↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
64/87

守るための力

翌朝、グラヴェスの空は厚い雲に覆われていた。


 シラスは宿の窓から通りを眺めていた。


 朝の市場はいつもどおり賑わっている。荷車が石畳を軋ませ、商人たちが声を張り上げ、傭兵らしき男たちが酒場の前で昨夜の勝負について言い争っていた。


 平和な光景だった。


 少なくとも、表面上は。


「……三人か」


 シラスは窓から離れ、机の上に置いた紙へ視線を落とした。


 宿の向かいにある雑貨店の軒先に一人。通りの角に一人。さらに、市場へ続く路地の入口に一人。


 いずれも、通行人のふりをしている。


 だが、三人とも時折、宿の入口へ目を向けていた。


 偶然にしては、視線の向きが揃いすぎている。


「また追っ手?」


 背後から声がした。


 振り返ると、鈴が寝台のそばで髪を整えていた。白い髪を二つの低い位置で結び直し、銀飾りの位置を確かめている。


「まだ断定はできない。ただ、俺たちを見張っているのは間違いないだろうな」


「昨日の管理所の人たちと関係があるのかな」


「それも不明だ」


「本当に、わからないことばかりね」


「おかげで仕事には困らない」


「こんな仕事、私は嫌よ」


「俺もだ」


 シラスは剣の位置を確かめた。


 鈴は彼の動きを見つめてから、胸元の銀飾りに触れた。


「……私も一緒に行くわ」


「どこへ?」


「見張っている人たちを確かめるんでしょう?」


「そうだが、お前は宿に残っていてもいい」


「またそれ?」


 鈴が眉を寄せた。


「危険かもしれないから、私には何もさせない。そういうこと?」


「危険かもしれないから、何をするか考える。それだけだ」


「でも、私が何もできないままなら、何も変わらないわ」


 彼女の声には、いつもの拗ねた響きだけではない、確かな意志があった。


「地下の施設でも、私は装置に反応しただけだった。何が起きたのかもわからない。昨日だって、あなたたちが調べている間、私は何もできなかった」


「鈴」


「わかってる。力を使えば、また暴走するかもしれない。だから、無理に使いたいわけじゃないの」


 鈴は一度、言葉を切った。


「ただ、危険が起きたときに、何もできずに誰かに守られるだけなのは嫌なの」


 シラスは彼女を見つめた。


 その言葉を聞いて、彼女を宿に閉じ込めるのは簡単だった。


 だが、それでは何も解決しない。


 彼女は自分の力を恐れている。だからこそ、恐れたままでも扱える方法を見つけなければならないのだ。


「……わかった」


 シラスは剣帯を締め直した。


「ただし、俺の指示を聞くこと。胸が熱くなったり、声が聞こえたりしたら、すぐに知らせろ。何かが起きても、無理に力を使おうとするな」


「うん」


「それから、危険だと判断したら、俺が止める」


「……それは、ちょっと納得できないけど」


「交渉の余地はない」


「シラスの頑固者」


「よく言われる」


「誰に?」


「今、お前に」


 鈴は不満そうに頬を膨らませたが、やがて小さく頷いた。


     ◇


 通りへ出ると、ダリウスが宿の壁にもたれて待っていた。


「遅い」


「朝食を食べていた」


「俺は食べていない」


「それは気の毒に」


「……お前、本当に追われている身なのか?」


「追われているからといって、空腹まで我慢する義務はないだろ」


 ダリウスは呆れたように目を細めた。


 鈴が二人の間に割って入る。


「それより、見張りの人たちはどうするの?」


「三人いる。だが、俺たちが動き始めたことを確認した途端、二人が位置を変えた」


 ダリウスは通りの先を顎で示した。


「一人は北へ向かった。もう一人は市場に入った。残った一人は、まだあの雑貨店の前にいる」


「追いかけるの?」


「まずは、誰が誰を見張っているのかを確かめる」


 シラスは鈴に視線を向けた。


「俺とダリウスで市場へ行く。鈴は少し離れてついてこい。人混みの中なら、向こうも簡単には手を出せない」


「わかった」


 三人は別々の間隔を保って歩き始めた。


 市場の入口に差しかかったとき、シラスはすぐに異変に気づいた。


 雑貨店の前にいた男が、こちらを見ている。


 その視線はシラスではなく、鈴に向けられていた。


 男は目が合った瞬間、顔を背けた。


 次の瞬間、通りの反対側から別の男が現れた。


 暗い外套。腰には短い剣。右手には、布で包んだ細長い何かを持っている。


 男は鈴の横を通り過ぎようとした。


 そのとき、布の隙間から青い光が漏れた。


 鈴の足が止まった。


「……あれ」


 胸元の銀飾りが、かすかに揺れた。


 男が持つ包みの中から、鈴には聞き覚えのある感覚が伝わってきた。


 地下施設で装置が起動したときと同じ、胸の奥を撫でるような震え。


 鈴が振り返る。


 男もまた、彼女を見た。


「見つけた」


 男の唇が動いた。


 その瞬間、シラスは地面を蹴った。


「鈴、下がれ!」


 男が包みを地面に叩きつけた。


 石畳に青い線が走る。


 円と交差する二本の線。


 見覚えのある紋章が、路地の入口に浮かび上がった。


 周囲の空気が震え、近くに積まれていた木箱が跳ね上がる。市場の人々が悲鳴を上げ、荷車の馬が暴れ始めた。


「全員、離れろ!」


 シラスが叫ぶ。


 彼は最も近くにいた子供を抱き上げ、露店の陰へ押し込んだ。ダリウスは逃げ遅れた商人を引き寄せ、倒れかけた荷車を蹴って進路を変える。


 だが、魔法陣の青い光は消えなかった。


 路地の壁が軋み、石畳の一部が持ち上がる。


 そして、鈴の胸の奥が熱くなった。


 ――閉じて。


 頭の中に声が響いた。


 ――今すぐ、閉じて。


 別の声が重なる。


 ――力を使ってはいけない。


 鈴は息を呑んだ。


 視界が揺れる。


 青い光が広がり、周囲の音が遠ざかっていく。


 地下の白い部屋。


 床に描かれた魔法陣。


 誰かが必死に叫んでいた。


 そして、自分の手が光に包まれている。


「鈴!」


 シラスの声が聞こえた。


 彼は彼女の方へ向かおうとしていたが、魔法陣から飛び出した石片が行く手を塞いでいた。


 男はその隙に包みの残骸を拾おうとした。


「くそっ、反応が強すぎる……!」


 男が歯噛みする。


 その言葉を聞いたシラスの目が細くなった。


 こいつは、最初から鈴が反応することを知っていた。


 偶然ではない。


 鈴を見つけるために、あの金属片を使ったのだ。


「ダリウス!」


「わかっている!」


 ダリウスが男へ走る。


 男は短剣を抜き、ダリウスを牽制しながら後退した。


 その間にも、魔法陣の光は強くなっていく。


 鈴は両手を握りしめた。


 怖い。


 また自分の力が暴走するかもしれない。


 今度こそ、誰かを傷つけてしまうかもしれない。


 だが、彼女の視界の端には、倒れた木箱の下で動けなくなっている幼い少女がいた。


 母親らしき女性が必死に箱を持ち上げようとしている。しかし、魔法陣の振動で足場が崩れ、近づくことすらできない。


 鈴は一歩を踏み出した。


「……守らなきゃ」


 自分の声が、遠くから聞こえた気がした。


 力を使ってはいけない。


 けれど、何もしなければ、あの子が傷つく。


 鈴は、地下施設で聞いたもう一つの言葉を思い出した。


 ――対象保護を優先せよ。


 誰が、誰を守れと言ったのかはわからない。


 それでも、今の彼女には一つだけ、はっきりしていることがあった。


 目の前の子供を助けたい。


 鈴は目を閉じ、息を吸った。


 胸の奥に広がる熱を、無理に押さえつけようとはしなかった。


 ただ、手のひらに意識を集中させる。


 飛び交う木片を止める。


 持ち上がった石を、元の場所へ戻す。


 魔法陣そのものを壊そうとするのではなく、そこから周囲へ広がる振動だけを弱める。


 何が正しいのかはわからない。


 けれど、彼女はそうしたいと思った。


 青い光が、鈴の指先に集まった。


「……お願い」


 小さな声とともに、空気が震えた。


 浮かび上がっていた木箱が、ゆっくりと地面へ戻る。


 崩れかけていた石畳の揺れが弱まり、飛び交っていた木片が次々と落下した。


 魔法陣の光はまだ残っている。


 完全には止められない。


 それでも、周囲を巻き込んでいた力の広がりが、確かに抑えられていた。


 鈴は歯を食いしばった。


 頭の奥で、いくつもの声が響いている。


 閉じて。


 止めて。


 近づかないで。


 そのすべてを聞き分けようとすれば、また意識を持っていかれそうになる。


 だから、鈴は目の前だけを見た。


 木箱の下にいた少女。


 少女を抱き寄せる母親。


 そして、自分の方へ駆けてくるシラス。


「鈴、もういい!」


 シラスが叫んだ。


「力を緩めろ! あとは俺たちがやる!」


 鈴は一瞬だけ彼を見た。


 赤い瞳が、まっすぐにこちらを見ている。


 大丈夫だと、無責任に言っている目ではなかった。


 彼は彼女が何をしているのかを見ていた。


 そして、彼女が限界に近づいていることにも気づいていた。


「……うん!」


 鈴はゆっくりと息を吐いた。


 手のひらに集まっていた光が弱まる。


 同時に、シラスが魔法陣へ踏み込んだ。


 石畳の揺れを避けながら、彼は地面に落ちていた金属片を剣の鞘で弾き飛ばした。


 金属片が路地の壁にぶつかり、乾いた音を立てる。


 青い光が一度だけ強く瞬いた。


 そして、消えた。


 静寂が戻った。


 誰かが息を呑む音。


 遠くで泣き出す子供の声。


 馬を落ち着かせようとする商人の怒鳴り声。


 それらが、少しずつ市場に戻ってきた。


 鈴は膝をついた。


 シラスがすぐに駆け寄り、彼女の肩を支える。


「鈴。聞こえるか?」


「……聞こえるわよ」


「気分は?」


「少し、疲れた……」


「頭は痛むか?」


「ちょっとだけ。でも、前みたいに、何もわからなくなる感じはしなかった」


 シラスは彼女の顔を確かめた。


 頬は青ざめているが、意識ははっきりしている。魔力の余波も、先ほどまでの暴走とは違っていた。


「無理はしていないな?」


「……したかもしれない」


「正直でよろしい」


「怒ってる?」


「怒ってはいない。次に同じことが起きたら、もっと早く俺を呼べ」


 鈴は申し訳なさそうに目を伏せた。


「でも、あの子が……」


「見ていた。助かったのはお前のおかげだ」


 シラスは、木箱のそばで母親に抱きしめられている少女を見た。


 少女は泣いていたが、怪我はないようだった。


「だからこそ、無茶をして倒れられると困る」


「……うん」


 鈴は小さく頷いた。


 それから、少しだけ顔を上げる。


「私、少しは役に立てた?」


 シラスは一瞬、答えを考えた。


 大げさに褒めれば、彼女は照れて否定するだろう。


 かといって、何も言わなければ、彼女が勇気を振り絞った意味が薄れてしまう。


「少しどころじゃない」


 彼は率直に言った。


「お前がいなければ、あの子は木箱の下から出られなかったかもしれない。ほかにも怪我人が出ていた可能性がある」


 鈴の目が、わずかに見開かれた。


「……そっか」


「だが、次はもっと安全な方法を考える。今日できたからといって、毎回同じようにできるとは限らない」


「わかってる」


 鈴は、今度は迷わず答えた。


「でも、今日のことは忘れたくない。怖かったけど……自分で、何をしたいのか考えられたから」


 シラスは彼女の肩から手を離した。


「なら、覚えておけ。力を使うことだけが、守る方法じゃない。危険を見つけて知らせることも、逃げ道を作ることも、誰かに助けを求めることも、全部同じだ」


「……うん」


「お前ができることを、一つずつ増やしていけばいい」


 鈴はゆっくりと頷いた。


 その顔には、まだ疲労が残っていた。


 それでも、先ほどまでの恐怖だけではない感情が宿っていた。


     ◇


 一方、路地ではダリウスが男を壁際へ追い詰めていた。


 男の短剣は地面に落ちている。逃げ道も塞がれていた。


「その金属片は何だ?」


 ダリウスが尋ねた。


「知らねえよ。俺は運び屋だ」


「運び屋が、魔法陣を起動させる金属片を持っているのか?」


「言われたとおりに使っただけだ!」


「誰に言われた?」


 男は口を閉ざした。


 ダリウスが一歩近づく。


「答えろ」


「……知らねえ。依頼は仲介人を通した。女を見つけて、金属片を使え。それだけだ」


「女を見つけた後は?」


「反応が出たら、合図を送れと言われた」


「誰に?」


「だから、知らねえんだ!」


 男は苛立ったように声を荒らげた。


「顔も名前も知らねえ。受け渡し場所と報酬だけだ。失敗したら追加報酬はなし。それだけの話だったんだよ!」


 ダリウスは男の腰に手を伸ばし、小さな金属板を取り上げた。


 表面には、円と交差する二本の線。


 その脇に、三つの刻み目があった。


 ダリウスの目が細くなる。


「……三つか」


「なんだよ、それ」


「お前が知る必要はない」


 ダリウスは金属板を布に包み、懐へしまった。


 シラスが鈴を支えながら近づいてきた。


「何かわかったか?」


「こいつは仲介人から依頼を受けたらしい。鈴を見つけ、金属片を使って反応を起こす。それが目的だった」


「反応を起こした後は?」


「合図を送る。それ以上は知らないと言っている」


 シラスは男を見た。


「嘘をついているようには見えないな」


「少なくとも、すべてを知っている人間ではないだろう」


 ダリウスは続けた。


「こいつは鈴を捕まえようとしたわけではない。魔力を引き出すか、位置を確認するか、そのどちらかだ」


 鈴は、男の手元を見つめた。


「私が反応することを、知っていたのね」


「そう考えるのが自然だ」


「どうして、そんなことを……」


 彼女の声が揺れた。


 自分の力を知られている。


 それだけではない。


 誰かが、自分の反応を確かめるために、わざと危険なことを起こしたのだ。


 もし、シラスたちがいなかったら。


 もし、あの子供が逃げ遅れていたら。


 考えたくもなかった。


 シラスは、彼女の視線が落ちていることに気づいた。


「鈴。こいつが何を考えていたのかと、お前が何者なのかは、別の話だ」


「……でも」


「お前の力を利用しようとした人間がいる。それは、そいつの責任だ」


 鈴は顔を上げた。


 シラスの赤い瞳には、迷いがなかった。


「お前が自分の力をどう使うかは、お前が決めればいい。誰かに試されるために使う必要はない」


 鈴は、胸元の銀飾りをそっと握った。


「……ありがとう」


 シラスは返事の代わりに、彼女の頭へ手を置きかけて、途中で止めた。


 鈴が不思議そうに見上げる。


「何?」


「いや。頭を撫でたら怒られるかと思ってな」


「……別に、怒らないわよ」


「そうか」


 シラスは、軽く彼女の頭を撫でた。


 鈴の頬が、ほんのり赤くなる。


「……子供扱いしないで」


「自分で怒らないと言っただろ」


「そういう意味じゃないの!」


 ダリウスが二人を見て、深いため息をついた。


「緊張感というものを知らないのか、お前たちは」


「あるわよ!」


「今のところ、あまり伝わってこないな」


 市場の騒ぎは、少しずつ落ち着き始めていた。


 だが、シラスは、事件がこれで終わったとは考えていなかった。


 男が使った金属片。


 三つの刻み目。


 そして、鈴の魔力に反応した装置。


 誰かが、彼女の力を調べようとしている。


 その目的は、捕まえることなのか。


 目覚めさせることなのか。


 それとも、何かを開くためなのか。


 まだ、わからない。


     ◇


 夕方、宿の部屋で、シラスはダリウスから預かった金属板を机の上に置いた。


 鈴は椅子に座り、その表面を注意深く観察している。


 円と交差する二本の線。


 その横に並ぶ三つの刻み目。


「今までのものとは、少し違うわね」


「刻み目が一つ増えている」


 シラスが答えた。


「だが、同じ仕組みなのか、別の種類なのかはわからない」


「地下の装置に持っていけば、何かわかるのかな」


「持っていかない」


 シラスは即答した。


「えっ、どうして?」


「今日のことを忘れたのか?」


「忘れてないわよ。でも、あの装置が反応するなら……」


「だからこそ、今は近づけない」


 鈴は不満そうに唇を尖らせた。


 それでも、すぐに反論はしなかった。


 今日は、自分の力を少しだけ制御できた。


 だが、それは偶然かもしれない。


 同じことを、いつでもできるわけではない。


 シラスの言うことが正しいのも、わかっていた。


「……じゃあ、どうするの?」


「まず、この金属片がどこから来たのかを調べる。仲介人がいるなら、依頼の経路も追えるはずだ」


 ダリウスが腕を組んだ。


「俺に任せろ。追跡の仕事なら慣れている」


「お前が追っていたのは俺たちだろう?」


「今は違う」


「理由は?」


 ダリウスは、少しだけ黙った。


「俺も、誰かに利用されている可能性があるからだ」


 シラスの目が細くなる。


「どういう意味だ?」


「俺が受け取った情報には、鈴の魔力について詳しい説明がなかった。だが、今日の連中は、彼女が反応することを知っていた。俺たちが追っているものと、あいつらが追っているものは、同じとは限らない」


「だから、一緒に調べる?」


「その方が、俺自身のためにもなる」


 シラスはしばらくダリウスを見ていた。


 全面的に信用するつもりはない。


 だが、今のところ、彼の行動には筋が通っている。


「わかった。情報は共有する。ただし、勝手な行動はするな」


「それはお前にも言えることだ」


「努力はする」


「信用できない返事だな」


「お互い様だろ」


 鈴は二人を交互に見た。


「……あなたたち、少し似てるわね」


「どこがだ?」とシラス。


「すぐに人を疑うところ」


「必要なことだ」


「そうだな」とダリウス。


「ほら、そういうところ!」


 鈴が両手を広げる。


 シラスは小さく息を吐いた。


 それから、机の上の金属板を布で包み、鍵のかかる鞄へしまった。


「今日はもう休め。明日は管理所へ戻る前に、別の記録を探す」


「わかった」


 鈴は立ち上がった。


 扉へ向かいかけて、ふと振り返る。


「シラス」


「何だ?」


「今日、私が魔法を使ったとき……怖くなかった?」


 シラスは、少し考えた。


「怖かった」


 鈴の顔が曇る。


「……そっか」


「お前がまた意識を失うんじゃないかと思った。周りの人間が巻き込まれることも心配だった」


 シラスは彼女から目を逸らさなかった。


「だが、お前が力を使ったこと自体を、責めるつもりはない」


 鈴は黙って彼の言葉を聞いていた。


「今日、お前は誰かを助けようとした。そのために、自分で考えて力を使った。俺が怖かったのは、お前が何もわからないまま、また一人で苦しむことだ」


「……私、一人じゃないわよ」


「ああ」


 シラスは頷いた。


「だから、次は一緒に考える」


 鈴は、しばらく彼を見つめた。


 やがて、柔らかく微笑んだ。


「うん。約束だからね」


「覚えておく」


「絶対よ」


「わかった」


 鈴は満足したように頷き、部屋を出ていった。


 扉が閉じた後、シラスは窓の外へ目を向けた。


 通りの向こう、建物の屋根の上に、人影があった。


 黒い外套。


 こちらを見下ろす、動かない影。


 シラスが目を凝らした瞬間、その人物は身を翻し、夕闇の中へ消えた。


 机の上には、鈴が残していった小さな銀飾りの音だけが、かすかに響いていた。


 グラヴェスでの調査は、終わりに近づいている。


 だが、彼らが追っているものの輪郭は、まだ見えない。


 ただ一つ、確かなことがあった。


 誰かが、鈴を探している。


 そして、その誰かは、彼女が何かを思い出すことを恐れているのかもしれなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。