封じられた記録と小さな安らぎ
旧保管区の地下通路を抜けた頃には、東の空がわずかに白み始めていた。
シラスは周囲を警戒しながら、古い石造りの出口を静かに閉じる。
「……ひとまず、見つからずに戻れたな」
「うん。でも、あの記録……」
鈴は胸元の銀飾りに触れた。
『強制接続は禁止』
『対象の意思を確認できない場合、手順を停止すること』
地下で見つけた記録の言葉が、頭から離れない。
自分が何者なのか。
なぜ、あの装置が反応するのか。
そして、なぜ自分の記憶は失われているのか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
「鈴」
シラスに呼ばれ、彼女は顔を上げた。
「今は考えすぎるな。情報が足りない」
「……そうだね」
「それに、夜通し動いた。休むぞ」
「シラスは左腕の傷もあるでしょ。休まないと駄目」
「俺よりお前のほうが疲れている」
「そんなことない!」
思わず声を張り上げた鈴に、シラスは眉を上げる。
「……張り合うな」
「張り合ってない!」
彼女は頬を膨らませた。
その様子に、シラスはほんの少しだけ口元を緩めた。
◇
二人は宿へ戻る前に、北東中継所の管理棟へ向かった。
昨日、閲覧を許された旧輸送記録の写しを確認するためだ。
受付には、昨日と同じ灰色の制服を着た中年の職員が座っていた。
「朝早くから何の用だ?」
「昨日見せてもらった輸送記録について、追加で確認したい」
シラスが答えると、職員は面倒そうに帳簿を引き寄せた。
「旧第七保管区関連の記録か。閲覧できる範囲は昨日と同じだ」
「それで構わない」
職員は数冊の帳簿を机に置いた。
シラスは傷のある左腕をかばいながら、右手でページをめくる。
鈴は隣から記録を覗き込んだ。
そこに記されていたのは、物資の移送日時、保管場所、管理者の署名。
しかし、肝心の移送先は何度も黒く塗り潰されている。
「また、これだ……」
シラスが呟く。
「記録が消されているの?」
「いや。最初から書かれていない箇所もある」
ページの端には、見覚えのある印があった。
円の中に交差する二本の線。
その下には、小さな三つの刻み。
「これって……」
鈴の声がわずかに震えた。
「街道で見つけたものと同じだ」
シラスは記号の横に書かれた文字を読み上げた。
「『分割保管。原記録は別管理』……」
「別の場所に記録があるってこと?」
「そう考えるのが自然だな」
だが、別管理先の名称は記されていない。
代わりに、帳簿の最後に短い一文があった。
『照合資料の回収は、旧管理者の承認を得ること』
シラスはその文章を紙に書き写す。
「旧管理者……。オルヴェンが話していた引き継ぎ未完了の管理者と関係があるのかもしれない」
「でも、その人がどこにいるか分からないんだよね」
「今のところはな」
職員が咳払いをした。
「そこまでだ。これ以上は閲覧許可がない」
シラスは帳簿を閉じた。
「分かった。助かった」
二人が管理棟を出ようとした時、職員が背後から声をかけた。
「……ひとつだけ忠告しておく」
シラスは足を止める。
「旧保管区の記録は、ただの輸送記録ではない。関係者の中には、今でもあれを守ろうとしている者がいる」
「守る?」
「それ以上は言えん」
職員は視線を帳簿に戻した。
シラスは鈴と目を合わせる。
「行くぞ」
鈴は小さく頷いた。
◇
宿へ戻ると、シラスは部屋の机に荷物を広げた。
第七保管区の保守記録。
北東中継所で写し取った輸送帳簿。
そして、第四十四話で見つけた、番号のない金属箱。
箱の表面には、あの円と交差する二本の線が刻まれている。
シラスは箱を帳簿の隣に置いた。
「……記号は同じだな」
鈴は椅子に座り、箱をじっと見つめた。
「これも、あの保管区と関係があるのかな」
「可能性はある。ただ、今は開けられない」
「何か方法が見つかるまで、待つしかないね」
「ああ」
シラスは箱を再び布で包み、荷物の奥へしまった。
その時、鈴のお腹が小さく鳴った。
「……」
部屋に沈黙が落ちる。
シラスは鈴を見る。
鈴は顔を真っ赤にして、両手でお腹を押さえた。
「ち、違うから!」
「何が?」
「今のは……その……!」
「腹が減ったんだろ」
「……うう」
シラスは立ち上がった。
「食事にする。昨日からまともに食べていない」
「シラスも食べるの?」
「当然だ」
「じゃあ、私が選ぶ!」
鈴は勢いよく立ち上がった。
◇
宿の食堂は、朝の客で賑わっていた。
二人は窓際の席に座り、温かいスープとパンを注文した。
鈴はスープを一口飲むと、ほっとしたように息を吐いた。
「……おいしい」
「そうか」
「シラスも食べて」
彼女は自分のパンを半分に割り、彼の皿へ置いた。
「お前の分が減るだろ」
「私はもう一つ頼めばいいもん」
「……好きにしろ」
鈴は満足そうに笑った。
しばらく食事を続けていると、近くの席にいた若い女性客がシラスへ声をかけた。
「すみません。旅の方ですか?」
「そうだが」
「その腕の傷、大丈夫ですか? もしよければ、私の持っている薬を――」
「必要ない」
シラスは短く答えた。
女性は少し残念そうにしながらも、笑顔を崩さなかった。
「そうですか。気をつけてくださいね」
彼女が席へ戻る。
鈴はスプーンを握ったまま、シラスをじっと見ていた。
「……シラス」
「何だ」
「さっきの人、親切だったね」
「そうだな」
「薬をくれるって」
「必要ないと言った」
「……ふーん」
鈴はスープをかき混ぜる。
「私だって、シラスの傷を心配してるんだけど」
「知っている」
「……本当に?」
シラスは彼女の目を見た。
「お前が何度も傷を確認してくるからな」
「そ、それは……!」
鈴の頬が赤くなる。
「別に、特別な意味はないから!」
「そうか」
「そうなの!」
シラスはパンを口に運ぶ。
鈴はしばらく彼を睨んでいたが、やがて小さな声で呟いた。
「……私にも、もっと頼ってくれていいのに」
シラスの手が止まった。
「頼っている」
「え?」
「お前が隣にいることを、当たり前だと思ってはいない」
鈴は目を丸くした。
その言葉の意味を考えるように、彼女はゆっくりと視線を落とす。
そして、スープの器を両手で包み込んだ。
「……そっか」
声は小さかったが、どこか嬉しそうだった。
◇
昼過ぎ。
シラスは宿の部屋で左腕の包帯を交換していた。
鈴はその隣に座り、真剣な表情で傷を見つめる。
「……やっぱり、まだ痛そう」
「動かさなければ問題ない」
「でも、森で私を庇った時……」
「必要な判断だった」
「私は、もっと上手に魔法を使えるようになりたい」
鈴は自分の手を見つめた。
「シラスが傷つくのを、ただ見ているだけじゃ嫌だ」
シラスは包帯を結び終える。
「焦るな。昨日より少し制御できた。それで十分だ」
「……うん」
彼女は小さく頷いた。
「でも、いつか私もシラスを守るから」
「期待している」
「……本当に?」
「嘘をつく理由がない」
鈴は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、シラスはふと、地下装置の記録を思い出した。
『接続候補者が自らの意思で接続を選択した場合――』
あの記録が示すものは、まだ分からない。
だが、少なくとも今、鈴は自分の意思で彼の隣にいる。
それだけは確かなことだった。
◇
夕刻。
宿の窓から北東中継所の塔が見えた。
その最上階では、灰色の制服を着た職員が一枚の報告書を差し出していた。
「旧記録の閲覧が確認されました。対象は輸送記録の一部を写し取っています」
黒い外套の男は、報告書に目を通す。
「金属箱については?」
「確認できていません。ただし、彼らが持ち込んだ荷物の中に、旧第七保管区の記号を持つ物品がある可能性は高いかと」
男はしばらく沈黙した。
「……記録の分割は、まだ有効か」
「はい。原記録は別管理です。旧管理者の承認がなければ照合できません」
黒い外套の男は報告書を机に置いた。
「ならば、彼らにその存在を知らせすぎるな」
「第四段階は?」
「準備は継続しろ」
男は窓の外を見た。
「接続候補者が自ら選ぶまでは、何も強制するな」
その声は冷静だった。
しかし、その言葉の奥にある意図を、誰も知ることはできなかった。
北東中継所の塔に、夜の影が落ちていく。
そして、シラスと鈴の旅は、まだ閉ざされた記録の奥へと続いていた。




