眠れる魔女の足跡
グラヴェスを発つ朝、シラスは荷物の確認を三度繰り返した。
剣。短剣。保存食。水袋。地図。替えの衣服。
そして、円と交差する二本の線が刻まれた、開かない金属の箱。
最後に、箱を包んでいた布の端を確かめる。
異常はない。
「……何度見ても、荷物は増えないわよ」
寝台に腰掛けた鈴が、呆れたように言った。
「確認を怠って必要なものがなかったら困るだろ」
「昨日も確認してたじゃない」
「昨日の俺と今朝の俺は別人だ」
「そんなわけないでしょう」
「証拠は?」
「……もういいわ」
鈴は頬を膨らませた。
白い髪を二つの低い位置で結び、銀飾りを整える。旅装の短い外套も、いつもどおりだ。
ただ、彼女の表情には、グラヴェスへ来たばかりの頃とは違うものがあった。
不安が消えたわけではない。
失われた記憶も戻っていない。
それでも、自分の力が恐ろしいというだけで、何もかもを諦めようとはしなくなっていた。
昨日、彼女は魔法を使った。
暴走する力を完全に制御できたわけではない。だが、目の前の人間を守るために、自分で考え、意識を集中させ、力の広がりを抑えた。
その経験は、彼女の中に確かに残っている。
「準備はできたか?」
シラスが尋ねる。
「うん。いつでも大丈夫」
「なら、下へ行こう。ダリウスが待っている」
鈴は立ち上がり、扉へ向かった。
その途中で、ふと足を止める。
「ねえ、シラス」
「何だ?」
「また、この街に戻ってくると思う?」
シラスはすぐには答えなかった。
グラヴェスには、まだ調べきれていないことがある。
ローヴェン商会の地下に残された装置。第七保管区。行方のわからない原記録。管理所に保管された特別輸送記録。
そして、鈴を探している者たち。
どれも、ここで完全に解決したわけではない。
「必要があれば戻る」
「それだけ?」
「戻る理由がなくなれば、来る必要もないだろ」
「……そうね」
鈴は少し考えた後、笑った。
「じゃあ、戻ってくる理由がなくなるといいわね」
「同感だ」
二人は部屋を出た。
◇
宿の食堂では、ダリウスが窓際の席に座っていた。
机の上には、折り畳まれた地図と、数枚の紙が並んでいる。
「遅かったな」
「荷物の確認をしていた」
「昨日もしていただろう」
「今朝の俺は別人らしい」
ダリウスはシラスを見た。
「……鈴に何か言われたな」
「察しがいいな」
「お前たちと一緒にいると、くだらないことまで覚えさせられる」
「それは気の毒に」
鈴は二人の会話を聞きながら席に着いた。
「それで、何がわかったの?」
ダリウスは紙を一枚、机の中央へ滑らせた。
「昨日捕まえた男から聞き出せた情報を、仲介人の動きと照合した。直接の依頼主はわからないが、金属片の受け渡しには、北東街道沿いの中継所が使われていたらしい」
「中継所?」
「古い貨物の集積所だ。今は通常の商取引にはほとんど使われていない」
シラスは紙に目を落とした。
簡単な地図が描かれ、グラヴェスから北東へ伸びる道の途中に、小さな印がつけられている。
「そこに、依頼人の手がかりがあるのか?」
「可能性はある。だが、昨日の男が知っていたのは受け渡しの場所までだ。中継所の管理者が依頼主を知っている保証はない」
「それでも、何もないよりはましね」
鈴が地図を覗き込む。
「その場所に行けば、私のことを知っている人に会えるのかな」
「会えるかもしれないし、誰もいないかもしれない」
ダリウスは慎重に答えた。
「ただ、今回の金属片と、ローヴェン商会で見つかった記録の両方に、同じ紋章があった。別々の出来事として片づけるには、共通点が多すぎる」
シラスは地図の印を指でなぞった。
「第七保管区から直接、ここへ繋がるわけではない。だが、古い輸送経路を調べる足掛かりにはなる」
「そういうことだ」
ダリウスは別の紙を取り出した。
「それと、オルヴェンから預かった情報がある」
紙には、古い帳簿から写したと思われる文字が並んでいた。
その中に、ひとつの記述がある。
『第七保管区関連物資――北東中継所を経由』
その下には、日付と貨物番号が記されていた。
だが、受取人の欄は空白だった。
「これが本物なら、北東中継所は少なくとも一度、第七保管区に関係する物資を扱っている」
ダリウスが言った。
「いつの記録だ?」
「正確な年代はわからない。帳簿の一部が欠けている。ただ、研究施設が封鎖される前後のものと考えられる」
「ずいぶん曖昧だな」
「残っている記録がこれだけだからな。もっと正確な答えが欲しければ、失われた原記録を見つけるしかない」
シラスは紙を見つめた。
また、原記録。
彼らが追っているものの多くは、そこへ行き着く。
だが、記録が失われた理由も、誰が持ち去ったのかもわからない。
追うべき道筋は見えてきた。
しかし、その先に何があるのかは、まだ闇の中だ。
「よし。北東中継所へ向かおう」
シラスは地図を折り畳んだ。
「ただし、途中で何か見つけても、すぐには触らない。昨日のような仕掛けがある可能性も考えておく」
鈴が頷いた。
「わかってる。まずは調べる。それから、どうするか考える」
「覚えが早くて助かる」
「私は最初から賢いのよ」
「そうだったな」
「……今の、絶対に信じてないでしょう」
「どうだろうな」
ダリウスは椅子から立ち上がった。
「出発するぞ。街を出る前に、もう一か所寄っておきたい」
「どこだ?」
「オルヴェンの店だ。最後に確認したいことがある」
◇
ローヴェン商会の店は、朝の光の中でも薄暗かった。
店内の棚には、古い金属片や装飾品、壊れた器具が並んでいる。以前ここで襲撃を受けた痕跡は、すでに片づけられていた。
オルヴェンは奥の机で書類を整理していた。
三人が入ると、彼は顔を上げた。
「もう出発か」
「ああ。北東中継所へ向かう」
シラスは帳簿の写しを見せた。
「第七保管区関連物資が、そこを経由した記録があった。お前は何か聞いたことがあるか?」
オルヴェンは紙を受け取り、しばらく黙って目を通した。
「……北東中継所か」
「知っているのか?」
「昔、あそこから荷物を受け取ったことがある。正確には、荷物を受け取るための指示だけが届いた」
「荷物そのものは?」
「俺が行ったときには、すでに運び出された後だった。残っていたのは、受領の確認を求める書類だけだ」
「誰が運び出した?」
「記録には、輸送担当者の名前があったはずだ。だが、その書類は俺の手元には残っていない」
オルヴェンは棚の奥から、薄い紙片を取り出した。
「代わりに、これが残っていた」
紙片には、古い貨物番号が書かれている。
その脇に、小さな紋章。
円と交差する二本の線。
さらに、刻み目が三つ。
鈴が息を呑んだ。
「……昨日の金属片と同じ」
「そうだ。これは荷物そのものではなく、貨物を照合するための印だったらしい」
シラスは紙片を受け取った。
「何の貨物だったのかは?」
「わからん。ただ、番号の横に、昔の管理用語が書かれている」
オルヴェンは紙片の下部を指した。
そこには、かすれた文字が残っていた。
『接続対象関連――別送』
鈴の表情が変わった。
接続対象。
地下施設で聞いた言葉。
装置が彼女に向けて告げた言葉。
そして、何度も記録に現れた、意味のわからない指示。
「別送って……何を送ったの?」
鈴が尋ねた。
「それがわかれば、俺も苦労していない」
オルヴェンは苦々しく笑った。
「ただ、これだけは言える。普通の貨物とは別に扱われていた。輸送先も、受取人も、一般の帳簿には記されていなかった」
「人間だった可能性は?」
シラスが尋ねた。
オルヴェンは紙片を見つめたまま、しばらく黙った。
「……否定はできない。だが、決めつけるな。記録が残っていない以上、物資だった可能性も、装置の一部だった可能性もある」
「わかった」
シラスは紙片を慎重に折り畳み、地図と一緒にしまった。
鈴は、そこに書かれた言葉から目を離せなかった。
接続対象関連。
別送。
自分は、何かの荷物として扱われていたのだろうか。
それとも、自分とは別の何かが、自分に関係するものとして運ばれていたのだろうか。
今はまだ、答えを出せない。
「鈴」
シラスが呼ぶ。
彼女は顔を上げた。
「大丈夫か?」
「……うん。少し、考えてただけ」
「ならいい」
シラスは無理に続きを聞かなかった。
オルヴェンは、そんな二人を見てから口を開いた。
「お前たちが何を見つけようとしているのか、俺にはわからん。だが、ひとつ忠告しておく」
「何だ?」
「記録を隠した人間がいるなら、その人間は、見つけられたくない理由を持っている。原記録を探すことは、過去を知るだけでは済まないかもしれん」
「脅しか?」
「忠告だ」
オルヴェンは静かに答えた。
「俺は、昔の研究施設で何が起きたのかを知らない。知っていることも、すべて話したわけではない。それでも、今のお前たちに必要なことは話したつもりだ」
シラスは、彼の目を見た。
オルヴェンが何かを隠している可能性はある。
だが、彼の言葉には、単に自分の身を守ろうとしているだけではない重さがあった。
「助かった。ここで得た情報は、無駄にしない」
「そうしてくれ」
オルヴェンは机に戻った。
「それと、もう一つ」
三人が振り返る。
「もし、北東中継所で白い髪の少女について何か聞かれても、すぐに答えるな。お前たちが何を知っているのか、相手に悟らせない方がいい」
鈴は小さく頷いた。
「わかった」
シラスは扉を開けた。
「また会うことがあれば、そのときはもう少しまともな情報を頼む」
「注文の多い客だな」
「情報が足りないんだ。仕方ないだろ」
「まったくだ」
オルヴェンは苦笑した。
三人は店を後にした。
◇
グラヴェスの北門を出ると、冷たい風が吹き抜けた。
街道の先には、低い丘と、雲の下に続く森が見える。
北東中継所までは、徒歩で一日半ほど。
道中に小さな集落があるものの、主要な街道から外れた場所も多い。追っ手がいるなら、待ち伏せには都合がいい。
シラスは地図を確かめ、街道の脇に伸びる細い道へ視線を向けた。
「本当に、そっちへ行くの?」
鈴が尋ねる。
「北東中継所へ行く道は二つある。こっちは少し遠回りだが、見通しがいい。もう一方は近いが、森の中を通る」
「待ち伏せを警戒してるのね」
「昨日の連中が、もう一度仕掛けてこないとは限らないからな」
ダリウスが地図を覗き込む。
「遠回りするなら、途中の集落で一泊する必要がある」
「構わない。急いで仕掛けに飛び込むよりはましだ」
「珍しく意見が一致したな」
「お前がまともなことを言ったからだ」
「普段はまともじゃないと?」
「今のところ、判断材料が足りない」
ダリウスは小さく鼻を鳴らした。
鈴は二人のやり取りを聞きながら、街道の先を見つめていた。
グラヴェスで得たものは多い。
自分の魔力が古い装置に反応すること。
誰かが、その反応を確かめようとしていること。
そして、失われた記録の中に、自分に関係する何かが残されている可能性。
それらは、どれも答えではない。
むしろ、新しい疑問ばかりを生んでいた。
それでも、彼女は以前ほど、記憶を取り戻すことだけを恐れてはいなかった。
自分が何者だったのか。
何をしてきたのか。
なぜ、あの施設に関わっていたのか。
知ることが怖くないわけではない。
だが、知った後にどうするかは、自分で決められる。
昨日、シラスが言ってくれた言葉が、胸の奥に残っていた。
今のお前がこれから何をするかまで、決まるわけじゃない。
「シラス」
「何だ?」
「私、もっと魔法のことを知りたい」
シラスは歩みを止めずに答えた。
「なら、少しずつ調べていこう。無理に思い出そうとする必要はない」
「うん。でも、いつかは自分の力をちゃんと使えるようになりたい」
「そのためにも、まずは無事に目的地へ着くことだ」
「……そういうところ、ほんとに現実的ね」
「現実を見ないで旅をすると、だいたい死ぬ」
「わかってるわよ」
鈴は少し笑った。
その笑顔を見て、シラスはほんのわずかに表情を緩めた。
彼女が何者だったとしても、今は彼女自身の意思で前へ進もうとしている。
そのことだけは、疑う必要がなかった。
◇
夕方、グラヴェスから離れた街道沿いの小さな集落に到着した。
三人は、街道から少し離れた宿を見つけ、部屋を取った。
宿の主人は、旅人の名前を聞くときにシラスの顔をじっと見たが、賞金首の手配書と照合することはなかった。
少なくとも、今夜は騒ぎにならずに済みそうだった。
食事を終えた後、鈴は部屋の窓辺に立っていた。
遠くに、グラヴェスの方角が見える。
街の灯りは、すでに丘の向こうへ隠れていた。
「……少し、寂しい?」
シラスが尋ねた。
鈴は振り返る。
「どうして?」
「さっきから、ずっと街の方を見ている」
「ううん。寂しいというより……あそこで、何かを思い出せそうな気がしたから」
「思い出せたのか?」
「少しだけ」
鈴は胸元の銀飾りを握った。
「白い部屋とか、青い光とか、誰かの声とか。まだ、はっきりしないけど……あの街で起きたことが、昔の私に繋がっている気がする」
「なら、いつか戻って確かめればいい」
「うん」
鈴は窓から離れた。
「でも、今は先へ進みたい。ここで立ち止まっていたら、また何もわからないままになりそうだから」
シラスは頷いた。
「それでいい」
彼女は少しだけためらってから、言った。
「……一緒に来てくれる?」
シラスは彼女を見た。
今さら、聞く必要のないことだと思った。
それでも、彼女にとっては確かめたい言葉なのだろう。
「ああ。少なくとも、今はな」
「……今は、なの?」
「先のことまで軽々しく約束するのは、性に合わない」
鈴は頬を膨らませた。
「もう少し、言い方があるでしょう」
「考えておく」
「絶対、考える気がないわね」
「よくわかったな」
鈴は呆れたように笑った。
その笑い声が部屋に響く。
シラスは窓の外へ目を向けた。
旅はまだ続く。
鈴の過去も、自分に着せられた罪も、何一つ解決していない。
それでも、次に進む道は見つかった。
北東中継所。
古い輸送記録。
三つの刻み目を持つ金属片。
そして、接続対象と呼ばれた何か。
それらの先に、何が待っているのかはわからない。
ただ、シラスは剣帯に手を置き、静かに息を吐いた。
「明日は早い。休めよ、鈴」
「わかってる。シラスもね」
「ああ」
灯りが消える。
暗闇の中で、鈴の銀飾りが窓から差し込む月明かりを受け、かすかに光った。
遠く離れたグラヴェスでは、誰もいなくなった古い保管室の扉が、ゆっくりと閉じられていた。
その奥には、封印された記録が残されている。
記録板の表面に刻まれた円と交差する二本の線。
その横に並ぶ、三つの刻み目。
そして、誰にも読まれないまま、長い間隠されていた文字。
『対象保護を優先せよ』
その下には、さらに小さな文字が続いていた。
『対象が自らの意思で接続を選択した場合、封鎖手順を再検討すること』
記録板は、何も語らない。
だが、その奥に眠る装置は、かすかな青い光を一度だけ放った。
そして、再び沈黙した。




