北東への旅路
グラヴェスを離れて二日目の朝。
シラスは街道脇のぬかるみにしゃがみ込み、地面に残された足跡を眺めていた。
昨夜、雨が降った。
街道の土は柔らかくなり、馬車の轍も人間の足跡も、普段よりはっきりと残っている。
その中に、妙な跡があった。
「……三人か」
靴底の跡は街道から外れ、森の中へ続いている。だが、少し進んだところで引き返し、再び街道へ合流していた。
まるで、こちらの進路を確認していたかのようだった。
「何か見つけたの?」
背後から鈴が尋ねた。
白い髪を二つの低い位置で結び、短い外套の襟を整えている。朝の冷たい風に頬を少し赤くしながら、彼女はシラスの隣にしゃがみ込んだ。
「足跡だ。俺たちの前を歩いた人間が、わざわざ森へ入って戻っている」
「道に迷ったんじゃない?」
「それなら、もっとわかりやすい迷い方をするだろうな」
「どういう迷い方よ、それ」
「少なくとも、道を確認するために森へ入って、同じ場所から戻ってくるような迷い方はしない」
鈴は地面を覗き込んだ。
「……誰かが、私たちを待っているのかな」
「その可能性はある」
シラスは立ち上がり、泥を手袋で払った。
「ただし、まだ決めつけるな。足跡だけで相手の目的までわかるわけじゃない」
「わかってるわよ」
鈴も立ち上がったが、少しだけ不安そうに森を見た。
そのとき、街道の先から車輪の音が聞こえてきた。
荷馬車が一台、ゆっくりと近づいてくる。
御者台には、日に焼けた顔の中年男が座っていた。荷台には麻袋や木箱が積まれ、その脇に若い女性が腰掛けている。
馬車が三人の前で止まった。
「おや、旅人かい?」
御者が声をかけた。
「北東へ向かうなら、この先の橋は気をつけな。昨日の雨で、ずいぶん傷んでいるらしい」
「助かる。どこから来たんだ?」
シラスが尋ねると、男は西の方角を指した。
「小さな集落からだ。食料と日用品を運んでいる。そっちの兄さんたちは?」
「北東中継所へ向かっている」
男の表情が、ほんのわずかに変わった。
「……中継所?」
「何か問題でも?」
「いや。昔は荷物の集積所として使われていたが、今はあまり人が寄りつかない場所だ。何をしに行くのかと思ってね」
「古い記録を調べたい」
シラスは、それ以上詳しく説明しなかった。
御者は彼の顔をしばらく見てから、肩をすくめた。
「物好きな旅人もいるもんだ。まあ、気をつけな」
馬車が再び動き出す。
そのとき、荷台にいた若い女性が鈴へ視線を向けた。
彼女は鈴の白い髪と銀飾りを見て、少し驚いたように目を丸くした。それから、にこりと笑いかける。
「かわいい髪飾りですね」
「えっ? あ、ありがとう」
鈴は少し戸惑いながらも、笑顔を返した。
「どこで買ったんですか?」
「これは……最初から持っていたものなの。どこで手に入れたのかは、覚えていないけど」
「そうなんですね。よく似合っていますよ」
女性はそう言って、馬車の揺れに合わせて手を振った。
鈴も手を振り返す。
馬車が遠ざかっていくと、シラスが何気なく言った。
「褒められてよかったな」
「うん。あの人、感じがよかったわね」
「そうだな」
「……何?」
鈴が彼を見上げた。
「いや、別に」
「今、何か言いたそうな顔をしたでしょう」
「していない」
「したわよ」
「気のせいだ」
鈴は疑わしそうに目を細めた。
「シラスって、たまに変なところで意地悪よね」
「初めて聞いたな」
「絶対に嘘!」
シラスは返事をせず、街道を歩き始めた。
鈴は慌てて後を追う。
その少し後ろで、ダリウスが馬車の消えた方角を見つめていた。
「……どうした?」
シラスが振り返る。
「いや。あの御者だが」
「何か気になったのか?」
「中継所という言葉を聞いたとき、驚いたように見えた」
「俺も気づいた」
シラスは歩みを緩めた。
「だが、あの反応だけでは何とも言えない。古い施設なら、知っている人間がいてもおかしくないだろう」
「そうだな」
ダリウスはそれ以上言わなかった。
三人は再び北東へ向かって歩き始めた。
◇
昼を少し過ぎた頃、街道沿いに小さな休憩所が見えてきた。
石造りの建物と、屋根のついた馬車置き場。旅人が雨宿りをしたり、荷物を積み替えたりするための場所らしい。
建物の前には、先ほどの荷馬車が止まっていた。
「さっきの人たちね」
鈴が気づいて、少し足を速めた。
休憩所では、御者が馬に水を与え、若い女性が荷台から木箱を下ろしていた。女性は鈴に気づくと、嬉しそうに手を振った。
「また会いましたね!」
「本当ね」
「よかったら、こちらで休んでいきませんか? お水もありますよ」
女性は気さくに話しかけてきた。
鈴は少し迷ったが、シラスが頷いたので、三人は休憩所へ入ることにした。
女性の名前はリネットといった。
父親の荷馬車を手伝いながら、近隣の集落へ日用品を運んでいるらしい。
彼女は鈴と話すうちに、旅のことや髪飾りのことを次々に尋ねた。
「二人は、ずっと一緒に旅をしているんですか?」
「ええ。そうよ」
鈴はすぐに答えた。
「シラスは剣士で、私は……ええと、旅の仲間なの」
「仲間、ですか」
リネットはシラスへ視線を向けた。
「頼りになりそうな人ですね」
「そうでしょう?」
鈴は少し胸を張った。
「剣の腕は確かだし、危険なときにはちゃんと守ってくれるし、それに……」
そこまで言って、鈴は急に口を閉じた。
リネットが興味深そうに首を傾げる。
「それに?」
「……何でもないわ」
「ふふっ。仲がいいんですね」
「そ、そういうわけじゃ……!」
鈴の頬が赤くなった。
シラスは水袋の蓋を閉めながら、淡々と言った。
「鈴は、危なっかしいところがあるからな」
「なっ……!」
「放っておくと、気になるものを見つけてすぐに近づこうとする」
「そんなことないわよ!」
「この前も、古い装置に近づいて――」
「その話はしなくていいの!」
鈴は慌ててシラスの袖を引っ張った。
リネットは口元を押さえて笑っている。
「本当に仲がいいんですね」
「だから、違うってば!」
鈴は真っ赤になって否定した。
シラスは不思議そうに彼女を見た。
「何をそんなに慌てているんだ?」
「シラスのせいでしょう!」
「俺は事実を話しただけだが」
「そういうところが意地悪なの!」
リネットはとうとう声を出して笑った。
鈴はますます恥ずかしくなり、シラスの袖を掴んだまま顔を背けた。
そのとき、休憩所の入口からダリウスが戻ってきた。
「何を騒いでいる?」
「何でもないわ!」
鈴が即座に答えた。
ダリウスは彼女とシラスを交互に見た。
「……そうか」
納得していない顔だった。
リネットはまだ笑いをこらえている。
シラスは水袋を腰に戻し、立ち上がった。
「そろそろ行こう。日が暮れる前に、次の集落まで進みたい」
「待って、シラス!」
鈴は慌てて後を追った。
休憩所を出る直前、リネットが声をかける。
「また会えたら、今度はゆっくりお話ししましょうね、鈴さん!」
「う、うん!」
鈴は振り返って手を振った。
その後、街道へ戻ってからもしばらく、彼女はシラスの隣で黙り込んでいた。
「……機嫌が悪いのか?」
シラスが尋ねる。
「悪くないわ」
「そうか」
「……リネットさんと、ずいぶん普通に話してたわね」
シラスは歩みを止めた。
「普通に話すのは、問題なのか?」
「問題じゃないわよ!」
鈴は即座に答えた。
「ただ、あの人、シラスのことを頼りになりそうって言ってたから……」
「実際、頼りになるかどうかは知らないがな」
「そこは否定しないのね……」
鈴は小さく呟いた。
シラスは彼女を見た。
「もしかして、妬いているのか?」
「なっ……!」
鈴の足が止まった。
「ち、違うわよ!」
「そうか」
「そうよ!」
「なら、いい」
シラスは何事もなかったように歩き出した。
鈴はその場に取り残され、しばらく彼の背中を見つめた。
「……もう!」
小さく叫んでから、慌てて追いかける。
「シラス、待って!」
彼は振り返らなかった。
だが、その口元には、ほんのわずかな笑みが浮かんでいた。
◇
夕方、三人は街道沿いの小さな集落へ到着した。
木造の家が十数軒並び、畑と牧草地が広がっている。北東へ向かう旅人が休息を取るための宿も、一軒だけあった。
宿の主人に部屋を頼み、荷物を置く。
シラスは窓から街道を見下ろした。
昼間に見た足跡のことが、まだ気になっていた。
あの足跡は、誰かが彼らの進路を確認していたように見えた。
そして、荷馬車の御者は、中継所という言葉に反応した。
二つの出来事に繋がりがあるかはわからない。
だが、何もかもが偶然だと考えるには、少しばかり不自然だった。
「シラス」
鈴が声をかけた。
「夕食、下で食べるって。ダリウスも待ってるわ」
「ああ、今行く」
彼は窓から離れた。
部屋を出る直前、鈴がそっと彼の袖を引いた。
「……ねえ」
「何だ?」
「今日のこと、忘れてね」
「今日のこと?」
「リネットさんと話してたこととか、私が変なことを言ったこととか……全部!」
シラスは少し考えた。
「無理だな」
「どうしてよ!」
「忘れろと言われると、かえって覚えてしまう」
「シラス!」
鈴は頬を膨らませた。
シラスは、今度は隠そうともせずに笑った。
鈴は彼を睨んだが、やがて自分も少しだけ笑ってしまった。
「……本当に、意地悪」
「よく言われる」
「私以外に誰が言うのよ」
「さあな」
二人は階段を下りていった。
食堂では、ダリウスが地図を広げて待っていた。
「明日は早く出る。北東中継所までは、予定より少し時間がかかりそうだ」
「理由は?」
シラスが尋ねる。
「街道の先で、荷馬車が一台襲われたという話を聞いた」
鈴の表情が引き締まった。
「襲われた?」
「今朝、俺たちが歩いてきた道の少し先だ。荷物を奪われたわけではないらしい。ただ、御者が怪我をして、馬車は道の脇に放置されていたそうだ」
「誰がやったのかは?」
「わからん。だが、普通の盗賊なら荷物を奪うはずだ」
シラスは椅子に腰を下ろした。
「荷物ではなく、人間を狙った可能性があるな」
「あるいは、何かを探していたか」
ダリウスは地図の上に指を置いた。
「襲撃現場は、この先の橋の近くだ。明日は迂回することも考えた方がいい」
鈴は二人の顔を見た。
先ほどまでの照れくささは、もう消えていた。
「……私たちを狙っているのかな」
「まだわからない」
シラスは静かに答えた。
「だが、明日は周囲をよく見て進む。少しでもおかしいと思ったら、すぐに知らせろ」
「わかった」
鈴は頷いた。
今度は、恐怖だけで俯いたりはしなかった。
自分の力が危険なものであることは、わかっている。
それでも、昨日より少しだけ、自分にできることがあると思えるようになった。
そして、シラスの隣にいる限り、何もかもを一人で抱え込む必要はない。
食堂の窓の外では、夜の闇が静かに広がっていた。
遠くの街道を、誰かが馬に乗って走り抜ける。
その人物の腰には、布に包まれた金属片があった。
円と交差する二本の線。
その横に、三つの刻み目。
男は集落の灯りを一瞥し、手綱を握り直した。
「……対象は、北東へ向かっている」
低い声が夜の中へ消える。
「予定どおり、道を塞げ」
馬の蹄が、暗い街道に乾いた音を刻んだ。




