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二人で切り開く道

『……ようやく、戻ってきたのですね』


 その声が響いた瞬間、鈴の呼吸が止まった。


 聞き覚えがある。


 優しく、静かで、それでいて、どこか深い悲しみを帯びた声だった。


 けれど、誰の声なのかは思い出せない。


 シラスは鈴を背後にかばいながら、開き始めた扉を見据えた。


「誰だ。姿を見せろ」


 返事はなかった。


 扉の向こうから青白い光が流れ出し、地下通路の壁を照らしている。金属板に刻まれた七つの印は、今も不規則に明滅していた。


『接続対象を確認。記録領域へのアクセスを開始します』


「……おい、聞こえているのか?」


 シラスがもう一度問いかけても、声は同じ調子で繰り返された。


『接続対象を確認。記録領域へのアクセスを開始します』


「会話のできる相手じゃないようだな」


 ダリウスが剣を抜き、周囲を警戒した。


「それにしても、妙だ。俺たちが近づくまでは何の反応もなかった。扉が開いたのも、鈴がここへ来てからだ」


「俺もそう思っている」


 シラスは鈴を振り返った。


「身体に異常はないか?」


「……うん。今のところは」


「魔力が動いている感じは?」


 鈴は目を閉じ、自分の内側に意識を向けた。


 胸の奥に、かすかな熱がある。


 だが、昨夜の暴走のように力が膨れ上がっているわけではなかった。


「少し変な感じはする。でも、勝手に魔法が出そうな感覚はないよ」


「なら、無理をするな。何か変わったらすぐに言え」


「わかった」


 鈴は頷いた。


 扉の隙間から、さらに強い光が漏れた。


 その奥に見えたのは、広い円形の部屋だった。


 壁一面に金属製の板が並び、床には複雑な魔法陣が刻まれている。中央には大きな台座があり、そこから幾本もの管が壁へと伸びていた。


 しかし、部屋の中央にあるはずの装置は、半分ほど崩れていた。


 その周囲には、砕けた金属片や、文字の消えかけた石板が散乱している。


 人の姿は見当たらなかった。


「……誰もいない?」


 鈴が呟く。


「少なくとも、目に見える範囲にはな」


 シラスは慎重に扉へ近づいた。


 床に細い亀裂が走っている。


 壁の一部は崩れ、天井から垂れ下がった金属管が、微かな音を立てて揺れていた。


 足を踏み入れれば、何が起きるかわからない。


 それでも、ここまで来た以上、何も確認せずに戻るわけにはいかなかった。


「俺が先に入る。ダリウスは後ろを頼む」


「了解した」


「鈴は扉の近くに――」


「私も行く」


 鈴が遮った。


 シラスは彼女を見た。


「中は危険かもしれない」


「わかってる。でも、あの声は私に向かって話していた気がするの」


「それは、まだわからないだろ」


「うん。でも、もし私に関係があるなら、自分の目で確かめたい」


 彼女の声には恐怖があった。


 それでも、目をそらすつもりはないという意志も感じられた。


 シラスはしばらく考えたあと、頷いた。


「わかった。俺のすぐ後ろから離れるな」


「うん」


「それから、勝手に装置へ触るな」


「……うん」


「今の間は何だ?」


「触らないってば!」


 鈴が慌てて抗議した。


 ダリウスが小さく息を吐く。


「こんな状況でも、いつもどおりだな」


「悪いか?」


「いや。むしろ、そのほうが助かる」


 シラスは返事をせず、部屋の中へ足を踏み入れた。


     ◇


 部屋に入った途端、空気の重さが変わった。


 冷たい。


 それなのに、肌の表面には微かな熱を感じる。


 床に刻まれた魔法陣は、中央の台座を囲むように広がっていた。いくつもの線が途中で途切れ、ところどころに黒く焦げた跡がある。


 シラスは壁際を歩き、崩れた石板を調べた。


 読める文字は限られていたが、その中に見覚えのある言葉があった。


『魔力供給』


『接続維持』


『記録領域』


 そして、別の場所には――。


『対象保護』


「対象保護、か……」


 シラスが呟いた。


「何を保護していたんだろうね」


 鈴が隣から尋ねる。


「人間かもしれないし、装置そのものかもしれない。今の段階では判断できない」


「……そうだよね」


 鈴は台座を見つめた。


 中央には、何かが取り付けられていたような跡がある。


 しかし、そこには何も残っていなかった。


 空っぽの窪みだけが、青白い光を反射している。


 その形を見た瞬間、鈴の胸が強く締めつけられた。


 白い部屋。


 床に広がる魔法陣。


 誰かの手が、自分の肩に触れている。


『ここから離れて』


 声が聞こえた。


『お願いだから、もう近づかないで』


 鈴は足を止めた。


「……っ」


 息が乱れる。


 視界の端が揺れた。


「鈴?」


 シラスがすぐに振り返った。


「どうした?」


「今……また、声が聞こえた」


「何と言っていた?」


「ここから離れて、って……。それから、近づかないでって」


 鈴は台座から目を離せなかった。


「私、ここに来たことがあるのかもしれない」


「その可能性はある」


 シラスは彼女の視線の先を確認した。


「だが、記憶が戻ったからといって、すぐに結論を出すな。思い出したことと、実際に起きたことが完全に一致するとは限らない」


「……うん」


「今は、わかることをひとつずつ集めればいい」


 鈴は小さく頷いた。


 シラスはそれ以上、記憶を引き出そうとはしなかった。


 彼女が思い出したいと思っていることと、今すぐ思い出せることは別なのだ。


 焦らせても、何もよい結果にはならない。


 それは、彼自身が過去の出来事から学んだことでもあった。


     ◇


「こっちを見てくれ」


 部屋の反対側で、ダリウスが声を上げた。


 壁に埋め込まれた金属板の一枚を調べていたらしい。


 そこには、いくつもの細い溝が刻まれていた。


 溝の端には、七つの区画を示すような番号が並んでいる。


 第一保管区。


 第二保管区。


 第三保管区。


 そして、第七保管区。


 各区画の横には、短い記号が記されていた。


「どうやら、ここが全体の管理装置だったらしい」


 ダリウスが言った。


「保管区の状態をまとめて確認するためのものかもしれない」


「第七保管区だけ、表示が違うな」


 シラスが指摘した。


 ほかの区画には、短い線や小さな丸が記されている。


 だが、第七保管区の欄だけは、文字が削り取られていた。


 その下に、かすかに残る記述がある。


『接続先変更――』


 そこから先は、判読できなかった。


「変更先がわかれば、何か手掛かりになるかもしれないんだが……」


 ダリウスは金属板の周囲を調べた。


 そのとき、鈴が小さく声を上げた。


「ねえ、これ……」


 彼女が指したのは、金属板の下にある小さな窪みだった。


 そこには、細長い金属片が差し込まれていた。


 シラスはすぐに手を伸ばしかけたが、途中で止めた。


「触る前に、周囲を確認する」


 彼は窪みの周りを調べた。


 細い溝が金属板の裏側へ続いている。


 だが、目に見える仕掛けは見つからなかった。


「この金属片を抜けば、何かが起きる可能性があるな」


「でも、ここに残されているってことは、必要なものなんじゃない?」


 鈴が言った。


「必要だから残っているとは限らない。誰かが抜き忘れたのかもしれないし、罠として置かれた可能性もある」


「……そうだった」


 鈴は肩を落とした。


 自分が何かを見つけるたび、シラスは慎重に確認する。


 その理由はわかっている。


 それでも、役に立ちたいという気持ちは簡単には消えなかった。


 シラスは彼女の表情を見て、少し考えた。


「鈴。ひとつ頼みがある」


「え?」


「金属板に刻まれた文字を、読める範囲で書き写してくれ。俺たちが見落としているものがあるかもしれない」


「私が?」


「ああ。お前は、こういう細かいところによく気づく」


 鈴は目を丸くした。


「……私、そんなに気づいてる?」


「少なくとも、俺よりはよく見ていることがある」


「そ、そうなんだ……」


 彼女の頬が、ほんの少し赤くなった。


 褒められるとは思っていなかったのだろう。


「わかった。やってみる!」


 鈴は鞄から紙と筆記具を取り出し、金属板の文字を丁寧に写し始めた。


 シラスは再び台座の周囲を調べる。


 そのときだった。


 床の奥から、低い振動が伝わってきた。


 部屋の青い光が、一斉に明滅する。


『記録領域へのアクセス――中断』


 機械的な声が響いた。


『接続状態に異常を確認』


 ダリウスがすぐに剣を構えた。


「何か起きるぞ!」


 シラスは鈴の腕を掴み、台座から離れた。


 次の瞬間、中央の装置から青い光が噴き出した。


 光は床の魔法陣を走り、壁の金属板へと広がっていく。


 砕けた石片が震え、天井から細かな砂が落ちてきた。


「シラス!」


「走るぞ!」


 シラスは鈴を連れて入口へ向かった。


 ダリウスも続く。


 だが、通路へ出る直前、背後で大きな音がした。


 振り返ると、台座の周囲にあった床の一部が崩れ落ちていた。


 その下から、さらに深い空間が姿を現している。


 階段ではない。


 縦に伸びる、巨大な空洞だった。


 底は暗闇に沈み、見通せない。


 その壁には、何本もの金属管が走っていた。


 そして、空洞の中央に、青白い光を放つ大きな結晶のようなものが見えた。


 鈴は息を呑んだ。


「……あれは、何?」


 シラスにもわからなかった。


 ただ、その光を見た瞬間、鈴の魔力がかすかに反応した。


 彼女はすぐに胸元を押さえ、目を閉じる。


 力が膨らみかけた。


 だが、今回は違った。


 シラスの声を思い出す。


 息をする。


 ゆっくり吐く。


 無理に押さえつけるのではなく、流れを確かめる。


 鈴は一歩も動かなかった。


 胸の奥で揺れていた魔力は、少しずつ静まっていく。


「……大丈夫」


 彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。


 そして、目を開けた。


「シラス、私、今……止められたよ」


 シラスは彼女を見た。


 その表情に、わずかな驚きが浮かぶ。


「ああ。よくやった」


 短い言葉だった。


 けれど、鈴にとっては十分だった。


 自分の力が怖いことに変わりはない。


 それでも、何もできないわけではない。


 そう思えたことが、彼女には大きかった。


     ◇


 振動は、しばらく続いた。


 やがて青い光が弱まり、部屋は再び静かになった。


 三人は入口近くまで戻り、崩れた床を警戒しながら、空洞を見下ろした。


「……地下に、さらに空間があったのか」


 ダリウスが呟いた。


「この施設の設計図を見たことはあるか?」


「ない。少なくとも、俺が調べた資料には、こんな空間は記されていなかった」


 シラスは空洞の壁を見た。


 金属管は下へ向かって伸びている。


 その一部は途中で切れ、むき出しの端から青い火花が散っていた。


「さっきの装置とつながっているようだな」


「問題は、あの結晶だ」


 ダリウスが指差した。


「魔力の供給源かもしれない。だが、あれが何のために使われていたのかはわからない」


 鈴は結晶を見つめていた。


 胸の奥に、言葉にならない感覚が残っている。


 懐かしい。


 怖い。


 そして、悲しい。


 それらが混ざり合い、どれが自分の感情なのかさえわからなくなる。


「……あれを、止めなきゃいけない気がする」


 彼女が呟いた。


 シラスはすぐに反応した。


「どうしてそう思う?」


「わからない。でも、あの光を見ていると……何かが、まだつながったままになっている気がするの」


「さっきの記録と関係があるのかもしれないな」


 ダリウスが言った。


「ただし、止める方法がわからない以上、今すぐ手を出すのは危険だ」


「わかっている」


 シラスは頷いた。


 彼もまた、あの結晶を放置していいとは思っていない。


 しかし、何もわからないまま触れれば、鈴の魔力を再び暴走させる可能性もある。


 それだけは避けなければならなかった。


「まずは戻って、オルヴェンに確認する。あいつが知らないことでも、施設の構造については何か覚えているはずだ」


「賛成だ」


 ダリウスは剣を鞘に収めた。


 鈴も頷いた。


 彼女はもう一度だけ、空洞の底を見つめた。


 結晶の光は、弱まったあとも消えていない。


 まるで、誰かがそこにいることを知っているかのように。


     ◇


 地上へ戻ると、オルヴェンは入口のそばで待っていた。


 三人の姿を見た途端、彼の顔色が変わった。


「……装置が動いたのか?」


「見ていたのか?」


 シラスが尋ねる。


「いや。床を通じて振動が伝わってきた。あれほどの反応は、私がここを離れて以来、一度もなかった」


 オルヴェンは階段の奥を見つめた。


「まさか、まだ動いていたとは……」


「地下には、記録にない空洞があった。中央の装置が崩れて、その下が見えた」


「空洞?」


 オルヴェンの表情が強張った。


「そんなはずは……」


「何か知っているのか?」


 シラスが問う。


 オルヴェンはしばらく黙り込んだ。


 やがて、意を決したように口を開く。


「……昔、一度だけ聞いたことがある。第七保管区の下には、管理用の空間とは別に、もうひとつの設備があると」


「何の設備だ?」


「それは知らない。責任者たちも、詳しいことは話さなかった。ただ、その設備に関する記録は、通常の管理帳簿には残してはいけないと言われていた」


 ダリウスが眉をひそめる。


「記録に残してはいけない設備、か。ずいぶんと都合のいい話だな」


「私もそう思った。だが、当時は逆らえる立場ではなかった」


 オルヴェンは鈴を見た。


「そして、あの少女が関わっていたのなら……」


 彼は言いかけて、口を閉じた。


「いや。今の私には、何も断言できない」


 鈴は男の顔を見つめた。


「……あの子は、どうなったんでしょうか」


 オルヴェンは、苦しそうに目を伏せた。


「それを知りたいのは、私も同じだ」


 彼の声には、偽りのない悲しみが感じられた。


 だが、それだけでは何もわからない。


 彼が何を見て、何を知らされず、何を隠してきたのか。


 そのすべてを確かめるには、まだ時間が必要だった。


 シラスは地下への入口を振り返った。


 あの空洞。


 青白い結晶。


 そして、鈴に反応した装置。


 何もかもが、ひとつの答えにつながっているように思える。


 しかし、今はまだ、その答えに手を伸ばすべきではない。


「今日はここまでだ」


 シラスが言った。


「地下の状態を確認する手段と、施設の記録を探す。準備もなく、もう一度入るのは危険すぎる」


 ダリウスが頷いた。


「異論はない。俺も、あの場所を調べるための情報が足りないと思っていた」


 鈴は少しだけ残念そうな顔をした。


 だが、すぐに表情を引き締めた。


「……うん。私も、もっとちゃんと調べたい」


「そのためにも、今は戻る」


 シラスは彼女の頭に手を置きかけ、少し迷ってから、代わりに肩を軽く叩いた。


「さっき、魔力を止められたな」


「……うん」


「それは大きな前進だ。忘れるな」


 鈴は彼を見上げた。


 そして、今度は迷わず笑った。


「うん。忘れない」


 彼女の力は、まだ不安定だ。


 失われた記憶も、過去に何があったのかも、ほとんどわかっていない。


 それでも、昨日までと同じではなかった。


 怖さを抱えながらも、自分の力と向き合うことができた。


 シラスもまた、彼女をただ守るだけではなく、彼女自身が進める道を探そうとしていた。


 二人が進む先には、まだ多くの危険が待っているだろう。


 それでも、一人では越えられない場所を、二人なら越えられるかもしれない。


 鈴はシラスの隣に並んだ。


「ねえ、シラス」


「なんだ?」


「これからも、一緒に調べてくれる?」


「ここまで付き合っておいて、今さら何を言っている」


「……それもそうだね」


「むしろ、お前が勝手にいなくならないか心配だ」


「い、いなくならないよ!」


「ならいい」


 シラスは歩き出した。


 鈴は慌ててその隣を追いかける。


 背後では、閉じられた地下への入口が、静かに沈黙していた。


 そのさらに深い場所で、青白い結晶は今も微かに光を放っている。


 そして、その光のすぐそば。


 長い間、誰にも開かれなかった小さな記録板に、ひとつの文字列が浮かび上がった。


『接続対象――未確認』


『記録照合――保留』


『封鎖手順――継続中』


 最後の行だけが、何度も点滅していた。


『対象保護を優先せよ』


 やがて、その文字も暗闇の中へ消えていった。

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