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目覚めかけた記憶

 ローヴェン商会を出た頃には、街の空が夕暮れの色に染まり始めていた。


 シラスは歩きながら、懐にしまった帳簿の写しを指で確かめた。


 第七保管区。


 接続対象。


 封鎖手順。


 そして、対象保護。


 どの言葉も、まだ意味を結ばない。


 ただ、ひとつだけ確かなことがあった。


 あの地下施設は、完全には停止していない。


 そして、鈴が近づいたとき、何かが反応した。


「……考え込んでるね」


 隣を歩く鈴が、そっと顔を覗き込んできた。


「考えなければならないことが多いからな」


「地下のこと?」


「それもある」


「じゃあ、ほかには?」


「お前が、次に何をしでかすか」


「し、失礼だよ!」


 鈴が頬を膨らませる。


「私は今日、ちゃんと魔力を抑えられたんだから!」


「そうだな」


「……あれ? もっと反論してくると思った」


「事実を認めただけだ。何か問題があるか?」


「ないけど……」


 鈴は少しだけ口元を緩めた。


 今日、自分の魔力を抑えられたことは、彼女にとって大きな一歩だった。


 まだ怖い。


 自分の中に何があるのかもわからない。


 それでも、すべてを恐れているだけでは何も変わらないのだと、少しずつ理解し始めていた。


「ねえ、シラス」


「今度はなんだ」


「今日、私が魔力を抑えられたのって……ちゃんと前進できてるってことだよね?」


 シラスは歩調を緩めた。


「ああ。少なくとも、昨日よりは前に進んでいる」


「……そっか」


 鈴は嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見て、シラスは視線を前に戻した。


 彼女が笑っていられる時間を、少しでも長くしてやりたい。


 そう思う理由を、彼はまだ深く考えないようにしていた。


     ◇


 宿へ戻ると、マリエルからの伝言が届いていた。


 もちろん、ベルフォードにいる彼女から直接届いたものではない。グラヴェスの宿の主人が、商人を通じて受け取った短い知らせだった。


 シラスが紙片を広げる。


『古い記録を探しているなら、正規の帳簿だけを見るな。記録に残らない取引ほど、別の場所に痕跡が残ることがある』


 署名はない。


 だが、文面の最後に小さな酒樽の絵が描かれていた。


「……マリエルらしいな」


 シラスが呟く。


「マリエルさんから?」


「本人が書いたものかは断定できないが、あいつが好みそうな忠告ではある」


「何か、わかったの?」


「いや。だが、商会の帳簿だけでなく、外部へ流れた記録も探す必要があるということだろう」


 ダリウスは椅子に腰を下ろし、腕を組んだ。


「地下の設備については、明日もう一度調べるとして……今夜は、俺が知っている範囲の資料を整理してみよう」


「お前も記録を持っているのか?」


「断片的な写しだ。施設の正式名称も、設立した組織もわからない。だが、いくつかの記号は照合できるかもしれない」


「最初からそれを出せばよかっただろ」


「お前たちがどこまで調べているのか、確かめる必要があった」


 シラスは呆れたように息を吐いた。


「相変わらず、信用しにくい男だな」


「お互い様だ」


 ダリウスは懐から折り畳まれた紙を取り出した。


 そこには、古い施設の配置図らしきものが描かれている。


 ただし、線の多くは途切れ、文字もかすれていた。


 シラスは紙を受け取り、机の上に広げた。


「これは……」


「以前、ある廃屋で見つけたものだ。正確な場所はわからないが、壁に刻まれた記号が第七保管区のものと一致していた」


 図面の端には、七つの区画を示す数字が並んでいた。


 第一から第六までは、いくつかの短い注記がある。


 だが、第七の欄だけは、黒く塗りつぶされていた。


 その下に、小さく書かれた文字が残っている。


『原記録との照合を禁ず』


「……また、これか」


 シラスが眉をひそめた。


「原記録を見せたくない理由があるのか。それとも、見てはいけない理由があるのか」


「どちらもあり得る」


 ダリウスは図面を指で叩いた。


「ただ、記録を隠した人間と、施設を封鎖した人間が同じとは限らない。異常が起きたあとで、誰かが記録を持ち出した可能性もある」


「つまり、関係者同士でも目的が違った可能性があるわけだな」


「そういうことだ」


 鈴は二人の会話を聞きながら、図面をじっと見つめていた。


 七つの区画。


 その数字の並びを見ていると、胸の奥がざわつく。


 けれど、今日は無理に記憶を追いかけないと決めていた。


 思い出そうとするたび、恐怖が膨らむ。


 それなら、今は自分にできることをしよう。


「……ねえ、これ、写してもいい?」


 鈴が尋ねた。


 ダリウスは少し意外そうな顔をした。


「構わないが、何に使う?」


「文字の形を覚えておきたいの。ほかの場所で同じ記号を見つけたとき、気づけるかもしれないから」


 シラスは頷いた。


「いい考えだ」


 鈴の顔が明るくなる。


「本当?」


「ああ。俺たちが見落としていることに、お前が気づく可能性もある」


「……うん!」


 鈴は紙と筆記具を取り出し、図面の記号を丁寧に写し始めた。


 今の彼女にできることは、決して大きくない。


 だが、小さなことを積み重ねれば、いつか自分の力を正しく使えるようになるかもしれない。


 そう信じてみたかった。


     ◇


 夜。


 ダリウスが別室で資料を整理している間、シラスは窓際で剣を手入れしていた。


 鈴はベッドに腰掛け、昼間に書き写した記号を見つめている。


 しばらく静かな時間が流れたあと、彼女が口を開いた。


「……シラスは、怖くないの?」


「何がだ?」


「私のこと」


 シラスの手が止まった。


 鈴は紙を見つめたまま、言葉を続けた。


「今日の地下で、あの装置が私に反応したでしょう? 私が近づいたから、何かが動き始めた。もし、私が原因だったら……」


 彼女はそこで言葉を切った。


「もし私が、あの場所にあったものを動かすための存在だったら、どうしようって思うの」


 シラスは剣を布で包み、机の上に置いた。


「怖くないと言えば、嘘になる」


 鈴が顔を上げた。


 彼がそんなふうに答えるとは、思っていなかったのだろう。


「……怖いの?」


「何が起きるかわからないのは、俺だって怖い。お前の魔力が暴走すれば、俺たちだけでなく、周囲の人間も巻き込むかもしれない」


「……うん」


「だが、それとお前自身を恐れることは別だ」


 シラスは彼女をまっすぐ見た。


「俺が知っているお前は、何かを壊したいと思っているやつじゃない。自分の力で誰かを傷つけることを、あれだけ怖がっている」


「でも、もし記憶が戻ったら……今まで知らなかった自分が、出てくるかもしれない」


「そうだな」


 シラスは否定しなかった。


「今のお前が知らない過去がある。それは間違いない。だが、過去を知ったからといって、今のお前が消えるわけじゃない」


 鈴は黙って聞いていた。


「記憶が戻ったあと、何を考えるか。何を選ぶか。それは、そのときのお前が決めればいい」


「……私が決めていいの?」


「他に誰が決めるんだ」


 シラスは肩をすくめた。


「お前の人生だろ」


 鈴の瞳が揺れた。


 彼女は、自分の過去を知ることが怖かった。


 もし、思い出した自分が、今の自分と違っていたら。


 もし、かつての自分が、取り返しのつかないことをしていたら。


 そのとき、自分はどうすればいいのだろう。


 けれど、シラスは過去を理由に、彼女の未来まで決めようとはしなかった。


「……ありがとう」


 鈴が小さく言った。


「今度は、ちゃんと受け取っておく」


「そうしてくれ」


 シラスは窓の外を見た。


 街の灯りが、夜の闇に浮かんでいる。


 鈴はしばらく彼の横顔を見つめていたが、やがて小さな声で尋ねた。


「ねえ、シラス」


「なんだ?」


「もし、私が自分のことを全部思い出したら……今の私じゃなくなっちゃうのかな」


 シラスは少し考えた。


「人は、何かを思い出したくらいで、別人になるわけじゃない」


「……そうかな」


「ああ。少なくとも、俺はそう思う」


 鈴は胸元の銀飾りに触れた。


 小さな鈴が、かすかに鳴る。


「……そっか」


 彼女は目を閉じた。


 心の奥で、失われた言葉が揺れている。


 けれど、今夜は追いかけなかった。


 思い出せないことがあっても、今ここにいる自分まで失ったわけではない。


 それを、少しだけ信じてみようと思った。


     ◇


 その夜、鈴は夢を見た。


 白い部屋。


 磨かれた床。


 壁に刻まれた円と二本の交差する線。


 夢の中の彼女は、今よりもずっと落ち着いた様子で、長い廊下を歩いていた。


 足音が響く。


 誰かが後ろからついてくる気配があった。


『急いでください』


 聞き覚えのある声。


『もう、時間がありません』


 鈴は振り返ろうとした。


 けれど、夢の中の自分は振り返らなかった。


 前だけを見て、歩き続けている。


 やがて、目の前に扉が現れた。


 扉の中央には、七つの刻印。


 その向こうから、青い光が漏れていた。


『ここを開ければ、すべてが終わる』


 誰かが言った。


 別の声が、すぐにそれを否定する。


『いいえ。開けてはいけない』


 声が重なり、部屋全体が揺れた。


 鈴は夢の中で、ようやく振り返った。


 そこに立っていた人物の顔は、光に隠れて見えない。


 ただ、その人は悲しそうに首を横に振っていた。


『あなたは、何も知らなくていい』


 その言葉を聞いた瞬間、鈴の胸に強い痛みが走った。


 知らなくていい。


 忘れていていい。


 そう言われたことが、どうしてこんなにも悲しいのだろう。


 夢の中の彼女は、震える手を扉へ伸ばした。


 そして、声にならない声で何かを呟いた。


 その言葉だけは、目覚める直前まで、はっきりと聞こえていた。


『……私は、忘れない』


     ◇


 翌朝。


 鈴は目を覚ますと、しばらく天井を見つめていた。


 夢の内容は、細部まで覚えているわけではない。


 白い部屋。


 七つの刻印。


 開けてはいけない扉。


 そして、最後に自分が口にした言葉。


「……私は、忘れない」


 小さく呟く。


 胸の奥には、奇妙な感覚が残っていた。


 悲しい。


 けれど、怖いだけではない。


 何かを守ろうとしていたような、そんな気がする。


「起きたのか?」


 窓際から声がした。


 シラスだった。


 すでに身支度を整え、机の上に地図を広げている。


「……うん。おはよう」


「顔色は悪くないな」


「変な夢を見ただけ」


「どんな夢だ?」


 鈴は少し考えたあと、夢の内容を話した。


 白い部屋のこと。


 七つの刻印がある扉。


 そして、誰かに「何も知らなくていい」と言われたこと。


 シラスは黙って聞いていた。


「最後に、私は『忘れない』って言ったの」


「……そうか」


「でも、何を忘れないって言ったのかは、わからない」


 鈴は自分の手を見つめた。


「誰かとの約束だったのかな。それとも、何かを守るためだったのかな」


「どちらも可能性はある。だが、今は推測するしかない」


「うん」


 鈴は顔を上げた。


「でも、少しだけ思ったの。私、ただ何もかも忘れてしまったわけじゃないのかもしれないって」


 シラスは彼女を見つめた。


「どういう意味だ?」


「記憶は思い出せない。でも、何かを大切に思っていた気持ちは、残っているのかもしれない」


 彼女は胸元の銀飾りを握った。


「だから、怖くても、少しずつ知りたい。私が何者だったのか。あの場所で何があったのか。そして、何を守ろうとしていたのか」


 シラスは静かに頷いた。


「わかった。なら、次は記録を探そう。昨日の帳簿だけでは足りない」


「うん。一緒に行こうね」


「ああ」


 短い返事だった。


 けれど、鈴にはそれで十分だった。


 彼女は窓の外を見た。


 朝の光が、グラヴェスの街を照らしている。


 過去はまだ、遠い場所にある。


 失われた記憶も、答えの見えない謎も、簡単には戻ってこないだろう。


 それでも、今は一人ではない。


 隣には、何もかもを信じているわけではなくても、自分の言葉を聞いてくれる人がいる。


 それだけで、前へ進む勇気が少しだけ湧いてきた。


 鈴は立ち上がり、シラスの隣へ歩いていった。


「ねえ、今日は何から始めるの?」


「まずは、ダリウスが持っている資料を整理する。それから、オルヴェンに地下の設備について、もう一度詳しく聞く」


「そのあとは?」


「記録の出所を探す。あの商会だけで、すべてを管理していたとは思えない」


「……うん」


 鈴は頷いた。


 そして、ふと窓の外へ視線を向けた。


 通りの向こう側。


 人々の往来の中に、一瞬だけ、黒い外套を着た人物の姿が見えた気がした。


 その人物は、こちらを見上げているようだった。


「……シラス」


「どうした?」


「今、あそこに誰か……」


 鈴が指を差す前に、人物の姿は人混みに紛れて消えていた。


 シラスはすぐに窓辺へ移動したが、すでに見えるものはなかった。


「誰か見えたのか?」


「うん。でも、すぐにいなくなっちゃった」


「……わかった。外へ出るときは、周囲に気をつけよう」


 シラスは窓から離れ、剣を手に取った。


 まだ、追跡者の正体はわからない。


 あの地下施設を知っている人間が、ほかにもいるのかもしれない。


 そして、鈴の記憶が戻り始めていることを、誰かが察知している可能性もある。


 シラスは彼女の隣に立った。


「行くぞ、鈴」


「うん」


 鈴は最後にもう一度だけ、窓の外を見た。


 失われた記憶の向こう側に、何が待っているのか。


 まだ、答えは見えない。


 それでも彼女は、今度こそ自分の意志で、その先へ進もうとしていた。

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