街道に残された爪痕
翌朝、シラスは夜明け前に目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗い。集落の家々には灯りがほとんどなく、街道を吹き抜ける風の音だけが聞こえていた。
彼は静かに起き上がり、剣帯を締めた。
昨日、ダリウスから聞いた話が頭に残っている。
街道の先で襲われた荷馬車。
荷物は奪われず、御者だけが負傷していた。
普通の盗賊の仕業とは考えにくい。
そして、北東中継所へ向かう道には、こちらの進路を探るような足跡も残されていた。
偶然が二つ続けば、疑う理由にはなる。
三つ目が見つかれば、ほぼ確信に変わるだろう。
「……面倒な旅になりそうだ」
「最初から面倒だったじゃない」
背後から声がした。
振り返ると、鈴が寝台の上で毛布を肩まで引き上げていた。白い髪が少し乱れ、青い目だけがこちらを見ている。
「起きていたのか」
「シラスがごそごそ動くからよ」
「静かに準備したつもりだが」
「剣を腰につける音は、結構響くの」
「それは初耳だ」
「私が今、教えてあげたのよ」
鈴は得意げに胸を張った。
だが、次の瞬間、小さく欠伸をした。
「……まだ眠いなら、もう少し寝ていてもいいぞ」
「起きるわよ。今日は早く出るんでしょう?」
「ああ」
「なら、私も準備する」
鈴は毛布をどけ、寝台から降りた。
その足元が少しふらついたので、シラスは反射的に手を伸ばしかけた。
だが、鈴は自分で机に手をついて体勢を整えた。
「大丈夫。寝ぼけただけ」
「そうか」
「……今、助けようとした?」
「転びそうだったからな」
「ふうん」
鈴は何か言いたげに彼を見たが、すぐに顔を背けた。
「別に、助けてくれてもよかったのに」
「どっちなんだ」
「知らない!」
彼女は旅支度を始めた。
シラスは小さく息を吐き、窓の外へ目を向けた。
夜明けは近い。
そして、今日の街道は昨日より危険かもしれなかった。
◇
朝食を済ませた三人は、集落の出口で馬を借りることにした。
北東中継所までは、歩いても行ける距離だ。しかし、襲撃現場を確認してから先へ進むなら、時間に余裕が欲しかった。
借りられたのは、荷物を運ぶための小さな馬一頭と、簡素な荷車だった。
御者台にはダリウスが座り、シラスと鈴は荷車の後ろに腰掛けた。
「どうして俺が御者なんだ?」
ダリウスが不満そうに言った。
「馬を扱えるからだろう」
「お前も扱えるはずだ」
「俺は周囲を警戒する」
「俺も警戒できる」
「なら、馬を扱いながら警戒してくれ」
「……お前、本当に口が減らないな」
「褒め言葉として受け取っておく」
鈴は二人のやり取りを聞きながら、こっそり笑った。
「二人とも、意外と仲がいいのね」
「よくない」とダリウス。
「同感だ」とシラス。
二人の答えが重なった。
鈴はとうとう声を出して笑った。
その笑い声に、ダリウスは肩をすくめ、シラスは何も言わずに街道の先を見た。
集落を離れて一時間ほど進むと、道は緩やかな下り坂になった。
右手には森が広がり、左手には浅い谷が続いている。
遠くに、石造りの橋が見えた。
「あそこだな」
ダリウスが手綱を緩めた。
橋の手前には、横倒しになった荷馬車があった。
車輪の一つが外れ、荷台の板が割れている。荷物は周囲に散乱していたが、盗まれた形跡はほとんどない。
近くの木には、矢が一本刺さっていた。
シラスは荷車から降り、周囲を見回した。
「鈴、ここから動くな。ダリウス、橋の向こうを確認してくれ」
「わかった」
ダリウスは馬を止め、剣の位置を確かめてから橋へ向かった。
シラスは倒れた荷馬車に近づいた。
地面には複数の足跡が残っている。
重い靴底。軽い靴底。走った跡。
それから、荷馬車の近くに引きずられたような線があった。
「……御者を引きずったのか?」
シラスはしゃがみ込み、跡を確かめた。
線は馬車の陰まで続き、そこで途切れている。
血痕は少ない。
御者が大怪我を負ったという話だったが、命に関わるほどではなかったらしい。
そのとき、背後から鈴の声がした。
「シラス、これを見て」
彼女は荷台の下から、小さな木片を拾い上げていた。
「勝手に動くなと言っただろう」
「近づいてないわ。ここに落ちていたの」
「……見せてくれ」
木片の表面には、細い溝が刻まれていた。
円と交差する二本の線。
そして、その横に三つの小さな刻み目。
シラスの表情が変わった。
「また、この紋章か」
「うん。昨日の金属片と同じ形ね」
鈴は木片を裏返した。
裏側には、文字の一部が残っている。
『……送先、北東……』
それ以上は削れていて読めなかった。
「輸送に関係する印かもしれないな」
シラスは木片を受け取り、布で包んだ。
「ただし、これが誰のものなのか、まだわからない。持ち主を特定する手掛かりとして保管しておく」
「私にも、何かできた?」
鈴が尋ねた。
シラスは彼女を見た。
「できた。よく見つけたな」
鈴の顔がぱっと明るくなった。
「本当?」
「ああ。だが、次からは何かを拾う前に声をかけろ。仕掛けがあるかもしれない」
「……わかった」
彼女は少しだけ口を尖らせたが、素直に頷いた。
その様子を見ていたダリウスが戻ってきた。
「橋の向こうに新しい足跡がある。襲撃の後についたものだろう」
「何人だ?」
「少なくとも二人。橋を渡った後、森へ入っている」
「逃げた襲撃者か?」
「その可能性はある。だが、現場を確認しに来た別の人間かもしれない」
シラスは、木片をしまった袋に手を置いた。
「どちらにしても、俺たちがここを調べていることを知られたくはないな」
「なら、早く離れるべきだ」
「いや、もう少しだけ調べる」
シラスは荷馬車の車輪を見た。
外れた車輪は、軸が壊れている。
だが、破損した箇所は不自然だった。
車輪が何かにぶつかって外れたのではない。軸を固定する金具が、外側から叩き壊されていた。
「この馬車は、事故で止まったんじゃない」
シラスは言った。
「最初から、ここで動けなくするつもりだったんだ」
◇
そのとき、森の奥で枝が折れる音がした。
シラスは即座に剣へ手を伸ばした。
「伏せろ!」
鈴が身をかがめる。
次の瞬間、矢が飛んできて、荷馬車の側板に突き刺さった。
ダリウスは橋の脇へ飛び退き、剣を抜いた。
「まだ残っていたか!」
森の中から、二人の男が現れた。
一人は弓を持ち、もう一人は短槍を構えている。
さらに、橋の反対側から三人目が走ってきた。
彼らは三人の姿を確認すると、迷わず襲いかかってきた。
「荷物を置いていけ!」
短槍の男が叫ぶ。
「どの荷物だ?」
シラスは剣を抜きながら返した。
「全部だ!」
「それなら断る」
男が槍を突き出した。
シラスは半歩だけ横へずれ、槍の柄を剣の側面で弾いた。相手の腕が流れた瞬間、柄の中央を蹴り上げる。
槍が男の手から離れた。
シラスはそのまま踏み込み、剣の柄で相手の胸を打った。
男が呻きながら倒れる。
しかし、弓を持った男はすでに次の矢をつがえていた。
「シラス、右!」
鈴の声が響いた。
シラスは体をひねる。
矢が肩の横をかすめ、外套の布を裂いた。
「助かった!」
シラスは叫び返し、倒れた男の足元を越えて、弓使いとの距離を詰めた。
弓使いは慌てて後退する。
その前に、ダリウスが回り込んだ。
「逃がすか」
ダリウスの剣が弓の弦を断ち切る。
弓使いは舌打ちし、腰の短剣を抜いた。
その間に、三人目の男が鈴へ向かって走っていた。
「そいつを押さえろ!」
男が叫ぶ。
鈴は一瞬、足を止めた。
自分を狙っている。
その事実を理解した途端、胸の奥がひやりと冷たくなった。
男が手を伸ばす。
鈴は反射的に後ろへ下がった。
だが、背後には倒れた荷馬車がある。
逃げ道が狭い。
「鈴!」
シラスが振り返ろうとした。
その隙を狙って、槍を失った男が地面から短剣を拾い、彼の背後へ迫る。
「前を見ろ!」
ダリウスが叫んだ。
シラスは身を低くして斬撃をかわしたが、男の刃が外套の脇を裂いた。
反撃しようとした瞬間、鈴の銀飾りが小さく鳴った。
青い光が、彼女の指先にちらつく。
鈴は息を吸った。
力を使うことへの恐怖が、胸の奥から湧き上がってくる。
けれど、今ここで何もできなければ、シラスは自分を守るために隙を作ってしまう。
「……止まって!」
鈴が叫んだ。
彼女の手のひらから、青白い風が一瞬だけ広がった。
男の足元の土が跳ね上がり、視界を覆う。
「なっ……!」
男が足を止めた。
それだけで十分だった。
シラスはすぐに距離を詰め、剣の柄で男の手首を打つ。短剣が落ちたところへ、足払いをかけて地面へ倒した。
「よくやった、鈴!」
シラスが言う。
鈴は、驚いたように自分の手を見つめていた。
魔力は、すぐに消えた。
頭の中に声が響くことも、視界が遠のくこともなかった。
ただ、少しだけ息が乱れている。
「……私、今……」
「あとで話そう。今は下がっていろ!」
シラスは再び敵へ向き直った。
ダリウスは弓使いを追い詰めていたが、男は懐から小さな筒を取り出し、地面へ叩きつけた。
白い煙が弾ける。
「ちっ!」
ダリウスが腕で顔を覆う。
煙が薄れたとき、弓使いの姿は消えていた。
残った二人も、互いに目配せを交わした。
「撤退だ!」
一人が叫ぶ。
彼らは森の中へ走り去った。
シラスは追おうとしたが、鈴が背後で小さく咳き込む音を聞き、足を止めた。
「鈴!」
「だ、大丈夫。ちょっと煙を吸っただけ……」
彼はすぐに彼女のそばへ戻り、顔色を確かめた。
「胸は熱くなっていないか? 頭は?」
「ううん。少し驚いただけ」
シラスは彼女の目を見つめ、異常がないことを確認してから、ようやく息を吐いた。
「……よかった」
その声は、普段よりもわずかに低かった。
鈴は彼の袖をそっと掴んだ。
「シラスも、怪我してない?」
「かすっただけだ」
「見せて」
「大したことはない」
「見せてってば!」
鈴は珍しく強い口調で言った。
シラスは少し驚いた顔をした後、破れた外套の脇を見せた。
皮膚に浅い傷ができている。血はにじんでいたが、深くはない。
鈴はほっと息をついた。
「……よかった」
「お前が無事なら、それでいい」
シラスはそう言って、彼女の頭に軽く手を置いた。
鈴の頬が赤くなる。
「……そういうこと、急に言わないで」
「何か問題が?」
「問題じゃないけど……!」
ダリウスが、煙の消えた路地から戻ってきた。
「お前たち、今はそういう話をしている場合じゃないぞ」
「わかってるわよ!」
鈴が真っ赤な顔で叫んだ。
シラスは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
◇
戦闘が終わった後、三人は倒れた荷馬車の陰で周囲を調べた。
襲撃者たちは逃げた。
追跡することもできたが、森の中へ無闇に入るのは危険だった。相手が待ち伏せを用意している可能性もある。
シラスは、地面に落ちていた短い革紐を拾い上げた。
その先には、小さな金属片が結びつけられている。
円と交差する二本の線。
そして、三つの刻み目。
「またか……」
ダリウスが低く呟いた。
「こいつらも同じ紋章を使っている」
シラスは金属片を裏返した。
裏側には、かすれた文字が刻まれていた。
『北東中継所――経路確認』
鈴が息を呑む。
「やっぱり、あそこに関係しているのね」
「少なくとも、襲撃者たちは中継所の名前を知っている」
シラスは金属片を布に包んだ。
「だが、こいつらが何者なのか、誰の命令で動いているのかはまだわからない」
「追いかけるべきだったか?」
ダリウスが尋ねた。
「いや。今は現場を確認する方が先だ。あいつらが逃げたのは、俺たちを倒すことが目的ではなかったからかもしれない」
「どういう意味だ?」
「鈴を狙った男がいた。だが、全員が彼女を捕まえようとしたわけじゃない。荷馬車を止め、俺たちが来るのを待っていたようにも見える」
シラスは、壊された車輪を見た。
「俺たちがここを通ることを知っていたのか。それとも、誰かがここで待ち伏せるように仕向けたのか」
「どちらにしても、偶然ではなさそうね」
鈴が言った。
彼女は自分の手のひらを見つめた。
先ほど、魔法を使った。
ほんの一瞬だったが、自分の意思で力を動かせた。
暴走はしなかった。
けれど、まだ自信を持てるほどではない。
「シラス」
「何だ?」
「さっきの魔法……私、ちゃんとできていた?」
シラスは少し考えた。
「完璧ではなかった。だが、必要なときに必要なだけ力を使えた」
「……そっか」
「無理をしなかったのもよかった。あの程度で止められたなら、今は十分だ」
鈴の顔が明るくなった。
「ありがとう」
「礼を言うのは、俺たちが安全な場所に着いてからでいい」
「もう、そういうところよ」
鈴は小さく笑った。
ダリウスは金属片を見つめていた。
「北東中継所へ向かう道で、襲撃者が待っていた。しかも、俺たちが持っている情報と同じ紋章を使っている。これは、かなり危険な状況だ」
「わかっている」
シラスは剣を鞘へ戻した。
「だからこそ、予定を変える必要があるかもしれない」
「迂回するのか?」
「いや。迂回すれば、相手にこちらの動きを読ませる時間を与えるだけだ。まずは次の集落へ進み、怪我を手当てする。それから、現地の情報を集める」
ダリウスは頷いた。
「妥当だな」
三人は荷車へ戻った。
シラスは鈴が乗り込むのを手伝おうとしたが、彼女は自分で荷台に上がった。
「大丈夫。もう一人でもできるわ」
「そうか」
「……でも、手を貸してくれてもよかったのよ?」
シラスは一瞬、彼女を見た。
鈴は視線を逸らし、銀飾りを指先でいじっている。
「次からは聞くことにする」
「……うん」
彼女は満足そうに頷いた。
荷車が動き始める。
背後には、壊れた荷馬車と、襲撃者が残した足跡があった。
北東中継所への道は、確かに誰かに監視されている。
そして、鈴の魔力が反応することを知っている者たちがいる。
彼らは何を探しているのか。
なぜ、鈴を見つけようとしているのか。
答えは、まだ見えない。
ただ、シラスは剣帯に手を置き、前方の道を見つめた。
次に襲撃があれば、今度はもっと大きな戦いになるかもしれない。
彼はそれを覚悟しながら、鈴の隣へ腰を下ろした。
鈴はそっと彼の外套の袖を掴んだ。
「……次も、私にできることがあったら、ちゃんとやるから」
シラスは彼女を見た。
「ああ。だが、無理はするな」
「わかってる」
鈴は小さく笑った。
「私だって、少しずつ強くなりたいんだから」
荷車は北東へ向かって進んでいった。
森の奥では、逃げた襲撃者の一人が、傷ついた腕を押さえながら小さな金属板を取り出していた。
そこには、三つの刻み目が刻まれている。
男は金属板を握りしめ、低く呟いた。
「……対象は、確かに反応した」
彼は顔を上げ、森の奥にいる誰かへ向けて言った。
「次の段階へ進めてくれ」
返事はなかった。
ただ、木々の向こうで、何かが動く音がした。




