北東中継所に残された最後の記録
北東中継所に滞在して五日目。
シラスは朝から左腕の包帯を確認していた。
前日の戦闘で傷口が開いたものの、深刻な状態ではない。だが、剣を振るうにはまだ痛みが残っていた。
「……少しはマシになったな」
「本当に?」
向かいの椅子に座っていた鈴が、疑わしそうに彼の腕を見つめる。
「昨日もそう言っていたよね」
「昨日よりはマシだ」
「じゃあ、今日は戦わないでね」
「状況次第だ」
「シラス!」
鈴が頬を膨らませる。
「……分かった。無用な戦闘は避ける」
シラスは折れたように答えた。
鈴は満足そうに頷いた。
「約束だからね」
「お前は俺の保護者か」
「今は私のほうが元気だから!」
「そうか」
「……何、その反応」
シラスは答えず、机の上に置かれた紙片を手に取った。
『旧管理者引き継ぎ記録――保管先、南部旧交易都市』
昨日、記録室の警備員から渡された情報。
これが、現在の二人にとって最も重要な手掛かりだった。
「南部旧交易都市……」
鈴は地図を広げる。
「ここからだと、かなり遠いね」
「南へ向かう街道を使えば、いくつかの町を経由することになる」
「でも、そこに私の記憶に関係する記録があるかもしれない」
シラスは地図を見つめた。
「その可能性はある。だが、先にここで確認できることを済ませる」
「まだ何かあるの?」
「金属箱だ」
鈴は机の下に置かれた荷物へ目を向けた。
第四十四話で見つけた、番号のない金属箱。
今まで何度も調べたが、開けることはできなかった。
しかし、北東中継所の記録室で見つかった印と、箱に刻まれた印は同じだった。
シラスは箱を取り出し、机の上に置いた。
「この施設に残された記録と、箱に関係があるか確認する」
鈴は少し緊張した表情で頷いた。
◇
昼過ぎ。
二人は再び旧記録室の警備員を訪ねた。
彼は昨日の戦闘について報告を終えたばかりだったらしく、疲れた顔をしていた。
「……また来たのか」
「確認したいことがある」
シラスは金属箱を机の上に置いた。
警備員の表情が変わる。
「その箱は……」
「旧第七保管区に関係するものだと思う。刻印が一致している」
警備員は箱を慎重に確認した。
表面の円と交差する二本の線。
そして、三つの刻み。
「……確かに、旧保管区の記号だ」
彼は箱の側面を調べる。
「だが、これは通常の輸送箱ではない」
「何か分かるのか?」
「番号がない。管理番号を持たない物品は、正式な輸送記録に残されない場合がある」
鈴が尋ねた。
「じゃあ、誰が運んだのかも分からないの?」
「そうだ。記録に残らない移送があったなら、通常の帳簿では追えない」
シラスは箱を見つめる。
「……だから、別管理なのか」
警備員は頷いた。
「可能性はある。旧管理者が直接扱った物品なら、引き継ぎ記録に記載されているかもしれない」
「その記録を確認する方法は?」
「ここにはない」
警備員は少し考えた後、古い帳簿を取り出した。
「ただし、旧記録室の閉鎖直前に作成された資料が一つ残っている。正式な引き継ぎには使われなかったものだ」
彼は帳簿を開き、あるページを指した。
そこには、短い記載があった。
『番号未登録物品、南部旧交易都市へ移送』
『旧管理者引き継ぎ資料と共に保管』
シラスの目が細くなる。
「……南部旧交易都市」
鈴は息を呑んだ。
「私たちが向かおうとしている場所だ」
警備員は帳簿を閉じた。
「それ以上は分からない。だが、その箱が本当に記録にある物品なら、向こうで何か見つかるかもしれない」
シラスは箱を持ち上げた。
「助かった」
「礼を言う必要はない。ただし、これ以上ここに留まるのは勧めない」
「理由は?」
警備員は周囲を確認する。
「昨日の連中が、再び現れる可能性がある。それに……」
彼は言葉を止めた。
「施設の上層部が、お前たちの動きを把握している」
シラスは警戒を強めた。
「……黒い外套の男か」
警備員は答えなかった。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
◇
夕方。
二人は宿へ戻る途中、北東中継所の門の近くで足を止めた。
門の外には、荷馬車が数台並んでいる。
そのうちの一台の車輪に、見覚えのある記号が刻まれていた。
円と交差する二本の線。
そして三つの刻み。
シラスは目を細める。
「……またか」
鈴もその記号に気づいた。
「旧保管区の印だね」
荷馬車の御者は、二人の視線に気づくと慌てて荷物を覆った。
「何を見ている?」
シラスは一歩近づく。
「その荷物はどこへ運ぶ?」
「……ただの物資だ」
「行き先を聞いている」
御者は警戒したように周囲を見た。
「南部だ。旧交易都市を経由する」
鈴がシラスを見上げた。
「……やっぱり」
シラスは御者を観察する。
「何を運んでいる?」
「知らない。俺は運ぶように命じられただけだ」
「誰に?」
御者は口を閉ざした。
その時、荷馬車の後方から灰色の制服を着た職員が現れた。
「おい。出発の時間だ」
御者はすぐに馬車へ乗り込む。
荷馬車は門を通り抜け、南へ続く街道を進んでいった。
シラスはその背中を見送る。
「……偶然にしては、出来すぎている」
「私たちも、南へ向かうんだよね?」
「ああ」
鈴は少し不安そうに尋ねた。
「また、誰かに狙われるかな」
「可能性はある」
シラスは彼女の銀飾りに目を向けた。
「だが、今度は相手の動きを利用できるかもしれない」
鈴は小さく頷いた。
◇
その夜。
シラスは荷物を整理していた。
金属箱。
保守記録の写し。
輸送帳簿の記録。
そして、南部旧交易都市への手掛かり。
一つずつ確認し、慎重に収納する。
鈴はベッドに腰掛けていた。
「……シラス」
「何だ」
「ここを離れたら、もう戻ってこないのかな」
シラスは手を止めた。
「必要があれば戻る」
「そっか」
鈴は窓の外を見つめた。
北東中継所の塔が、夜の中に浮かんでいる。
ここで見つけた記録。
自分の銀飾りに反応した装置。
そして、何度も繰り返された「候補者」という言葉。
何も分からないままだ。
それでも、以前より少しだけ、自分が何をしたいのか分かるようになった。
「……私、記憶を取り戻したい」
シラスは彼女を見た。
「そうか」
「でも、それだけじゃない」
鈴は胸元の銀飾りに触れる。
「今の私も、大切にしたい」
彼女は微笑んだ。
「シラスと旅をしている今の私も、ちゃんと私だから」
シラスは静かに頷いた。
「その通りだ」
鈴は少し照れたように視線を逸らした。
「……だから、これからも一緒にいてね」
「……ああ」
短い返事だった。
だが、鈴には十分だった。
◇
北東中継所の地下管理室。
青い光を放つ装置の前に、黒い外套の男が立っていた。
灰色の制服の職員が報告する。
「候補者とシラス・ナハトは、南部旧交易都市へ向かう準備を進めています」
「……そうか」
「旧管理者の引き継ぎ記録についても、情報を得たようです」
黒い外套の男は装置を見つめた。
「第四段階の観測は?」
「候補者の自発的反応を確認。ただし、接続は発生していません」
「それでいい」
男はゆっくりと目を閉じた。
「彼女が選択するまで、手順を進めるな」
職員は頭を下げた。
「承知しました」
男は装置の青い光を見つめ続ける。
その光は、かつて失われた記録の断片を静かに照らしていた。
「……今度こそ、間違えるわけにはいかない」
誰に向けた言葉なのか。
それを知る者はいなかった。
◇
翌朝。
シラスと鈴は北東中継所の門を出た。
南へ続く街道。
遠くには、山々の向こうに広がる旧交易都市への道が見える。
鈴は銀飾りを指で触れた。
「……行こう、シラス」
「ああ」
二人は歩き出した。
北東中継所に残された記録は、まだ完全には解明されていない。
旧管理者の正体。
番号のない金属箱の中身。
そして、鈴の失われた過去。
そのすべてが、南部旧交易都市へと繋がっている。
だが、そこへ向かう道の先にも、彼らを待つ者たちがいる。
旅は、まだ終わらない。




