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魔女を知る者

 壁の記号が、かすかに青く光っていた。


 ローヴェン商会の奥にある事務室。シラスは剣を構えたまま、廊下の向こうを見据えていた。


 先ほどまで聞こえていた金属音は、もう止んでいる。


 それでも、何かが動いた気配だけが、建物の奥に残っていた。


「……地下へ続く仕掛けが動いたのか?」


 ダリウスが低く呟いた。


「そうかもしれない。だが、勝手に動いた理由がわからない」


「さっきの男が操作した可能性は?」


「ある。だから、まだ信用しない」


 シラスは扉の向こうへ声を投げた。


「そこにいるなら、姿を見せろ。話はそれからだ」


 しばらく沈黙が続いた。


 やがて、廊下の暗がりから、一人の男が姿を現した。


 年齢は五十代半ばほど。灰色の髪には白いものが混じり、頬は痩せている。古びた茶色の上着を着て、片手には小さなランタンを持っていた。


 武器は見当たらない。


 だが、シラスは剣を下ろさなかった。


「止まれ」


 男は素直に足を止めた。


「……警戒するのは当然だ。こんな場所で、知らない人間を信用しろと言うつもりはない」


「話がわかるなら、最初からそうしてくれ」


「もっともだな」


 男は苦笑した。


「私の名は、オルヴェン。以前、この商会で記録の管理をしていた」


「元管理人だという証拠は?」


 ダリウスが尋ねる。


 オルヴェンは上着の内側から、古びた金属製の札を取り出した。


 そこには、商会の名前と、細かな番号が刻まれていた。


 シラスは札を受け取らず、目だけで確認した。


「それだけで信用しろと?」


「いや。これで信用してもらえるとは思っていない。だが、地下への入り方なら知っている」


「なぜ、今になって現れた?」


 オルヴェンは一度だけ鈴を見た。


 その視線は短かった。


 しかし、彼女の白い髪と青い瞳を確認した瞬間、男の表情が変わった。


 驚き。


 戸惑い。


 そして、長い間忘れようとしていた何かを見つけたような、痛ましい表情。


「……まさか」


 男の手から、ランタンがわずかに傾いた。


 シラスはすぐに反応した。


「鈴を見るな。何を知っている?」


 オルヴェンはハッと顔を上げた。


「すまない。だが……その髪と目を見て、思い出したことがある」


 鈴はシラスの背後から、慎重に顔を出した。


「私を、知っているんですか?」


 男は答えなかった。


 彼女の顔を見つめ、何かを確かめるように目を細めている。


 やがて、苦しそうに息を吐いた。


「いや……君自身を知っているとは言えない。私が知っているのは、かつてここにいた、ある少女のことだ」


「少女……?」


「白い髪をしていた。青い目で、いつも周囲を気にしていた。年齢は……君と同じくらいだったと思う」


 鈴の指先が冷たくなった。


 記憶の中の白い部屋が、脳裏に浮かぶ。


 けれど、そこにいた少女の顔は、どうしても思い出せなかった。


「その子は、何をしていたんですか?」


 オルヴェンは視線を落とした。


「記録を運ぶ手伝いをしていた。少なくとも、私はそう聞かされていた」


「誰に?」


「当時の研究責任者だ。だが、私は彼女が何を運んでいたのか、詳しく知らなかった」


 シラスが一歩前に出た。


「研究責任者? ここは商会じゃなかったのか」


「表向きはな」


 オルヴェンは壁の記号を見上げた。


「この建物は、古い研究施設の設備や記録を管理するために使われていた。商会としての取引も本物だったが、それとは別に、特定の物資や記録を秘密裏に保管していたんだ」


「第七保管区も、その一つか」


「そうだ」


 オルヴェンは頷いた。


「ただし、第七保管区は普通の倉庫ではない。あそこに保管されていたのは、物ではなく……記録と、記録に関わる装置だった」


「装置?」


 鈴が小さく聞き返した。


「詳しい仕組みまでは知らない。私は管理を担当していただけだからな。ただ、装置を稼働させるためには、外部から魔力を供給する必要があった」


 シラスは、崩れた建物で見た石板を思い出した。


 魔力供給。


 接続。


 停止。


 そして、古い魔法陣につながっていた金属製の箱。


「その装置が、今も動いている可能性は?」


「……わからない」


 オルヴェンは正直に答えた。


「私がここを離れたとき、すでに停止手順が進められていた。だが、完全に止まったことを確認する前に、すべての記録が封鎖された」


「なぜだ?」


「異常が起きたからだ」


 その一言で、室内の空気が変わった。


「どんな異常だ?」


 ダリウスが尋ねる。


 オルヴェンはすぐには答えなかった。


 何度か唇を動かし、言葉を選ぶ。


「装置に接続された魔力の流れが、予定していた範囲を超えた。最初は小さな誤差だったらしい。だが、時間が経つにつれ、記録にない反応が増えていった」


「記録にない反応?」


「人の魔力を測定していたはずなのに、装置のほうが人間の存在を認識しているような記録が残った。そう聞いている」


 シラスは眉をひそめた。


「装置が人間を認識する?」


「比喩かもしれない。私は研究者ではないからな。ただ、責任者たちはそれを深刻な問題として扱っていた」


 鈴は自分の胸元に手を当てた。


 昨日から続く、説明のつかない感覚。


 魔法陣を見たときの反応。


 記憶の中に現れる声。


 それらが、今の話と無関係だとは思えなかった。


「……その少女は、どうなったんですか?」


 オルヴェンの顔に、再び苦痛が浮かんだ。


「わからない」


「本当に?」


「最後に見たとき、彼女は地下へ向かっていた。研究責任者と一緒だった。私は記録の移送を命じられ、別の施設へ向かった。それきりだ」


 鈴は息を呑んだ。


「地下へ……」


 頭の奥で、声が響く。


『あなたは、ここに残ってはいけない』


 誰かが腕を掴んでいる。


『お願い。あれを、あなたにつなげたままにしないで』


 鈴は目を閉じた。


 今度は、白い部屋の扉が見えた。


 その向こうに続く階段。


 暗い地下。


 そして、階段の途中で振り返る誰かの姿。


 顔は見えない。


 けれど、その人が泣いていたような気がした。


「……鈴!」


 シラスの声で、彼女は我に返った。


 気づけば、身体が震えていた。


「大丈夫か?」


「うん……。少し、思い出しかけただけ」


「それ以上は?」


「わからない。でも、地下に階段があった気がする」


 オルヴェンが顔を上げた。


「……やはり、そうか」


 シラスの視線が鋭くなる。


「何が、やはりだ?」


「いや……」


「今の反応を見て、何か思い当たったんだろう。隠すな」


 オルヴェンは黙り込んだ。


 やがて、諦めたように息を吐いた。


「地下へ向かう前に、ひとつだけ伝えておきたいことがある」


「聞こう」


「第七保管区で何が起きたのか、私はすべてを知らない。だが、あそこに関わった人間の中には、あの少女を助けようとしていた者もいた」


 鈴の目が揺れた。


「助けようとしていた……?」


「ああ。全員が彼女を利用しようとしていたわけではない。だからこそ、誰を信じればいいのか、私にもわからなかった」


 シラスは男をじっと見た。


 言葉のすべてが真実だとは限らない。


 だが、嘘だと断定できる材料もない。


「その研究責任者の名前は?」


「……エリアス・ヴェルナー」


 聞き覚えのない名前だった。


 少なくとも、シラスの知る限りでは。


 ダリウスも首を横に振る。


「記録に残っているか、あとで調べる必要があるな」


「そうだな」


 シラスはオルヴェンへ向き直った。


「地下へ案内しろ」


「本当に行くのか?」


「ここまで来て、帰る理由がない」


「危険だぞ。装置が動いているなら、何が起こるかわからない」


「だから、お前に話を聞いている」


 シラスは剣を鞘に収めた。


「危険があるとわかったうえで、何も知らずに放置するほうが厄介だ」


 オルヴェンは彼の顔を見つめたあと、ゆっくり頷いた。


「……わかった。ただし、中央の装置には絶対に触れるな。私が案内できるのは、そこへ続く入口までだ」


「それでいい」


 ダリウスが横から口を挟んだ。


「俺も同行する。ここまで来た以上、何があるのか確認しておきたい」


「勝手にしろ」


「そのつもりだ」


 鈴は二人の会話を聞きながら、シラスの袖をそっと掴んだ。


「……私も行くよ」


「危険だとわかっているな?」


「うん。でも、私に関係があるかもしれないことを、何も知らないままにしたくない」


 シラスは彼女を見つめた。


 以前なら、彼女が自分から危険へ向かおうとするたび、すぐに止めていただろう。


 今も、できることなら連れて行きたくはない。


 だが、彼女はもう、ただ守られるだけでいたいとは思っていなかった。


「……わかった。ただし、異変を感じたらすぐに知らせろ。勝手に装置へ近づくな」


「約束する」


「本当に?」


「本当だよ」


「前にも似たようなことを言っていた気がするが」


「そ、それは……」


 鈴は目をそらした。


「今度こそ、ちゃんと守るから」


「なら、信じる」


 その言葉に、鈴は一瞬だけ目を丸くした。


 そして、小さく頷いた。


     ◇


 オルヴェンは事務室の奥へ向かい、倒れた棚を慎重に動かした。


 その下から、床に埋め込まれた金属製の蓋が現れた。


 表面には、円と二本の交差する線。


 そして、七つの小さな刻印。


「この下が、地下への入口だ」


 オルヴェンは蓋の端に手をかけた。


「昔は管理担当者しか開けられないようになっていた。だが、今はどうなっているかわからない」


「試してみろ」


 シラスが促す。


 オルヴェンが金属板の中央へ指を押し当てると、低い音が響いた。


 蓋の周囲に、青い光が走る。


 ゆっくりと金属板が持ち上がり、暗い階段が姿を現した。


 冷たい空気が、地下から吹き上がってくる。


 埃と湿った石の匂い。


 そして、その奥から微かに聞こえる、規則的な音。


 まるで、何かが今も動き続けているかのようだった。


 鈴は階段を見つめた。


 胸の奥がざわめく。


 怖い。


 それでも、目をそらすことができなかった。


 この先に、自分の失われた記憶につながる何かがある。


 そんな確信に近い感覚があった。


「行くぞ」


 シラスがランタンを手に取った。


 先頭に立ち、ゆっくりと階段を下り始める。


 鈴はその後ろに続き、ダリウスが最後尾についた。


 オルヴェンは入口に残った。


「私はここで待つ。何かあれば、すぐに戻ってこい」


「わかった」


 シラスは短く答えた。


 階段は、想像していたよりも深かった。


 壁には古い金属管が埋め込まれ、ところどころに青い光が残っている。


 その光は、彼らが近づくたび、かすかに明滅した。


「……私たちが来たことに、反応しているのかな」


 鈴が囁く。


「可能性はある」


 シラスは足を止めずに答えた。


「だが、反応しているのが俺たちなのか、単に人の動きに反応する仕組みなのかはわからない」


「そうだね……」


 階段を下りきると、目の前に長い通路が広がっていた。


 左右の壁には、同じ形の扉がいくつも並んでいる。


 そのすべてに、番号が刻まれていた。


 第一保管区。


 第二保管区。


 第三保管区。


 さらに奥へ進むと、第五、第六と番号が続いている。


 そして、通路の突き当たり。


 そこには、ほかの扉よりも大きな金属製の扉があった。


 七つの刻印。


 円と二本の交差する線。


 第七保管区。


 鈴の足が止まった。


 彼女の頭の中で、何かが崩れるような音がした。


 白い部屋。


 青い光。


 誰かの叫び。


『閉じて! 今すぐ、閉じるの!』


 鈴は思わず胸元を押さえた。


「……ここだ」


「何か思い出したのか?」


 シラスが振り返る。


 鈴は震える息を吐いた。


「わからない。でも……ここに来たことがある気がする」


 彼女は扉を見つめた。


 その向こうから、かすかな振動が伝わってくる。


 まるで、長い間眠っていた何かが、目を覚まそうとしているかのように。


 シラスは剣の柄を握り直した。


「扉を開ける前に、周囲を調べる」


 そう告げた直後、扉の中央にある円形の金属板が青く光った。


 七つの刻印が、一つずつ点灯していく。


 一つ目。


 二つ目。


 三つ目。


 やがて、七つすべてが光に包まれた。


 そして、扉の向こうから、機械的な声が響いた。


『接続対象を確認』


 鈴の身体が凍りついた。


『魔力反応――一致』


 シラスが彼女の前へ出る。


 しかし、声は止まらなかった。


『第七保管区、再起動手順を開始します』


 地下通路の青い光が、一斉に強くなった。


 鈴は、震える唇を開いた。


「……やめて」


 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。


 ただ、心の奥から、強い拒絶が込み上げていた。


「お願い……もう、動かさないで……」


 シラスは彼女の肩を支えた。


「鈴、落ち着け。まだ何も起きていない」


 そう言った直後、扉の向こうで重い金属音が響いた。


 閉ざされていた扉が、ゆっくりと開き始める。


 その隙間から、青白い光が溢れ出した。


 そして、暗闇の奥から、誰かの声が聞こえた。


『……ようやく、戻ってきたのですね』


 鈴は息を呑んだ。


 聞き覚えがある。


 確かに、聞き覚えがある声だった。


 けれど、その声の主が誰なのか。


 なぜ自分を待っていたのか。


 思い出すことは、まだできなかった。

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