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北東へ続く古い街道

ダリウスと別れてから、半日が過ぎた。


 シラスとスズは、北東中継所へ続く街道を歩いていた。


 昨日まで三人で進んでいた道は、今日はずいぶん広く感じられる。


 後方を警戒するダリウスの姿も、時折聞こえていた冷静な声もない。


 代わりに、隣から聞こえてくるのはスズの小さな鼻歌だった。


「……機嫌がいいな」


 シラスが言うと、スズは鼻歌を止めた。


「そう?」


「ああ」


「別に、普通よ」


「そうか」


「そうよ」


 少し間を置いて、スズは彼の顔を覗き込んだ。


「シラスは?」


「何がだ?」


「二人だけになったこと。寂しくない?」


「ダリウスがいないと、後ろを警戒する手間が増える」


「そういう話じゃないでしょう!」


 スズが頬を膨らませた。


「もう少し普通の答えはないの?」


「普通の答えか……」


 シラスは少し考えた。


「三人で旅をするのも悪くなかった。だが、今はお前と二人で進むしかない。それだけだ」


「……それだけ?」


「不満か?」


「別に!」


 スズは前を向いた。


 白い髪の二つの結び目が、歩くたびに小さく揺れる。


 その横顔は、どこか納得していないようだった。


「まあ、いいわ。これからは私が後ろも見てあげる」


「頼もしいな」


「本当よ。昨日だって、ちゃんと自分で敵を避けられたんだから」


「ああ。助かった」


「……えへへ」


 今度は隠しきれない笑みがこぼれた。


 シラスはそれを見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。


     ◇


 しばらく進むと、街道脇に古い石碑が立っていた。


 高さはシラスの胸ほど。表面は風雨に削られ、刻まれた文字の大半が読めなくなっている。


「何か書いてあるわ」


 スズが近づいた。


 石碑の上部には、古い輸送路を示す矢印が残っている。


 その下には、かすれた文字が並んでいた。


「……北東、旧……管理所?」


 シラスは石碑の表面についた苔を指で払った。


「北東中継所へ向かう途中に、古い管理所があったのか」


「今もあるのかな?」


「分からない。地図には載っていない」


 シラスは荷物から地図を取り出した。


 現在の街道は、この石碑の先で少しずつ北へ曲がっている。しかし、石碑に刻まれた矢印は、現在の道とは異なる方向を指していた。


 森の奥へ向かう、細い道。


「古い街道があったのね」


「おそらくな。今は使われていないようだ」


「じゃあ、どうして石碑だけ残っているの?」


「道が使われなくなっても、目印まで撤去する理由はないだろう」


 シラスは石碑の根元を調べた。


 土の中に、何かが埋まっている。


 手で周囲の土を払うと、小さな金属板が姿を現した。


「また金属板?」


 スズが顔をしかめる。


「どうやらな」


 金属板には、例の円と交差する二本の線が刻まれていた。


 しかし、これまで見つけたものとは少し違う。


 三本の刻みはない。


 代わりに、端の部分に古い文字が彫られていた。


『旧北東管理路』


「中継所とは別の場所みたいね」


「そうだな」


「ここにも、あの印があるってことは……」


「同じ設備、あるいは同じ管理体系に関係していた可能性がある」


 シラスは金属板を布で拭いた。


 裏側には、さらに小さな文字が残っている。


『記録保管先――北東中継所』


 シラスの目が細くなった。


「これは使えるかもしれない」


「中継所に記録があるの?」


「少なくとも、旧管理路に関する記録を保管していたらしい」


「じゃあ、私たちが探しているものも見つかるかもしれない?」


「期待しすぎるな。古い記録が残っているとは限らない」


 そう言いながらも、シラスは金属板を荷物へしまった。


 中継所へ向かう理由が、また一つ増えた。


     ◇


 昼過ぎ、二人は小さな集落へ到着した。


 街道沿いに建つ家は十数軒ほど。古い井戸と荷車置き場があり、旅人が休める簡素な食堂も一軒だけあった。


 店の看板には『旅人の止まり木』と書かれている。


「少し休もう」


「賛成!」


 スズは嬉しそうに頷いた。


 食堂に入ると、白髪交じりの店主が二人を出迎えた。


「いらっしゃい。食事かい?」


「ああ。二人分頼む」


「何がある?」


「今日は豆の煮込みと焼きパンだ。肉は少ないが、腹は満たせるよ」


「それでいい」


 二人は窓際の席に座った。


 スズは椅子に腰を下ろすと、深く息を吐いた。


「やっと座れたわ」


「昨日も休んだだろう」


「昨日は見張り小屋だったもの。椅子に座るのとは違うわ」


「そういうものか」


「そういうものよ」


 店主が水を運んできた。


 スズは礼を言ってから、店内を見回した。


 壁には古い街道の地図が飾られている。今の地図とは違い、いくつもの細い道が森や丘を横切っていた。


「あれ、見て」


 彼女が壁を指さした。


 シラスは地図に目を向ける。


「古い街道の地図か」


「さっきの石碑にあった道も載っているかもしれないわ」


 二人は席を立ち、地図の前へ移動した。


 地図には、現在では使われていない道がいくつも描かれていた。


 その中に、北東管理路という文字がある。


 道は集落から森の北側を通り、やがて北東中継所へ繋がっていた。


「やっぱり、ここにあったんだ」


 スズが小さく呟く。


 シラスは地図の端を確認した。


 そこには、管理路に沿って複数の小さな印が並んでいる。


 そのうちの一つは、円と交差する二本の線に似ていた。


「この印……」


「同じもの?」


「完全に同じかは分からない。だが、よく似ている」


 シラスは店主に声をかけた。


「この地図は、いつ頃のものだ?」


「さあね。祖父の代から飾ってあるから、かなり古いはずだよ」


「北東管理路について何か知らないか?」


 店主は少し考えた。


「昔は荷車が通っていたらしいが、今じゃ誰も使わない。森の中で道が崩れたとか、管理所が閉鎖されたとか、そんな話を聞いたことがある」


「管理所が閉鎖された理由は?」


「そこまでは知らないね。ただ、ずいぶん前から人がいなくなったそうだ」


 シラスは地図に視線を戻した。


「中継所は今も使われているのか?」


「表向きはね。だが、普通の商人が利用することはほとんどないよ。今は大きな輸送隊がたまに通るくらいだ」


「ここからどれくらいだ?」


「徒歩なら、明日の昼過ぎには着くだろう」


「そうか。助かった」


 店主は軽く頷き、厨房へ戻っていった。


 スズは地図を見つめたまま、静かに言った。


「ねえ、シラス」


「何だ?」


「中継所に行けば、私のことも分かるのかな」


 その声には、期待と不安が混ざっていた。


 シラスはすぐには答えなかった。


 これまで見つけた記録には、彼女を示すような言葉が何度も残されていた。


 対象。


 保護。


 接続。


 そのどれもが、彼女の過去と関係している可能性がある。


 だが、記録が見つかったとしても、そこに書かれていることが真実とは限らない。


「分からない」


 シラスは正直に答えた。


「何も見つからないかもしれない。見つかったとしても、意味が分からない可能性もある」


「うん……」


「だが、調べる価値はある」


 彼はスズの目を見た。


「お前が自分のことを知りたいなら、俺も一緒に調べる」


 スズはしばらく彼を見つめていた。


 やがて、小さく笑った。


「ありがとう」


「礼を言われることじゃない」


「それでも言いたいの」


 彼女は椅子へ戻った。


 ちょうどそのとき、店主が食事を運んできた。


 湯気の立つ豆の煮込みと、焼きたてのパン。


 スズの表情が一気に明るくなった。


「わあ……美味しそう!」


「冷める前に食べろ」


「分かってるわ」


 彼女はスプーンを手に取った。


 一口食べると、目を輝かせる。


「美味しい!」


「それはよかったな」


「シラスも食べてみて」


「自分の分がある」


「いいから!」


 彼女は自分のパンを小さくちぎり、シラスの皿の近くへ置いた。


「はい」


「……ありがとう」


 シラスはそれを受け取った。


 彼女は満足そうに笑う。


 旅の途中にある、ほんの短い休息。


 今は、それだけで十分だった。


     ◇


 食事を終えたあと、シラスは店主から古い街道の地図を写させてもらった。


 その間、スズは店の外で銀の飾りを指先で触っていた。


 小さな鈴のような音が鳴る。


 彼女はその音を聞きながら、ふとシラスを振り返った。


「ねえ、シラス」


「何だ?」


「私の記憶が戻ったら……今のことも忘れちゃうのかな」


 シラスの手が止まった。


「どういう意味だ?」


「昔のことを全部思い出したら、今の私がどうなるのか分からないでしょう?」


「記憶が戻ったからといって、今までのことが消えるわけじゃない」


「でも、もし昔の私が今の私と違っていたら?」


「違っていたとしても、お前はお前だ」


 シラスは地図を畳んだ。


「記憶が戻る前のお前も、戻った後のお前も、別人になるわけじゃない」


 スズは目を伏せた。


「……そうね」


「それに、無理に思い出す必要もない。知りたくないことまで、今すぐ知る必要はない」


「でも、知りたいの」


「なら、少しずつ調べればいい」


 スズは顔を上げた。


「シラスは、私がどんな人だったとしても、一緒にいてくれる?」


「俺が知っているのは、今のお前だ」


「それでも?」


「それでもだ」


 スズはしばらく黙っていた。


 やがて、彼女は彼のコートの袖をそっと掴んだ。


「……じゃあ、今はそれでいい」


 シラスは何も言わなかった。


 ただ、その手を振り払うこともしなかった。


     ◇


 夕方、二人は集落を出発した。


 北東中継所までは、明日の昼頃には到着できる見込みだった。


 街道の先には、森の向こうに古い石造りの塔が見える。


 地図には載っていない建物だった。


「シラス、あれは何かしら?」


「分からない。中継所の施設かもしれないな」


「近づいてみる?」


「今日はやめておこう。日が暮れる」


「そうね」


 二人は街道を進み続けた。


 その頃、北東中継所の地下にある古い記録室では、一人の男が薄暗い照明の下で書類を確認していた。


 机の上には、円と交差する二本の線が刻まれた金属板。


 その隣には、古い輸送記録が積み重なっている。


 男は一枚の記録を取り出した。


『第七保管区関連物資』


『北東管理路を経由』


『対象保護を優先せよ』


 男は最後の一文を見つめた。


「……まだ記録が残っていたか」


 そのとき、背後の扉が開いた。


「報告です。二名が集落を通過しました」


「二名?」


「剣士と少女です。追跡者は同行していません」


 男は書類を閉じた。


「予定より早いな」


「第四誘導地点の準備は整っています」


「そうか」


 男は金属板を机の引き出しへしまった。


「中継所の入口は開けておけ。ただし、記録室には入れるな」


「承知しました」


「それから、少女の姿を確認したら報告しろ。こちらから接触する必要はない」


 男は窓のない地下室を見回した。


 長い間、誰も訪れなかった記録室。


 その奥には、今も稼働しているかどうか分からない古い装置が眠っていた。


「彼女がここまで来るとはな……」


 男は小さく呟いた。


 そして、机の上に残された記録の一番下に、別の紙があることに気づいた。


 そこには、短い一文だけが記されていた。


『接続候補者、記憶欠損状態』


 男はその紙を裏返した。


 まだ、その記録を誰かに見せる時ではなかった。

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