疑われる者たち
日が沈む頃、シラスと少女は森の外れにある小さな廃屋を見つけた。
屋根の一部は崩れ、壁には蔦が絡みついている。傾いた木製の扉は風に揺れるたび、ぎいぎいと軋んだ。それでも、雨風をしのぐ場所としては十分だった。
シラスは剣の柄に手をかけたまま、建物の周囲を一周した。
足跡はない。窓から覗いても、人の気配は感じられなかった。
「……今夜はここで休む」
「本当に入っていいの?」
「持ち主がいるなら、もっとまともに管理しているだろう」
「それもそうだね」
少女は納得したように頷いた。
扉を押し開けると、埃っぽい空気が流れ出した。室内には壊れた椅子と古い机が一つずつあり、壁際には空の木箱が積まれている。床には枯れ葉が入り込み、天井の隙間からは夕暮れの光が細く差し込んでいた。
シラスは窓と扉の位置を確認してから、荷物を下ろした。
「そこに座っていろ。床の板が抜けている場所がある」
「分かった!」
少女は慎重に歩き、比較的きれいな壁際に腰を下ろした。
その直後、床板が小さく軋んだ。
「……今の、大丈夫?」
「体重をかけなければな」
「先に言ってよ!」
「今、言っただろう」
「そうだけど!」
シラスは返事の代わりに、窓の隙間を布で塞ぎ始めた。
やがて、外がすっかり暗くなった。
彼は荷物から小さな火打ち石を取り出し、乾いた枝を集めて火を起こした。橙色の炎が室内を照らし、冷えた壁に二人の影を揺らす。
少女は火のそばに手をかざした。
「……暖かい」
「寒かったのか?」
「少しだけ。でも、今は平気」
彼女はほっとしたように笑った。
その笑顔を見て、シラスは荷物から硬いパンを二つ取り出した。一つを自分の前に置き、もう一つを少女へ差し出す。
少女は驚いたように目を見開いた。
「……わたしの分?」
「ほかに誰がいる」
「ありがとう!」
少女は両手でパンを受け取った。
「今日は干し肉じゃないんだね」
「文句があるなら返せ」
「ないよ! 全然ない!」
彼女は慌ててパンを抱え込んだ。
シラスは小さく息を吐き、自分の分をかじった。
しばらく、二人は黙って食事をした。外では虫の声が響き、遠くから風が木々を揺らす音が聞こえてくる。
追跡者の足音も、剣を抜く音もない。
今夜だけは、誰かに追われる心配をせずに済みそうだった。
「……ねえ、シラス」
「何だ」
「あなたは、いつも一人で旅をしていたの?」
「ああ」
「寂しくない?」
シラスはパンを噛む手を止めた。
「寂しいかどうかを考える暇はなかった」
「それ、寂しいってことじゃないの?」
「違う」
「本当に?」
「……お前は質問が多いな」
少女は小さく笑った。
「だって、知らないことばかりなんだもん」
その言葉に、シラスは反論できなかった。
少女は自分の記憶を失っている。彼女にとって、世界のほとんどが知らないことだらけなのだろう。
それでも、何かを知ろうとすることをやめてはいない。
「……俺のことを知っても、面白い話は出てこないぞ」
「それでもいいよ」
少女は火を見つめた。
「いつか自分のことを思い出せたら、わたしもあなたに話せることがあるかもしれないから」
シラスは、その横顔を見つめた。
記憶を失った不安を、彼女はいつも明るさで隠している。時折見せる寂しそうな表情が、そのことを教えていた。
「……思い出せるといいな」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
少女は驚いたように顔を上げた。
「今、わたしのことを心配してくれた?」
「事実を言っただけだ」
「ふふっ。ありがとう」
「だから、礼はいらん」
少女は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、シラスは火へ視線を戻した。
不思議なものだった。
誰かと食事をすることも、他愛のない話をすることも、ずっと前に忘れてしまったような気がする。
今の自分には、他人と関わる余裕などないはずだった。
それなのに、この少女が隣にいることを、少しだけ心地よいと感じていた。
食事を終えると、シラスは外套を畳んで床に置いた。
「俺が先に見張る。お前は眠れ」
「シラスは眠らないの?」
「交代で休む。何かあれば起こす」
少女は不安そうに火を見つめた。
「……わたし、ちゃんと起きていられるかな」
「眠くなったら寝ろ。無理に起きていても役に立たん」
「ひどい言い方……」
そう言いながらも、彼女は横になった。
白い髪が外套の上に広がり、青い瞳がゆっくりと閉じられる。
やがて、静かな寝息が聞こえ始めた。
シラスは火に枝を一本くべた。
小さな炎が揺れ、少女の頬を柔らかく照らす。
彼はしばらく、その寝顔を見つめていた。
記憶を失い、名前さえ分からない少女。
自分の力が何なのかも知らず、それでも誰かを助けようとする少女。
「……本当に、変な奴だ」
小さく呟く。
返事はない。
シラスは剣を手の届く場所に置き、扉の方へ視線を向けた。
明日になれば、また歩き出さなければならない。賞金稼ぎが追ってくる可能性もある。少女の魔法についても、分からないことばかりだ。
何一つ解決していない。
それでも、今夜だけは違った。
火のはぜる音を聞きながら、シラスはゆっくりと目を閉じた。
誰にも追われない、静かな夜。
その穏やかな時間は、二人が再び歩き出すまで、ひっそりと続いていた。




