封鎖された記録
翌朝、シラスは宿の机に広げた資料を睨んでいた。
ローヴェン商会で見つけた帳簿の写し。ダリウスが持っていた古い施設の配置図。そして、地下の壁に刻まれていた第七保管区の記号。
それらを並べてみても、わかることは限られていた。
施設が何らかの記録を保管していたこと。
魔力を供給する装置が存在していたこと。
そして、第七保管区だけが、ほかの区画とは異なる扱いを受けていたこと。
肝心な部分は、どれも意図的に隠されている。
「……腹立たしいほど、情報が足りないな」
シラスが呟いた。
「情報が十分に残っていたら、俺たちがここまで苦労する必要もなかっただろう」
向かいの椅子に座ったダリウスが答えた。
「慰めているつもりか?」
「事実を述べただけだ」
「お前の事実は、役に立たないことが多い」
「お前の感謝も、聞いた覚えがないな」
二人の会話を聞きながら、鈴は紙の端に描かれた記号を見つめていた。
円と二本の交差する線。
その横には、小さな傷が二つ。
何度も目にしてきた印なのに、見るたびに胸の奥がざわつく。
「……ねえ、シラス」
「なんだ?」
「この記号って、施設以外の場所にもあったんだよね?」
「ああ。古い金属片や、箱にもな」
「じゃあ、施設を出たあとも、誰かが同じ仕組みを使っていたのかな」
シラスは少し考えた。
「その可能性はある。あるいは、施設とは別の場所に、同じ記号を使う組織があったのかもしれない」
「同じ組織とは限らない、ということか」
ダリウスが続けた。
「印が共通しているだけでは、誰が何の目的で使ったのかまでは判断できない。俺たちが追っている連中も、全員が同じ目的で動いているとは限らないからな」
シラスは頷いた。
黒い外套の人物は、第七保管区の装置を再び起動させるなと言った。
だが、あの人物が何を恐れているのかはわからない。
装置そのものなのか。
記録が明らかになることなのか。
それとも、鈴が過去を思い出すことなのか。
いずれも、まだ推測にすぎなかった。
「今日は、記録の出所を調べる」
シラスは資料をまとめた。
「地下の装置には、もう一度調査の準備を整えてから向かう。今のままでは、何が起きても対応できない」
「賛成だ。問題は、どこを調べるかだな」
ダリウスが配置図を指で叩いた。
「商会の帳簿には、移送された記録の保管先が記されていない。だが、輸送を担当した人間や、取引を仲介した商人の記録なら、別の場所に残っているかもしれない」
「つまり、正規の記録が封鎖されているなら、外側に残った痕跡を探すわけか」
「ああ」
鈴が顔を上げた。
「それなら、昨日の帳簿に書いてあった日付も役に立つんじゃないかな?」
シラスは彼女を見た。
「日付?」
「うん。移送があった日とか、記録が途切れた日。商人さんたちの帳簿と照らし合わせれば、何か見つかるかもしれない」
ダリウスは一瞬考え、それから頷いた。
「悪くない考えだ。施設の記録が消されても、別の人間が残した取引記録まですべて消せるとは限らない」
鈴の顔が明るくなった。
「じゃあ、調べてみよう!」
「そうだな」
シラスは彼女の前に紙を一枚置いた。
「まずは、帳簿から日付と移送先の記述を抜き出してくれ。俺は商会の記録を整理する」
「任せて!」
鈴は筆記具を手に取った。
今度は、ただ過去を思い出すためではない。
自分の目で情報を集め、考え、答えを探すために。
その仕事に取りかかる彼女の横顔を見て、シラスは小さく頷いた。
◇
昼前、三人は商会の元管理人オルヴェンを訪ねた。
彼は街の外れにある小さな貸し部屋で、ひっそりと暮らしていた。
部屋の中には古い本や木箱が積まれ、窓際には乾燥させた薬草が吊るされている。
「また来たのか」
オルヴェンは三人を迎え入れた。
「地下のことなら、昨日話した以上のことは知らないぞ」
「今日は地下の装置についてではない」
シラスは机に資料を置いた。
「この記号と、第七保管区の記録について聞きたい」
オルヴェンの表情が変わった。
「……何を見つけた?」
「商会の帳簿だ。記録の移送や接続に関する記述があった。それから、原記録を持ち出すなという警告も」
オルヴェンは資料を手に取り、しばらく目を通した。
やがて、深く息を吐いた。
「そうか……。まだ残っていたのか」
「知っていることがあるなら、話してくれ」
シラスが言った。
オルヴェンは椅子に腰を下ろした。
「私が管理人をしていた頃、商会には二種類の帳簿があった。通常の取引を記録する帳簿と、特定の荷物だけを記録する帳簿だ」
「特定の荷物?」
「金属部品や古い文書、魔力を測定するための道具などだ。だが、荷物の中には、通常の倉庫では扱わないようなものもあった」
「例えば?」
「封印された容器だ。中身を確認することは禁じられていた。運搬の際にも、決められた手順を守るよう命じられていた」
鈴が身を乗り出した。
「その容器には、あの記号が付いていたんですか?」
「すべてではない。だが、いくつかには刻まれていた」
オルヴェンは鈴の顔を見て、わずかに表情を曇らせた。
「……君は、あの施設で何かを見たのか?」
「記憶が、少しずつ戻ってきているんです。でも、何が本当なのか、まだわからなくて」
「そうか……」
オルヴェンはそれ以上、踏み込まなかった。
「私が知っているのは、当時の管理方法だけだ。第七保管区で何が行われていたのか、詳しい説明を受けたことはない。ただ、あの区画に関わる記録は、ほかの帳簿とは別に管理されていた」
「誰が管理していた?」
「研究責任者と、その補佐をしていた数人だ。私たち商会の人間は、運搬と保管を任されていただけだった」
シラスは、以前聞いた名前を思い出した。
「エリアス・ヴェルナーという男は、その責任者だったのか?」
オルヴェンは目を見開いた。
「……どこで、その名前を?」
「お前が教えたんだろう」
「ああ……そうだったな」
オルヴェンは額に手を当てた。
「すまない。あの頃のことを思い出すと、どうにも記憶が混乱する」
「エリアスについて、ほかに知っていることは?」
ダリウスが尋ねた。
「彼は、記録を非常に重視する人間だった。どんな小さな異常でも、必ず記録に残すよう命じていた。だが、ある時期から、彼自身が記録を残すことを嫌がるようになった」
「何があった?」
「わからない。私が知っているのは、彼が何度も『原記録だけは失うな』と言っていたことだ」
シラスは眉をひそめた。
「記録を残すことにこだわっていた男が、記録を隠すようになったのか」
「そうだ。そして、最後に会ったとき、彼はこう言った」
オルヴェンは一度、言葉を切った。
「『記録が残れば、誰かが必ず同じことを繰り返す』と」
部屋が静かになった。
鈴は、胸元の銀飾りを握りしめた。
記憶の奥で、誰かの声がかすかに響いた気がした。
『ここには、残すな』
彼女は目を閉じた。
けれど、今回は無理に追いかけなかった。
「……その言葉は、いつ頃のことですか?」
鈴が尋ねた。
「正確な日付は覚えていない。だが、第七保管区が封鎖される少し前だったと思う」
「そのあと、彼はどうなったんですか?」
「わからない。私は別の場所へ移送の手配に出され、戻ったときには、研究責任者も補佐たちもいなくなっていた。記録の多くも消えていた」
オルヴェンは両手を組んだ。
「それ以来、私は何も知らないふりをして暮らしてきた。自分が何を運び、何を保管していたのか、深く考えないようにしていたんだ」
「なぜ、今になって話してくれる?」
シラスが尋ねた。
オルヴェンは顔を上げた。
「君たちが地下へ入ったからだ。あの装置がまだ動いていると知って、ようやく認めざるを得なくなった。私は、知らないふりをしているだけでは何も終わらないのだと」
その声には、長年抱えてきた後悔が滲んでいた。
シラスはしばらく黙っていた。
オルヴェンがどこまで真実を語っているのかはわからない。
だが、彼の話には、これまでの記録と一致する部分がいくつもあった。
「ほかに、何か残っていないか?」
シラスが尋ねた。
「帳簿以外で、記録が保管されていた場所は?」
オルヴェンは考え込んだあと、ゆっくりと口を開いた。
「……ひとつ、心当たりがある」
◇
オルヴェンが教えたのは、グラヴェスの北側にある古い荷役組合の事務所だった。
かつて、商会が扱う特別な荷物の輸送を請け負っていた組合で、現在は別の組織に引き継がれているらしい。
「そこに、何が残っているんだ?」
事務所へ向かう道すがら、ダリウスが尋ねた。
「輸送記録の控えだ。商会が保管していた帳簿とは別に、荷役組合も受け渡しの記録を残していた。少なくとも、私が管理人だった頃はそうだった」
「今も残っている保証はないな」
シラスが言った。
「それでも、探す価値はある」
鈴が答えた。
「もし、記録が残っていたら、何が運ばれたのか、どこへ行ったのか、少しはわかるかもしれない」
シラスは頷いた。
「そうだな」
北側の荷役組合事務所は、石造りの古い建物だった。
入口には新しい看板が掛けられていたが、壁や窓枠には長年の風雨による傷みが残っている。
中へ入ると、受付の男が顔を上げた。
「何の用だ?」
「古い輸送記録を調べたい」
シラスが答えた。
「どのくらい古い記録だ?」
「少なくとも、数十年前のものだ」
受付の男は露骨に嫌そうな顔をした。
「そんなもの、残っているかどうかわからんぞ。今の業務に関係ない記録は、順次処分しているからな」
「処分する前に、どこへ移したかはわかるだろう?」
「記録の種類による」
男は机の上の帳簿を閉じた。
「具体的に何を探している?」
シラスは、すぐには答えなかった。
あの記号について話せば、余計な警戒を招くかもしれない。
「特定の日付の荷物だ。受け渡し先が二重に記録されていないか、確認したい」
受付の男が眉をひそめた。
「二重に?」
「同じ荷物が、同じ日に別の場所へ運ばれた記録がある」
男の表情が、わずかに変わった。
ほんの一瞬。
だが、シラスは見逃さなかった。
「……少し待っていろ」
男は奥の部屋へ引っ込んだ。
ダリウスが小声で言った。
「何か知っていそうだな」
「ああ。少なくとも、話を聞いたことはあるらしい」
「どうする?」
「待つ。逃げるようなら追う」
「結局、追うのか」
「状況次第だ」
鈴は二人の会話を聞きながら、受付の奥にある棚を見ていた。
古い帳簿が並んでいる。
その一番下の棚に、ほかとは違う小さな箱が置かれていた。
箱の表面には、円と二本の交差する線が刻まれている。
鈴の呼吸が止まった。
「……シラス」
彼女が囁く。
シラスはすぐに振り返った。
「どうした?」
「そこ……あの記号がある」
シラスの視線が棚へ向いた。
確かに、見覚えのある印が刻まれていた。
ダリウスも気づき、わずかに身構えた。
「受付の男が戻る前に、確認するか?」
「勝手に触るな。まずは、何が入っているのか聞く」
シラスは棚から距離を取ったまま、箱を観察した。
蓋には鍵が掛けられている。
側面には、小さな文字が記されていた。
『特別輸送記録・第二保管分』
鈴はその文字を見つめた。
特別輸送記録。
第二保管分。
それは、今まで見つけた帳簿とは違う種類の記録なのかもしれない。
そのとき、奥の部屋から受付の男が戻ってきた。
彼は三人の視線が箱に集まっていることに気づくと、足を止めた。
「……それには触れるな」
声が、先ほどよりも低くなっていた。
シラスは男を見た。
「なぜだ?」
「古い記録だ。許可なく開けることはできない」
「なら、誰の許可があれば開けられる?」
男は答えなかった。
代わりに、箱の前へ立ち、三人を警戒するように見回した。
「その記録について、どこで知った?」
「知ったのは今だ」
「嘘をつくな」
「嘘かどうかは、箱を開けて確認すればわかる」
男の手が、腰のあたりへ動いた。
武器を隠しているのかもしれない。
ダリウスが一歩前へ出る。
「騒ぎを起こすつもりはない。こちらは、古い輸送記録を確認したいだけだ」
「それがどれほど危険なことか、わかっていないんだ!」
男が声を荒らげた。
その言葉に、鈴の肩が震えた。
危険。
記録を見てはいけない。
装置を起動させてはいけない。
今まで何度も聞いてきた警告が、頭の中で重なる。
だが、男の表情には、単に秘密を守ろうとしているだけではない、切迫したものがあった。
「……あなたは、何を知っているんですか?」
鈴が尋ねた。
男は彼女を見た。
その瞬間、顔色が変わった。
「……まさか」
彼は箱から一歩離れた。
鈴の白い髪と青い瞳を見つめ、唇を震わせる。
「君は……あの施設の……」
そこで、男は言葉を切った。
シラスが即座に問い詰める。
「今、何と言った?」
「……何でもない」
「今さら、それで済むと思うか?」
シラスの声が鋭くなる。
男はしばらく黙っていた。
やがて、諦めたように椅子へ腰を下ろした。
「……この記録は、正式な帳簿とは別に保管されていた。何が記されているのか、私もすべてを知っているわけではない」
「なら、開けてくれ」
「それはできない」
「なぜだ?」
男は顔を上げた。
「この箱を開けるには、鍵だけでは足りないからだ」
シラスの目が細くなった。
「どういう意味だ?」
「中にあるのは、紙の記録だけじゃない。特殊な金属板も一緒に保管されている。それが、特定の装置と反応する可能性がある」
鈴は息を呑んだ。
特定の装置。
あの地下にあったもの。
胸の奥で、嫌な予感が広がる。
受付の男は、箱から目を離さずに続けた。
「私は、これを開けるなと命じられている。もし中身を取り出せば、何が起きるかわからない」
シラスはしばらく考えた。
強引に開けることはできるかもしれない。
だが、箱に危険があるという話が本当なら、鈴を巻き込む可能性がある。
ここで無理をするべきではなかった。
「……わかった。今日は開けない」
男が意外そうに顔を上げた。
「本当に?」
「ああ。ただし、ここに記録があることは確認した。次に来るときは、正式な手続きを調べてくる」
シラスは鈴とダリウスに目配せした。
三人は受付を離れ、事務所の外へ出た。
◇
建物を出てしばらく歩いたところで、鈴が口を開いた。
「……あの人、私を知っていたのかな」
「可能性はある」
シラスが答えた。
「だが、何を知っているのかはわからない。今は、それ以上のことを考えても仕方がない」
「うん……」
鈴は俯いた。
せっかく手掛かりを見つけたのに、また何もわからないまま終わってしまった。
それが、少し悔しかった。
ダリウスが足を止めた。
「だが、収穫がなかったわけじゃない」
「……どういうこと?」
「箱の表記だ。『第二保管分』と書かれていた。つまり、同じ種類の記録がほかにもある可能性がある」
シラスが頷いた。
「そうだな。第二があるなら、第一も存在したのかもしれない」
「そして、あの男の反応だ。あいつは鈴を見て、明らかに何かを思い出した」
鈴は顔を上げた。
「……私のことを知っている人が、まだいるんだね」
「ああ」
シラスは彼女の目を見た。
「だから、焦る必要はない。手掛かりは少しずつ増えている」
鈴は深く息を吸った。
怖さは消えない。
自分の過去に何があったのか、まだ何もわからない。
けれど、今日の調査でひとつだけ確かなことがあった。
あの記録は、誰かが意図的に隠している。
そして、その中には、鈴の過去に関わる何かが残されている可能性が高い。
「……次は、あの箱を開ける方法を探そう」
鈴が言った。
シラスは頷いた。
「そうだな。ただし、準備を整えてからだ」
三人は宿へ向かって歩き始めた。
その背後で、荷役組合の二階の窓が、静かに閉じられた。
窓の向こうでは、別の人物が小さな紙片を手にしていた。
そこには、短い報告が記されている。
『対象と思われる少女が、第二保管分の記録に接触』
その下に、別の文字が続いていた。
『記録の開封を阻止せよ』
紙片を持つ手が、ゆっくりと握りしめられた。
そして、最後の一文。
『原記録の所在が判明する前に――』
その先は、黒く塗りつぶされていた。




