魔女を追う理由
グラヴェスの北側にある貨物管理所を出たとき、空はすでに夕暮れの色に染まり始めていた。
シラスは歩きながら、管理所で見つけた記録の内容を頭の中で整理していた。
特別輸送記録・第二保管分。
同じ日に、同じ隊商が離れた二つの場所で記録されていたという異常。
そして、白い髪と青い目の少女を見て、何かを知っている様子を見せた管理係。
どれも無関係とは思えない。
だが、情報が増えるほど、肝心な部分は遠ざかっていくようだった。
「シラス」
隣を歩く鈴が、彼の顔を覗き込んだ。
「難しい顔してる」
「いつもだろ」
「いつもより難しい顔」
「それは困ったな。顔の使い分けまで要求されるとは思わなかった」
「別に要求してないわよ」
鈴は少し頬を膨らませた。
その様子を見て、後ろを歩いていたダリウスが小さく息を吐く。
「お前たちは、状況を理解しているのか?」
「理解してるわよ。シラスがまた一人で考え込んでるってことくらい」
「俺は別の意味で聞いたんだがな」
「なら、最初からそう言ってよ」
ダリウスは返事をしなかった。
シラスは、鈴がいつもどおりに言い返せていることに、ほんのわずかな安堵を覚えた。
彼女が自分の記憶に触れるたび、何かが変わっていく。
その変化が必ずしも悪いものとは限らない。だが、地下施設での暴走を目の当たりにした以上、無条件に喜ぶこともできなかった。
記憶が戻ることと、彼女が安全でいられること。
その二つは、どうやら同じではないらしい。
「宿に戻る前に、もう一つ確認したい」
シラスが言った。
「何をだ?」とダリウス。
「管理所の男が、鈴を見て何を思い出しかけたのかだ」
「直接聞けばよかっただろう」
「聞いたら答える相手に見えたか?」
「……確かに、あの反応は妙だった」
管理係は、鈴を見た瞬間に動揺していた。
単に白い髪の少女を知っていた、という反応ではない。
彼は、鈴がそこにいること自体を恐れていたように見えた。
シラスは振り返り、管理所の建物を遠くから見た。
窓の一つに灯りがともっている。
「ダリウス。あの男が何を恐れていたと思う?」
「記録が開かれることだろう」
「それだけか?」
「わからん。だが、記録そのものを守ろうとしている人間と、記録が開かれるのを恐れている人間は、必ずしも同じではない」
ダリウスは淡々と続けた。
「管理係は、箱を開けるなと言った。だが、箱を開けることが危険だからなのか、内容を知られることが危険だからなのか。それは別の話だ」
「つまり、あいつが味方かどうかもわからないってことね」
鈴が言うと、ダリウスは彼女を見た。
「そういうことだ」
「なんだか、誰も信用できないわね」
「最初から信用できる人間を探していたのか?」
「……少しくらい、いてもいいじゃない」
鈴の声が小さくなった。
シラスは彼女を見たが、すぐには何も言わなかった。
彼女が求めているのは、都合のいい答えではない。
自分が何者だったのかを知りたい。そのうえで、今の自分を否定せずにいられる場所が欲しいのだろう。
だが、その願いが叶うかどうかを、彼は約束できなかった。
「とりあえず、宿に戻ろう」
シラスはそう言った。
「今夜、管理所には近づかない。向こうが俺たちを警戒しているなら、動きを見せるはずだ」
「待つの?」
「待つのも仕事だ。剣を振るより退屈だが、余計な傷を増やさずに済む」
「シラスは、退屈な仕事が嫌いなの?」
「好きな奴がいたら紹介してくれ。俺の代わりにやらせる」
鈴は小さく笑った。
その笑い声を聞きながら、シラスは再び歩き始めた。
◇
宿に戻ると、オルヴェンが食堂の隅で待っていた。
古びた茶色の外套を椅子の背に掛け、冷めた茶を前に置いている。彼は三人の姿を認めると、すぐに立ち上がった。
「何かわかったのか?」
「いくつか。ただし、わかったことより、わからないことのほうが多い」
シラスは向かいの椅子を引いた。
鈴とダリウスも席に着く。
「管理所で、白い髪の少女を知っているような反応をした男がいた。特別輸送記録の箱を開けることを拒んだが、単に規則を守っているだけには見えなかった」
オルヴェンは眉間にしわを寄せた。
「名前は?」
「聞いていない。今は刺激しないほうがいいと思った」
「賢明だな。あの手の記録を扱う人間には、昔から妙な規則が多かった」
「昔から?」
「ああ。通常の荷物なら、品目と数量、送り主と受取人が記録される。だが、特別輸送の荷物は違った。送り主の欄が空白だったり、受取人が組織名ではなく番号だけだったりする」
オルヴェンは指先でテーブルを叩いた。
「そして、そういう荷物に限って、輸送に関わった人間が後から口を閉ざす」
「脅されたのか?」
「それもあっただろう。だが、全員が脅されたわけではない」
「どういう意味だ?」
オルヴェンは少し考え込んだ。
「中には、自分が何を運んだのか知らない人間もいた。荷物の中身を確認する必要がない。指定された場所に運び、受領の印をもらう。それだけで報酬が支払われる。運び屋にとっては、珍しい仕事ではないからな」
シラスは、以前見つけた記録を思い出した。
十二個の箱が受け入れられ、そのうち十個が別の場所へ移送されていた。
残る二個の行方は不明。
そして、その記録には「原記録参照」とだけ記されていた。
「第七保管区に運ばれた荷物も、そうだったのか?」
「可能性はある。だが、断言はできん」
「荷物の中身が人間だった可能性は?」
鈴が尋ねた。
食堂の空気がわずかに変わった。
オルヴェンはすぐには答えなかった。
「……その可能性も、否定はできない」
鈴は自分の手を見つめた。
白い部屋。
七つの印が刻まれた扉。
そして、何度も耳にした声。
ここから離れて。
お願いだから、もう近づかないで。
あの言葉は、自分に向けられたものだったのだろうか。
それとも、自分が誰かに向けて叫んだ言葉だったのだろうか。
「鈴」
シラスの声に、彼女は顔を上げた。
「大丈夫か?」
「……うん。大丈夫」
「そうか」
彼は、それ以上問い詰めなかった。
鈴はそのことに少しだけ救われた。
「オルヴェン」
シラスが話を戻す。
「エリアス・ヴェルナーという研究責任者がいたな」
「ああ」
「そいつは、鈴を連れて地下へ行った。お前はそう言った」
「正確には、白い髪の少女と一緒に行ったという話を聞いた、だ。本人を見たわけではない」
「わかっている。そのエリアスが、なぜ少女を連れていったのか。それを知っている人間はいないのか?」
「当時の研究員なら、何人かは知っていたはずだ。だが、研究施設が封鎖された後、彼らの行方を追うことはできなかった」
「全員がいなくなったのか?」
「全員ではない。別の部署に移った者もいる。ただ、施設に関する質問には、誰も答えようとしなかった」
ダリウスが口を挟んだ。
「答えられなかったのか、答えたくなかったのか」
「それもわからん」
「便利な言葉だな。わからない、というのは」
「わかっていることだけで話を組み立てれば、嘘になることもある」
オルヴェンは、ダリウスを真っ直ぐに見返した。
「お前も追跡者なら、わかるだろう。追う相手の足跡が消えたとき、勝手に行き先を決めつけるのは危険だ」
ダリウスは何も答えなかった。
だが、その沈黙は否定ではなかった。
シラスは、二人のやり取りを横目で見ながら、ひとつの可能性を考えていた。
鈴を追う人間たちには、それぞれ違う目的がある。
賞金を狙う者。
記録を回収しようとする者。
彼女の魔力に反応する装置を探る者。
そして、何かを開かせまいとしている者。
彼らが同じ方向を向いているとは限らない。
むしろ、互いに知らないまま動いている可能性すらある。
「オルヴェン。特別輸送記録の箱に入っている金属板について、何か知っているか?」
「詳しくは知らん。だが、普通の記録板とは違うと聞いたことがある」
「どう違う?」
「特定の装置に近づけると、記録を読み出せるらしい。紙に書かれた情報とは違い、記録板には文字として残されていない情報も保存できる、と」
鈴が顔を上げた。
「それって、地下の装置と関係があるの?」
「おそらくな。だが、管理所の箱に入っているものが、その装置に対応しているかどうかはわからん」
「もし、対応していたら?」
シラスは鈴の目を見た。
「また装置が動くかもしれない」
鈴は唇を結んだ。
あの地下で、装置が彼女の魔力に反応した。
そして、扉が開きかけたとき、誰もいないはずの場所から声が聞こえた。
――ようやく、戻ってきたのですね。
あの声が何を意味していたのか、まだわからない。
だが、あの装置が鈴を知っているかのように反応したことだけは、疑いようがなかった。
「私が触れたら、また何かが起きるのかな」
鈴が呟いた。
「可能性はある」
シラスは隠さずに答えた。
「でも、触れなければ何もわからないんでしょう?」
「そうとは限らない。別の方法で調べられるかもしれない」
「それまで、ずっと待つの?」
「必要ならな」
鈴は不満そうに眉を寄せた。
「シラスは、いつも慎重すぎるわ」
「お前は、いつも危険なものに近づきすぎる」
「近づきたくて近づいてるわけじゃないもの!」
「知ってる。だから止めてるんだ」
鈴は言い返そうとして、口を閉じた。
彼の言葉には、責める響きがなかった。
彼女が自分の力を恐れていることも、記憶を取り戻したいと願っていることも、シラスは知っている。
そのうえで、彼は彼女を危険から遠ざけようとしていた。
鈴は、胸元の銀飾りをそっと握った。
「……わかった。でも、私にもできることを探したい」
「なら、まずは自分の力が動き出す前の兆候を覚えることだ」
「兆候?」
「魔力が暴走する直前、お前は何を感じた?」
鈴は考え込んだ。
「胸の奥が熱くなった。それから、周りの音が遠くなって……頭の中に、誰かの声が聞こえた」
「その声は、毎回同じか?」
「ううん。違う声もあった。止めろって言う声と、何かを守れって言う声」
「なら、その違いを覚えておけ。次に何かが起きたとき、自分が何を感じたのか、少しでもわかれば対処できるかもしれない」
鈴はゆっくり頷いた。
「……うん。やってみる」
シラスは、それで十分だと思った。
今すぐ彼女の力を制御させることも、失われた記憶を取り戻させることもできない。
できるのは、次に同じことが起きたとき、彼女が一人で抱え込まなくて済むようにすることだけだ。
◇
その夜、シラスは宿の部屋で、管理所から得た情報を紙に書き出していた。
特別輸送記録。
第二保管分。
金属板。
第七保管区。
原記録との照合を禁ず。
書き終えた紙を眺めていると、部屋の扉が控えめに叩かれた。
「シラス、起きてる?」
「起きてる」
「入っていい?」
「どうぞ」
鈴が顔を覗かせた。
手には小さな皿があった。宿の食堂から持ってきたらしい、焼き菓子が二つ載っている。
「これ、食べる?」
「どうした。毒見でも頼まれたか?」
「違うわよ。余ったから持ってきただけ」
「そうか。なら、ありがたくいただこう」
シラスが一つ手に取ると、鈴は向かいの椅子に座った。
しばらく、二人とも黙って焼き菓子を食べた。
やがて、鈴が口を開いた。
「ねえ。もし、私が昔、とんでもないことをしていたら……どうする?」
シラスの手が止まった。
鈴は彼の顔を見ていなかった。
「誰かを傷つけたり、街を壊したり。たくさんの人に迷惑をかけたり……そういうことをしていたら」
「記憶が戻ったわけじゃないんだろう?」
「そうだけど……地下の装置は、私を知っているみたいだった。あの記録も、私と関係があるのかもしれない。もし、私があの施設で何かをして、そのせいで全部が壊れたのだとしたら……」
彼女の指が、皿の縁を強く握った。
「私が忘れているだけで、本当は、とても悪い人間だったのかもしれない」
シラスは、すぐには答えなかった。
安易に否定することはできる。
そんなはずはない、と言ってやることもできる。
だが、彼女が欲しがっているのは、根拠のない慰めではないだろう。
「俺は、お前の過去を知らない」
「……うん」
「だから、お前が昔どんな人間だったのか、断言することはできない」
鈴の肩が、わずかに沈んだ。
「でもな」
シラスは続けた。
「今のお前が何を考えて、何をしようとしているのかは知っている」
鈴が顔を上げた。
「自分の力で誰かを傷つけるのが怖い。だから、できるだけ制御しようとしている。自分の記憶を取り戻したいのに、その記憶が誰かを傷つけたものだったらどうしようと悩んでいる」
シラスは、彼女の青い目を見つめた。
「少なくとも、今のお前は、自分が何をしたのかもわからないまま、誰かを傷つけて平気でいられる人間じゃない」
「……それだけで、昔の私も悪い人じゃなかったって言えるの?」
「言えない」
鈴は目を伏せた。
「だが、昔のお前がどんな人間だったとしても、今のお前がこれから何をするかまで決まるわけじゃない」
シラスは椅子の背にもたれた。
「過去に何をしたのかがわかったら、そのとき考えればいい。償う必要があるなら、償えばいい。誰かを守るために力を使いたいなら、その方法を探せばいい」
「……簡単に言うのね」
「簡単だとは言ってない。面倒なことになるとは思ってる」
「そこは、少しぐらい格好よく言ってよ」
「俺に何を期待してるんだ」
鈴は小さく笑った。
それでも、目元にはまだ不安が残っていた。
「シラスは、私が昔、どんな人間だったとしても……一緒にいてくれる?」
その問いに、シラスはすぐに答えなかった。
彼自身も、過去に縛られている。
身に覚えのない虐殺の罪を着せられ、賞金首として追われている。誰かに渡したはずの剣が、事件現場から発見されたという記録もある。
自分の過去についてさえ、説明できないことがある。
そんな自分が、他人の過去に対して何を約束できるというのか。
それでも。
「少なくとも、何も知らないうちから、お前を置いていくつもりはない」
鈴は彼を見つめた。
「……本当に?」
「同じことを二度言わせるな」
「まだ一度しか聞いてないわ」
「なら、今のうちに覚えておけ」
鈴は、今度こそ笑った。
その笑顔を見て、シラスはようやく焼き菓子の残りを口に運んだ。
少し焦げていた。
「……これ、焦げてるな」
「えっ? そんなことないわよ」
「いや、焦げてる」
「じゃあ、返して」
「もう食べた」
「シラス!」
彼女の声が部屋に響いた。
シラスは肩をすくめた。
この程度のことで怒れるなら、今夜はまだ大丈夫だろう。
そう思った自分に気づいて、彼は少しだけ視線を逸らした。
◇
同じ頃、グラヴェス北側の貨物管理所では、男が一人、地下の保管室に立っていた。
彼は昼間、シラスたちが訪れた部屋とは別の棚を開け、古い記録板を取り出していた。
表面には、円と交差する二本の線。
その下には、小さな刻み目が三つ並んでいる。
男は記録板を灯りにかざし、裏側に刻まれた文字を確かめた。
「……やはり、第二保管分だけでは足りない」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
机の上には、短い報告書が置かれていた。
そこには、シラスの名前と、鈴の特徴が記されている。
さらに、その下には別の記述があった。
『対象と思われる少女が、第二保管分の記録に接触』
『記録の開封を阻止せよ』
男は、その二行をしばらく見つめた後、報告書の余白に新たな一文を書き加えた。
『対象が記録に反応した場合、旧施設への接続を再確認すること』
筆を置く。
彼は命令に従うつもりだった。
だが、箱を開けさせないことと、少女を施設へ戻さないこと。
その二つが、同じ目的に繋がっているのかどうかは、まだ判断できなかった。
男は記録板を布で包み、棚の奥へ戻した。
扉を閉める直前、もう一度だけ、記録板の表面を見た。
円と交差する二本の線。
その刻み目は、古い資料に記されていたものより一つ多かった。
男は何も言わず、保管室を後にした。




