眠りから目覚めた旧保管区
水路の奥で、青い光が明滅していた。
シラスは剣の柄に手を添えたまま、通路の先を見つめていた。
低い機械音は止まらない。
まるで、長い眠りから目覚めた何かが、ゆっくりと動作を確認しているようだった。
「……入っても大丈夫なのかな」
スズが小さな声で尋ねる。
「大丈夫だと判断できる材料はない」
「じゃあ、戻る?」
「いや。ここまで来た以上、少しだけ確認する。ただし、異常があればすぐに引き返す」
「分かった」
シラスは足元の石をもう一つ拾い、通路の奥へ投げた。
石は地面を転がり、数メートル先で止まった。
何も起こらない。
彼は慎重に一歩踏み出した。
その直後、壁の青い光が強くなった。
カチリ。
今度は、先ほどよりもはっきりとした音が響いた。
「シラス……」
「分かっている。俺の後ろにいろ」
二人はゆっくりと通路を進んだ。
壁は古い石材で造られているが、その一部には金属製の板が埋め込まれている。表面には円と交差する二本の線が刻まれ、ところどころに小さな文字が残されていた。
その記号を見るたび、スズの胸元にある銀の飾りが微かに揺れる。
チリン。
「また鳴ったな」
「うん。でも、さっきよりは弱い気がする」
「何か感じるか?」
「……遠くから呼ばれているような感じ。でも、何を言っているのかは分からない」
シラスは足を止めた。
「無理に反応しなくていい。何かあればすぐに戻る」
「分かってる」
スズは飾りから手を離し、彼の後ろを歩き続けた。
◇
通路の先には、鉄製の扉があった。
扉の表面には、古びた文字が刻まれている。
『旧保管区・第二連絡室』
「第二連絡室……」
スズが文字を読み上げた。
「ここが旧保管区の入口らしいな」
「でも、扉が閉まっているわ」
扉の中央には、手のひらほどの大きさの円形装置が取り付けられていた。
円の周囲には、細い線が幾重にも刻まれている。
シラスは装置に触れず、まず扉の周囲を調べた。
鍵穴はない。
蝶番も外側からは確認できなかった。
「普通の扉じゃないな」
「魔法で開くの?」
「その可能性はある」
シラスは円形装置の周囲を見回した。
装置の下には、かすれた文字が残っている。
『登録された接続反応を確認せよ』
「接続反応……」
スズが呟いた。
その瞬間、彼女の銀の飾りが小さく揺れた。
チリン。
円形装置の中央に、青い光が灯る。
「っ!」
シラスはすぐにスズの前へ移動した。
扉の表面に細い光の線が走り、中央の円がゆっくりと回転する。
低い機械音が、通路全体に響いた。
『接続反応を検出』
壁の奥から、かすれた声のような音が聞こえた。
『照合を開始します』
「今のは……?」
スズが不安そうにシラスを見る。
「分からない。だが、扉が反応した」
『照合対象――不完全』
光が一瞬だけ弱くなる。
『記録との不一致を確認』
続けて、扉の中央に赤い光が灯った。
『接続を保留します』
ガコン。
内部で何かが動いた音がした。
扉は開かなかった。
「……不完全って、どういう意味?」
「分からない」
「私が何か間違えたのかな」
「お前が悪いわけじゃない」
シラスは円形装置から距離を取った。
「少なくとも、ここにある仕組みはお前を認識した。だが、完全には一致しなかったらしい」
「私のことを知っているの?」
「この装置が、お前に関係する何かを記録している可能性はある」
スズは扉を見つめた。
何かを思い出しそうになる。
けれど、頭の中に浮かぶのは白い光と、遠くから聞こえる音だけだった。
「……開かないのね」
「ああ。今はな」
シラスは扉の脇に目を向けた。
壁の下部に、別の小さな金属板が取り付けられている。
そこには、短い文章が刻まれていた。
『接続候補者の意思確認を優先すること』
シラスはその文字を紙に写した。
「意思確認……」
スズが呟く。
「どういう意味なの?」
「まだ分からない。ただ、無理に扉を開けようとするのはやめたほうがいい」
シラスは彼女の肩に軽く手を置いた。
「先へ進むのは、情報を集めてからだ」
スズは少し残念そうにしながらも、頷いた。
◇
扉の前を離れた二人は、通路の脇にある小部屋を見つけた。
入口には古い札が掛かっている。
『保守作業室』
扉は半開きになっていた。
「中を確認するぞ」
「うん」
シラスが先に入り、部屋の中を見回す。
そこには壊れた机と、錆びた工具、壁際に置かれた金属製の棚があった。
床には古い紙片が散らばっている。
誰かが以前ここを使っていたようだ。
「完全に放棄されたわけじゃなさそうだな」
「どうして?」
「埃の積もり方が違う。床の一部だけ、最近誰かが歩いた跡がある」
シラスは足元を指さした。
埃の薄い部分が、部屋の奥にある棚まで続いている。
二人は慎重に近づいた。
棚の上には、小さな金属製の箱が置かれていた。
表面には番号が刻まれている。
『第七保管区・保守記録』
「これ……」
スズが息を呑んだ。
シラスは箱を開けた。
中には薄い冊子と、数枚の金属札が入っている。
冊子の表紙は傷んでいたが、文字はまだ読めた。
「見つかったな」
シラスは冊子を開いた。
最初のページには、設備の点検日と担当者の名前が並んでいる。
しかし、途中から記録の内容が変わっていた。
『第二連絡室、接続装置の調整』
『照合反応に異常あり』
『対象保護手順を維持』
さらに数ページ進むと、別の記録があった。
『対象の記憶状態に変化なし』
『自発的な接続反応を待つ』
『強制接続は禁止』
シラスの指が止まった。
「……強制接続は禁止、か」
スズが彼の隣から冊子を覗き込む。
「私のことなの?」
「その可能性はある」
「どうして、そんなことが書かれているの?」
「分からない。だが、少なくとも昔の管理者たちは、対象を無理やり装置に接続することを禁じていたらしい」
シラスはページをめくった。
最後のほうには、短い文章が残されていた。
『接続候補者の意思を確認できない場合、手順を停止すること』
その下には、別の筆跡で書き加えられた一文があった。
『保護を優先せよ。記録の回収を急ぐ必要はない』
シラスは冊子を閉じた。
「この施設は、単に輸送物資を保管していた場所じゃないな」
「私に関係するものを調べていたの?」
「その可能性は高い」
スズはしばらく黙っていた。
やがて、彼女は棚の奥にある別の紙片を見つけた。
「シラス、これも見て」
それは小さな作業記録だった。
文字はほとんど消えていたが、最後の部分だけは読める。
『第七保管区から北東中継所へ移送』
『共鳴器一基、保管継続』
『旧管理者への引き継ぎ未完了』
「共鳴器……」
スズが呟いた。
シラスは紙片を慎重に折りたたみ、冊子と一緒にしまった。
あの木箱に入っていた銀色の装置。
あれが共鳴器だったのかもしれない。
そして、今も北東中継所のどこかに保管されている。
◇
そのとき、通路の向こうから足音が聞こえた。
シラスはすぐに冊子を閉じた。
「誰か来る」
スズが息を潜める。
足音はゆっくりと近づいてくる。
一人ではない。
少なくとも二人。
「この部屋に入ってきたら、棚の後ろへ隠れろ」
「シラスは?」
「俺が様子を見る」
「一緒に隠れたほうがいいわ」
「逃げ道を確認する必要がある」
シラスは彼女を棚の陰へ誘導した。
その直後、通路の入口に人影が現れた。
灰色の制服を着た男が二人。
一人は昼間、二人を案内した受付係だった。
「確かに、こちらへ来たようです」
「足跡が残っているな」
「記録室の扉には近づいたのでしょうか」
「分からない。だが、第二連絡室が反応した形跡がある」
受付係は円形装置の前で足を止めた。
「照合は保留されたようです」
「対象が不完全だったのか?」
「記録上はそうなっています」
もう一人の男が、小さく息を吐いた。
「なら、まだ大丈夫だ。管理者に報告しておけ」
「このまま放置してよろしいのですか?」
「今は手を出すな。強制的な接続は許可されていない」
その言葉に、シラスは眉をひそめた。
彼らは、この施設の仕組みを知っている。
しかも、古い記録に書かれた規則まで把握しているようだった。
「それに、少女は自分の意思でここまで来たわけではない」
「しかし、装置が反応しました」
「だからこそ、慎重に扱う必要がある」
二人は少しの間、扉を確認していた。
やがて、受付係が口を開く。
「剣士のほうはどうしますか?」
「今は放っておけ。彼がいることで、少女が落ち着いている可能性もある」
「彼を利用するということですか?」
「利用するつもりはない。ただ、余計な刺激を与える必要もない」
男たちは通路を戻っていった。
足音が完全に消えるまで、シラスは動かなかった。
◇
「……行った?」
スズが小声で尋ねた。
「ああ」
シラスは棚の陰から出て、彼女の様子を確認した。
「大丈夫か?」
「うん。でも、今の人たち……」
「ああ。少なくとも、この施設について何か知っている」
「強制接続は禁止って言ってたわね」
「保守記録にも同じことが書いてあった」
「じゃあ、私を無理やり何かに繋ぐつもりはないのかな」
「今の会話だけなら、そう考えられる」
シラスは少し考えた。
「だが、連中が規則を守るとは限らない。信用はできない」
スズは胸元の飾りに触れた。
「私、やっぱりここに来たことがあるのかもしれない」
「そうかもしれないな」
「でも、何も思い出せない」
「今はそれでいい」
シラスは冊子を荷物にしまった。
「必要な情報は手に入った。これ以上、ここにいる理由はない」
「戻るの?」
「ああ。今夜はここから離れよう」
二人は小部屋を出た。
通路を戻る途中、シラスは一度だけ振り返った。
第二連絡室の扉は、相変わらず閉じたままだった。
中央の青い光も消えている。
しかし、その奥で何かがまだ動いているような気がした。
◇
水路から外へ出た頃には、日が傾き始めていた。
シラスは周囲を確認してから、スズを連れて中継所から離れた。
しばらく歩いたところで、彼女が口を開いた。
「ねえ、シラス」
「何だ?」
「さっきの記録にあったでしょう。強制接続は禁止って」
「ああ」
「もし、私が自分から接続したら……何が起きるのかな」
「分からない」
「記憶が戻るの?」
「そうなる可能性はある。だが、保証はない」
「怖いわね」
「なら、今すぐ試す必要はない」
スズは彼の横顔を見た。
「シラスは、私が接続しないほうがいいと思う?」
「俺が決めることじゃない」
「でも、危険かもしれない」
「だからこそ、情報を集める。何が起きるか分からないまま、お前に選ばせるつもりはない」
スズは少しだけ目を見開いた。
「……ありがとう」
「礼はもういい」
「何度でも言うわ」
「好きにしろ」
彼女は微笑み、彼の隣を歩いた。
そのとき、シラスの荷物の中で、古い冊子が小さく揺れた。
紙片の一番下には、まだ彼らが読んでいない記録が残っていた。
『接続候補者が自らの意思で接続を選択した場合、封鎖手順を再検討すること』
その記録の横には、別の小さな文字が刻まれていた。
『第四段階、準備完了』
北東中継所の地下では、古い装置が再び静かに動き始めていた。




