
「……北へ」
シラスは地図を見つめる。
集落の北側。
古い倉庫。
そして、事件の翌日に目撃された人物。
それらが、少しずつ繋がり始めている。
だが、まだ確証はない。
「……その人物が、俺の剣を持っていた可能性はあるか?」
「分からない。ただ、俺が見た限りでは、そう見えた」
ローヴェンは立ち上がった。
「俺が知っているのは、それだけだ」
シラスは彼を見た。
「……なぜ、俺に話した?」
ローヴェンは少しだけ苦笑した。
「お前が集落にいた時、俺は何度か荷物を運んでもらった。お前は口数が少なかったが、仕事は確実だった」
彼は扉へ向かう。
「それに……あの集落には、俺も世話になった人たちがいた」
ローヴェンは振り返った。
「真実が知りたい。それだけだ」
◇
ローヴェンが去った後。
部屋には、静かな時間が流れていた。
鈴は机の上の地図を見つめている。
「……北側の古い倉庫」
シラスは地図を折り畳んだ。
「事件の前に、黒い服の男たちが出入りしていた場所だ」
「それに、事件の翌日に剣を持った人が北へ向かった……」
鈴は顔を上げる。
「シラス。これって、もしかしたら――」
「まだ決めつけるな」
シラスは静かに言った。
「ローヴェンの証言が正しいとは限らない。目撃した人物が俺の剣を持っていたとも限らない」
「……うん」
鈴は頷いた。
「でも、調べる価値はあるよね」
「ああ」
シラスは窓の外を見た。
北部の集落。
古い倉庫。
赤い装飾の剣。
それらを思い出そうとすると、頭の奥が鈍く痛む。
そして、ふと。
炎に包まれた家屋の中で、誰かが自分の名前を呼んだような気がした。
『……シラス』
彼は思わず目を閉じる。
「……っ」
鈴がすぐに彼の肩へ手を置いた。
「シラス!」
「……大丈夫だ」
「本当に?」
「ああ。ただ……」
彼は言葉を止めた。
記憶の奥に、何かがある。
しかし、それを掴もうとするたび、煙のように消えてしまう。
鈴は彼の肩から手を離さなかった。
「……無理に思い出さなくてもいいよ」
シラスは彼女を見た。
「……そうだな」
その夜、シラスは久しぶりに、あの集落の夢を見た。
燃え上がる家々。
遠くで響く叫び声。
そして、手に握られた剣。
夢の中の彼は、誰かに向かって叫んでいた。
『それを持って行け!』
だが、相手の顔は見えない。
次の瞬間、炎が視界を覆った。
シラスは目を覚ました。
窓の外は、まだ暗い。
隣のベッドでは、鈴が静かに眠っていた。
彼はしばらく天井を見つめた後、ゆっくりと息を吐いた。
「……まだ、終わっていない」
北部の集落で何が起きたのか。
自分の剣は、誰の手に渡ったのか。
そして、なぜ自分だけが生き残ったのか。
答えは、南部旧交易都市へ向かう道の先にあるのかもしれない。
シラスは目を閉じた。
今度こそ、過去から逃げないために。




