黒衣の影
朝のグラヴェスは、昨日までと変わらない喧騒に包まれていた。
商人たちは荷車を引き、傭兵たちは酒場の前で仕事の話を交わしている。武器屋の店先では、手入れされた剣が朝日を反射していた。
平穏な街の風景。
だが、シラスにとっては、その光景のどこにも安心できる要素がなかった。
「……やっぱり、いるな」
宿の窓から通りを見下ろし、彼は小さく呟いた。
昨日、鈴が見たという黒い外套の人物。
今朝も、通りの向こう側にその姿があった。
人通りの多い道を歩くわけでもなく、店に立ち寄るわけでもない。ただ、時折こちらを見上げている。
距離があるため、顔までは確認できなかった。
それでも、偶然通りかかっただけの人間とは思えない。
「……また、あの人?」
背後から鈴の声がした。
「ああ」
シラスは窓から離れずに答えた。
「昨日もいたの?」
「お前が気づいたときには、もういなかった。だが、今朝ははっきり確認できた」
鈴は窓辺に近づき、外を見下ろした。
黒い外套の人物は、ちょうど露店の陰に隠れたところだった。
「何を見ているんだろう……」
「俺たちだろうな」
「どうして?」
「それがわかれば、苦労はしない」
シラスは上着を手に取った。
「ダリウスを呼んでくる。今日は、あいつにも協力してもらう必要がある」
「追いかけるの?」
「まずは確認だ。相手の目的もわからないのに、いきなり斬りかかるほど暇じゃない」
「……よかった」
「何がだ?」
「シラスなら、見つけた瞬間に追いかけるかと思ったから」
「俺を何だと思っている?」
「用心深いけど、時々、すごく無茶をする人」
「……否定しにくいな」
鈴はくすりと笑った。
シラスは扉へ向かいかけて、ふと足を止めた。
「鈴。今日は一つ、試してほしいことがある」
「試すこと?」
「魔法だ。ただし、戦うためじゃない」
鈴の表情が少しだけ引き締まった。
「……私にできるかな」
「できるかどうかを確かめるんだ。失敗しても構わない。危険だと思ったら、すぐにやめろ」
「うん。やってみる」
返事はまだ少し不安げだった。
それでも、以前のように、最初から自分には無理だと決めつけることはなかった。
シラスはその変化を、何も言わずに見守った。
◇
ダリウスは宿の一階で、遅い朝食を取っていた。
机の上には、昨夜整理した資料が広げられている。彼はパンを一口かじりながら、シラスの話を聞いていた。
「黒い外套の男か」
「ああ。昨日、鈴が見た人物と同じ可能性が高い」
「顔は?」
「確認できていない」
「それで、俺に何をしてほしい?」
「正面から俺たちが追えば、相手は逃げるかもしれない。お前は別の通りから回って、逃げ道を確認してくれ」
ダリウスはパンを皿に置いた。
「俺が囮になるのか?」
「そこまで頼んでいない」
「だが、相手が俺に気づけば、俺を追跡者と判断する可能性がある」
「お前は実際に追跡者だろう」
「そういう意味ではない」
「わかっている。頼んでいるのは、あくまで周囲の確認だ」
ダリウスはしばらくシラスを見ていたが、やがて肩をすくめた。
「いいだろう。ただし、相手が危険だと判断したら、俺の裁量で動く」
「好きにしろ」
「お前の許可を取った意味がないな」
「なら、最初から聞くな」
ダリウスは苦笑し、資料をまとめた。
「それで、鈴は?」
「俺と一緒に行動する」
「魔力の調子は戻ったのか?」
「完全ではない。だが、昨日は自分で抑えられた」
「それは大きな進歩だな」
ダリウスは鈴へ視線を向けた。
「無理をする必要はない。相手を追うことより、自分の身を守ることを優先しろ」
「わかってます」
鈴は頷いた。
それから、少しだけ胸を張る。
「でも、何かできることがあったら、ちゃんと手伝います」
「その意気だ」
ダリウスは立ち上がった。
「では、始めようか。あまり長く待たせると、相手も退屈するだろう」
「退屈させるために追うわけじゃない」
「冗談だ」
「お前の冗談はわかりにくい」
「それは残念だ」
三人は宿を出た。
通りの向こう側には、すでに黒い外套の姿はなかった。
◇
シラスと鈴は、人通りの多い市場を歩いていた。
ダリウスは少し離れた別の通りへ回っている。
シラスは露店を眺めるふりをしながら、窓や壁に映る景色を確かめていた。
「……見つからないね」
鈴が囁いた。
「見えないだけかもしれない」
「ずっと私たちを見ているのかな」
「可能性は高い」
「……嫌だな」
鈴は小さく呟いた。
誰かに見られているという感覚は、以前からあったような気がする。
だが、それが記憶の断片から来るものなのか、今の状況から来るものなのか、彼女自身にも区別できなかった。
シラスは彼女の様子を見て、少し声を落とした。
「怖いなら、宿に戻ってもいい」
「ううん。大丈夫」
「無理はするな」
「無理はしてないよ。怖いけど……何も知らないまま逃げ続けるのは、もう嫌だから」
シラスは彼女を見た。
鈴の目には、確かな意志があった。
「……わかった。だが、俺の合図があったら、すぐに離れろ」
「うん」
二人が市場の端へ差しかかったとき、鈴はふと足を止めた。
「シラス、あそこ」
彼女が指したのは、古い建物の二階だった。
閉じられた窓の隙間に、黒い布のようなものが見える。
その下には、狭い路地へ続く扉があった。
「……確かに、怪しいな」
シラスは周囲を確認した。
人通りはあるが、路地の中は薄暗い。
「俺が先に行く。お前はここで待て」
「でも……」
「鈴」
シラスの声が少しだけ強くなった。
鈴は言葉を飲み込んだ。
「……わかった。ここで待つ」
「何かあったら、すぐに逃げろ」
シラスは路地へ向かった。
鈴はその背中を見送りながら、両手を握りしめた。
何もできないまま待つのは、やはりもどかしい。
だが、今は自分の役目を果たすと決めた。
周囲を観察する。
危険を見つける。
そして、必要ならシラスへ知らせる。
彼女はゆっくりと息を吸った。
そのとき、路地の反対側から、黒い外套の人物が現れた。
鈴の目が見開かれる。
人物は彼女に気づくと、立ち止まった。
顔は外套の影に隠れている。
だが、その視線はまっすぐに鈴へ向けられていた。
「……やっと、話せる機会ができたな」
低い声だった。
鈴は一歩後ずさった。
「あなたは……誰?」
「名前を教えるのは、まだ早い」
「どうして、私たちを見ているの?」
「君たちが、見つけてはいけないものを見つけたからだ」
鈴の胸がざわついた。
「第七保管区のこと?」
人物は、わずかに顔を上げた。
「……そこまで知ったのか」
その反応だけで、鈴には十分だった。
この人物は、地下施設について知っている。
そして、自分のことも何か知っている。
「私のことを知っているんですか?」
黒い外套の人物は答えなかった。
代わりに、ゆっくりと手を上げた。
その指には、見覚えのある金属片が挟まれていた。
円と二本の交差する線。
端には、小さな傷が二つ。
「……それ」
鈴が息を呑んだ。
「どうして、それを持っているの?」
「これは、君たちが見つけたものと同じ系列の印だ。だが、君たちが知っていることは、まだ全体のほんの一部にすぎない」
「なら、教えてください!」
鈴は思わず一歩踏み出した。
「私の記憶に何があるのか。あの施設で何が起きたのか。あなたが知っていることを、全部……!」
「全部を知れば、君は今までどおりではいられない」
人物の声に、わずかな悲しみが混じった。
「それでも、知りたいのか?」
鈴は言葉を失った。
胸の奥で、あの白い部屋が浮かび上がる。
誰かの声。
閉ざされた扉。
そして、忘れないと誓った自分。
怖い。
それでも、知りたい。
「……はい」
鈴は顔を上げた。
「知りたいです。自分のことだから」
黒い外套の人物は、しばらく彼女を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……そうか。なら、ひとつだけ忠告しておこう」
人物は金属片を懐へしまった。
「第七保管区の装置を、二度と起動させるな。あれは、君が思っているような記録装置ではない」
「どういう意味ですか?」
「それ以上は、今は話せない」
「待って!」
鈴が呼び止めた。
だが、人物はすでに路地の奥へ向かっていた。
そのとき、反対側からシラスが戻ってきた。
「鈴!」
彼は彼女のそばへ駆け寄り、周囲を見回した。
「今、誰と話していた?」
「黒い外套の人……。ここにいたのに」
路地の奥には、もう誰もいなかった。
シラスは鈴の肩に手を置いた。
「何かされたか?」
「ううん。何も。でも、第七保管区のことを知っていた」
「何を話した?」
鈴は、聞いたことをすべて伝えた。
第七保管区の装置を二度と起動させるなという忠告。
あれは記録装置ではないという言葉。
そして、自分の記憶について、何かを知っているような態度。
話を聞き終えたシラスの表情は険しかった。
「……やはり、あいつは施設について知っている」
「うん。でも、どうして教えてくれないんだろう」
「話せない事情があるのか、話すつもりがないのか。今は判断できない」
シラスは路地の奥を見つめた。
「だが、ひとつわかった。あいつは俺たちをただ監視しているだけじゃない」
「……どういうこと?」
「俺たちが何を見つけたのか、確かめている。そして、これ以上何かをすることを止めようとしている」
鈴は胸元の銀飾りを握った。
「……私を守ろうとしているのかな」
「それも、可能性のひとつだ」
シラスは断言しなかった。
相手が味方なのか、敵なのか。
まだ何もわかっていない。
ただ、あの人物が第七保管区について知っていることだけは確かだった。
◇
しばらくして、ダリウスが合流した。
「見失ったか」
「お前も見つけられなかったのか?」
「途中で別の通りへ出た形跡はあった。だが、そこから先は追えなかった」
ダリウスは鈴を見た。
「何か話したのか?」
「ああ。第七保管区の装置を起動させるな、と忠告された」
シラスが答える。
ダリウスの表情が変わった。
「……起動させるな?」
「そうだ。しかも、あれは記録装置ではないと言っていたらしい」
「なら、何の装置なんだ?」
「それを知るために調べているんだろう」
シラスは肩をすくめた。
「ただ、今まで以上に慎重になる必要がある」
ダリウスはしばらく考え込んだ。
「地下の装置がまだ動いていることは、オルヴェンも知らなかった。あの男は、施設の内部事情を知っている可能性が高い」
「それに、俺たちが見つけた印と同じものを持っていた」
「……なら、次はその印について調べるべきだな」
鈴は二人の会話を聞きながら、少しだけ顔を上げた。
「私も、もっと調べたい」
シラスは彼女を見た。
「わかっている。だが、今日のところは戻るぞ。これ以上、相手を追っても手掛かりがない」
「……うん」
鈴は頷いた。
悔しさはある。
せっかく話せたのに、何も教えてもらえなかった。
それでも、ひとつだけわかったことがある。
自分の過去を知っている人間は、確かに存在する。
そして、その人間は、何かを恐れている。
あの地下施設が再び動き出すことを。
あるいは、自分が記憶を取り戻すことを。
その理由は、まだわからない。
けれど、いつか必ず聞き出したいと思った。
◇
宿へ戻る道すがら、鈴は何度も胸元の銀飾りに触れていた。
黒い外套の人物の声が、耳の奥に残っている。
『全部を知れば、君は今までどおりではいられない』
その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
もし、本当にそうだとしたら。
記憶を取り戻した自分は、今の自分とは違う人間になってしまうのだろうか。
シラスは、彼女の様子に気づいていた。
「……気になるか?」
「うん」
鈴は正直に答えた。
「でも、知りたい。怖いけど……知らないままなのも、嫌だから」
「なら、少しずつ調べていこう」
「……シラスは、私が全部思い出しても、一緒にいてくれる?」
その問いに、シラスは足を止めた。
鈴も立ち止まり、彼の顔を見上げる。
冗談ではない。
彼女は、本気で尋ねていた。
シラスはすぐには答えなかった。
自分自身、これから何が起きるのかはわからない。
彼女の記憶が戻ったとき、どんな過去が明らかになるのかもわからない。
それでも。
「……お前が一緒にいたいと思うなら、俺は追い払うつもりはない」
鈴は目を見開いた。
「それって……」
「それ以上のことを聞くな。今の俺に言えるのは、それだけだ」
シラスは再び歩き始めた。
鈴はその場に一瞬だけ立ち尽くしたあと、慌てて彼の後を追った。
「ま、待ってよ! それ、ずるい!」
「何がだ」
「そんな言い方されたら、期待しちゃうじゃない!」
「何を期待するんだ?」
「もう! シラスのばか!」
鈴は顔を赤くしながら、彼の隣へ並んだ。
シラスは困ったように息を吐いたが、歩く速度を少しだけ落とした。
その背後では、夕暮れの街に灯りがともり始めていた。
黒い外套の人物は、遠く離れた建物の屋根から、二人の姿を見つめていた。
手の中には、傷の刻まれた金属片。
その裏側には、表からは見えないほど小さな文字が刻まれている。
『接続対象の保護を最優先とする』
人物はそれを指でなぞり、静かに目を閉じた。
「……まだ、間に合うはずだ」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
そして、外套を翻し、屋根の向こうへ姿を消した。




