分かれ道に残された手掛かり
夜が明ける頃、シラスたちは崖沿いの道を抜けた。
昨夜はほとんど休めなかった。
追っ手の気配が完全に消えたわけではなく、何度か遠くで物音が聞こえた。そのたびにダリウスが周囲を確認し、シラスは浅い眠りから目を覚ました。
そして、今。
「……少しは眠れたか?」
先頭を歩いていたシラスが、後ろの二人に尋ねた。
「私は大丈夫」
スズはそう答えたものの、目元には疲れが残っていた。
「お前は?」
「問題ない」
「昨日からそればかりだな」
「実際に歩けている」
「そういう問題じゃないでしょう」
スズは不満そうにシラスの左腕を見た。
包帯には、わずかに血が滲んでいる。
昨夜、彼女が巻き直してくれたものだ。傷そのものは深くないが、無理に動かしたせいで出血が続いていた。
「一度、ちゃんと休んだほうがいい」
「安全な場所を見つけてからだ」
「その安全な場所がいつ見つかるのよ」
「見つからなければ、作るしかないな」
「もう……」
スズは小さく息を吐いた。
その様子を見ていたダリウスが、淡々と口を挟む。
「彼女の言うとおりだ。傷を放置すれば、後で動けなくなる」
「お前まで言うのか」
「事実を言っているだけだ」
「二人して俺を責めるとはな」
「責めてないわ。心配してるの!」
スズの声が少し大きくなる。
シラスは一瞬だけ彼女を見て、それから前を向いた。
「……分かった。次の場所で休む」
「本当?」
「ああ」
「絶対よ?」
「二度も確認するな」
「確認したくなるようなことばかりするからでしょう!」
ダリウスが小さく笑った。
緊張の続く旅の中で、その短いやり取りだけが、いつもと変わらない時間だった。
◇
午前中、三人は街道から外れた古い見張り小屋を見つけた。
屋根の一部は崩れていたが、壁はまだ残っている。周囲には人の気配もなく、近くの道を見渡せる場所だった。
「ここなら少し休める」
ダリウスが周囲を確認してから言った。
シラスは壁際に腰を下ろした。
「やっと休めるな」
「最初から休めと言っていたでしょう」
「聞こえてはいた」
「聞こえていたなら、どうして休まなかったの?」
「状況を見ていた」
「本当にもう……」
スズは呆れながらも、荷物から包帯と薬を取り出した。
「腕を出して」
「自分でできる」
「駄目」
「……分かった」
シラスは大人しく左腕を差し出した。
スズは慎重に古い包帯を外し、傷口を確認する。
「まだ少し開いてるわね」
「大した傷じゃない」
「大した傷じゃないなら、こんなに血が出ないでしょう」
彼女は薬を塗り、新しい布を巻き始めた。
その手つきは、昨日よりも落ち着いていた。
「痛かったら言ってね」
「分かった」
「本当に?」
「痛いと言ったら、手加減してくれるのか?」
「もちろんよ」
「なら、少し痛い」
「……もう!」
スズは頬を膨らませた。
その様子に、ダリウスが壁にもたれたまま言った。
「お前たちは、戦闘中より今のほうが騒がしいな」
「ダリウスまで!」
「悪い。静かにしておこう」
彼はそう言って、外へ視線を向けた。
だが、その表情はすぐに真剣なものへ戻った。
「ところで、昨日の金属札だが」
シラスは懐から札を取り出した。
表面には三本の刻み。裏側には『次段階、開始準備』と記されている。
「これがどうした?」
「刻みの並びが気になる」
ダリウスは札を受け取り、指で表面をなぞった。
「昨日、襲撃者が持っていた金属片と比べてみろ」
シラスはもう一つの破片を取り出した。
二つを並べる。
刻みの数も、間隔も、ほとんど同じだった。
「同じ組織のものだな」
「それだけじゃない。こちらの札には、裏側に小さな番号がある」
ダリウスが札を傾ける。
光の加減で、刻みの下に数字が浮かび上がった。
『四』
「第四誘導地点か」
「おそらくな。昨日の記録にあった第三地点と繋がる」
シラスは札を見つめた。
「つまり、次の場所も用意されている」
「そう考えるべきだ」
「連中は俺たちを中継所へ誘導したいのか。それとも、別の場所へ連れていきたいのか……」
「まだ分からない」
ダリウスは札を返した。
「だが、俺には一つ気になることがある」
「何だ?」
「この記号だ」
彼は紙を取り出し、円と交差する二本の線を描いた。
その横に、三本の短い刻みを加える。
「以前、俺が調べていた別の輸送記録にも、似た印があった」
「別の輸送記録?」
「ああ。今回の件とは別に、ある商人から依頼されて調査したものだ。北東の街道ではなく、南側の古い輸送路に関する記録だった」
「そこにも、この印が?」
「完全に同じではない。だが、記録の管理番号に似た形式が使われていた」
ダリウスは紙を畳んだ。
「この印を使っている連中が、複数の輸送路に関わっている可能性がある」
シラスは少し考えた。
「その依頼人は?」
「今は答えられない。仕事上の約束がある」
「そうか」
「ただ、依頼人から受け取った古い記録の保管場所なら分かる。そこへ行けば、何か見つかるかもしれない」
ダリウスは外を見た。
「俺は一度、そちらを調べに行く」
◇
「別行動をするってことか?」
シラスが尋ねる。
「ああ。ここから北東中継所へ向かう道と、俺が調べたい場所は途中で分かれる」
「俺たちと一緒に行くことはできないのか?」
「できなくはない。だが、両方を調べるには時間が足りない」
ダリウスは淡々と答えた。
「それに、今回の襲撃で分かったことがある。連中は俺たち三人を一緒に観察している。別々に動けば、向こうの計画にも多少のずれが生じるかもしれない」
「危険じゃないの?」
スズが不安そうに尋ねた。
「一人で動くほうが危険な場合もある。だが、俺には俺の調査方法がある」
「また襲われたら?」
「対処する」
「簡単に言うわね……」
ダリウスは少しだけ口元を緩めた。
「君たちも、十分に気をつけろ。特に少女を狙っている連中には注意したほうがいい」
「分かってる」
シラスが答える。
「北東中継所に到着したら、何があっても記録を確認する。もし俺が先に何かを掴んだら、連絡を送る」
「どうやって?」
スズが尋ねた。
「街道沿いの宿や商人の組合に伝言を残す。君たちが立ち寄る可能性のある場所をいくつか決めておこう」
ダリウスは紙に二つの地名を書いた。
一つは、北東中継所へ向かう街道沿いの宿場町。
もう一つは、南側の輸送路にある小さな商業都市だった。
「このどちらかに伝言を残す。君たちも、何か分かったら同じ方法で知らせてくれ」
「分かった」
シラスは紙を受け取った。
短い沈黙が流れる。
これまで、ダリウスは常に一定の距離を保ちながら同行していた。
彼の目的も、すべてが明らかになったわけではない。それでも、何度か命を預け合った相手だ。
「……助かった」
シラスが口を開いた。
「何の話だ?」
「これまでのことだ。お前がいなければ、昨日はもっと厄介な状況になっていた」
「礼を言われるほどのことじゃない。俺にも調べたいことがあっただけだ」
「それでもだ」
ダリウスは少しだけ目を細めた。
「そうか。なら、礼は受け取っておく」
スズも彼の前に立った。
「ダリウスさん」
「何だ?」
「今までありがとう。最初は少し怖かったけど……一緒に旅をしてくれて、心強かったわ」
「怖かったのか」
「だって、いつも何を考えているか分からないんだもの」
「それはよく言われる」
「でも、悪い人じゃないって分かったから」
「褒め言葉として受け取っておこう」
スズは小さく笑った。
ダリウスは荷物を肩に掛け、見張り小屋の出口へ向かった。
「それじゃあ、ここで別れよう」
「気をつけろよ」
「お前もな。腕を悪化させるな」
「分かっている」
「それから、少女を一人にするな」
「言われなくても分かってる」
「ならいい」
ダリウスは最後に一度だけ振り返った。
「またどこかで会おう」
「ああ」
「うん。またね!」
彼は軽く手を上げると、南へ続く道へ歩き出した。
その背中は、やがて木々の向こうへ消えていった。
◇
ダリウスと別れてから、シラスとスズはしばらく見張り小屋に残った。
スズは荷物を整理しながら、何度か外を見ていた。
「寂しいのか?」
シラスが尋ねる。
「別に……」
「そうか」
「ただ、三人で歩いていたのに、急に二人になったから」
「静かになっていいんじゃないか?」
「シラスはそう思うの?」
「冗談だ」
「もう!」
スズは頬を膨らませた。
だが、すぐに表情を少しだけ曇らせる。
「ダリウスさん、大丈夫かな」
「自分の身は自分で守れる男だ。心配しすぎる必要はない」
「でも、昨日みたいな敵がいたら……」
「だからこそ、あいつも別の道を調べるんだろう。俺たちだけで全てを調べるより、手掛かりが増える可能性がある」
「そうね……」
スズは荷物を閉じた。
それから、シラスの隣へ座る。
「ねえ」
「今度は何だ?」
「これからは、二人だけなのね」
「そうなるな」
「……ちゃんと私のことも頼ってよ」
シラスは彼女を見た。
「頼っているつもりだが」
「まだ足りないわ」
「難しい注文だな」
「私だって、守られるだけじゃ嫌なの。昨日も、少しは役に立てたでしょう?」
「ああ。助かった」
シラスは素直に答えた。
スズが目を丸くする。
「……今、褒めた?」
「事実を言っただけだ」
「もう一回言って」
「断る」
「どうしてよ!」
「一度で十分だろう」
「十分じゃないわ!」
スズは彼の袖を掴んだ。
その手が、包帯の巻かれた左腕に触れないよう、慎重に力を加えていることにシラスは気づいた。
「分かった。次に助けてもらったら、また言う」
「次を待たなくてもいいじゃない」
「欲張りだな」
「悪い?」
「いや」
シラスは立ち上がった。
「そろそろ出発するぞ。今日は無理をせず、日が暮れる前に休める場所を探す」
「うん!」
スズも立ち上がり、彼の隣へ並んだ。
今度は、少しだけ距離が近かった。
◇
一方、北東中継所へ続く街道。
黒い外套の男は、部下から報告を受けていた。
「追跡者が対象から離れました」
「離れた?」
「はい。南側へ向かったようです」
男は手元の記録板に視線を落とした。
「問題ない。追跡者は当初の観察対象ではない」
「では、予定どおり第四誘導地点へ?」
「そうだ」
男は記録板に新たな印を付けた。
「剣士と少女の二人だけなら、次の段階は進めやすい」
「少女を確保しますか?」
「まだだ。中継所へ到着するまでは、彼女の意思を観察する」
「しかし、今回も確保に失敗すれば……」
「失敗ではない」
男は部下の言葉を遮った。
「彼女が自ら力を使い、選び、進んでいる。それが重要なのだ」
男は記録板を閉じた。
「次の地点では、逃げ道を一つだけ残せ」
「一つだけ、ですか?」
「ああ。彼らが自分の意思でそこを選ぶように仕向けろ」
部下は一礼し、森の中へ姿を消した。
男は遠くの街道を見つめた。
その先にある北東中継所では、古い設備が今も眠っている。
そして、その設備に関する記録には、何度も同じ一文が残されていた。
『対象が自らの意思で接続を選択した場合、封鎖手順を再検討すること』
男は小さく呟いた。
「もう少しだ……」
誰に向けた言葉なのかは、分からなかった。




