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地下に眠る記録

『接続先――第七保管区』


壁に刻まれた文字を、シラスは何度も読み返した。


ローヴェン商会の奥にある廊下は、長い間使われていなかった倉庫のような匂いがした。埃の積もった床には、倒れた棚や破れた帳簿が散乱している。


その一方で、足元には新しい靴跡が残っていた。


誰かが、ここを調べていたのだ。


「第七保管区……聞いたことはあるか?」


シラスが尋ねると、ダリウスは壁の文字を見つめたまま首を横に振った。


「少なくとも、一般的な倉庫の名称ではないな。保管区という言い方も妙だ。商会の施設なら、普通は倉庫番号か管理番号を使う」


「つまり、ここに書かれているのは商会の管理情報じゃない可能性がある」


「そう考えるのが自然だろう」


ダリウスは壁の下部に視線を移した。


円と二本の交差する線。その横には、細い傷が二つ刻まれている。


これまで見つけた金属片や古い記録にあったものと、よく似た印だった。


「この印がある場所は、どこも普通じゃないな」


「普通じゃない場所を探している俺たちが言うことか?」


「少なくとも、普通の旅行をしているとは思っていない」


「それは同感だ」


二人の会話を聞きながら、鈴は壁にそっと手を伸ばしかけた。


しかし、指先が石に触れる直前で止まった。


昨日、魔法陣が動き出したときの感覚が、まだ身体に残っている。


また何かが起きたら。


自分の力が、今度こそ誰かを傷つけてしまったら。


「鈴?」


シラスが振り返った。


「……触らないほうがいいよね」


「危険がないとわかるまではな」


「うん」


鈴は手を引っ込めた。


その様子を見たシラスは、彼女を責めることも、無理に触らせることもしなかった。


「代わりに、周囲を見ていてくれ。何か気づいたら教えてほしい」


「わかった」


鈴の表情が、わずかに明るくなる。


今は、それでよかった。


彼女に必要なのは、恐怖を無視して力を振るうことではない。


自分にできることを、ひとつずつ見つけることだった。


◇


商会の奥には、さらに三つの部屋があった。


一つ目は帳簿を保管する事務室。二つ目は金属製の道具や古い部品を置いた倉庫。そして、最後の一室だけは、扉が固く閉ざされていた。


扉の表面には取っ手がない。


中央に小さな円形の金属板が埋め込まれ、その周囲に細かな溝が刻まれている。


シラスは剣の柄で扉を軽く叩いた。


鈍い音が返ってくる。


「木製じゃないな」


「鉄に見えるが、普通の鉄とも違う」


ダリウスが金属板の縁を調べた。


「錆がほとんどない。かなり古いものなら、不自然だ」


「特殊な加工か?」


「あるいは、最初から劣化しにくい素材を使っているか」


シラスは扉の周囲を調べた。


鍵穴はない。


蝶番も外側からは見えない。


壁との継ぎ目に、細い溝が一本走っているだけだった。


「開け方がわからないな」


「壊すか?」


「ここで大きな音を立てるのは避けたい」


「慎重だな」


「さっきから俺を何だと思っている?」


「賞金首」


「その認識は間違っていないのが腹立たしいな」


鈴が小さく笑った。


しかし、扉の中央にある円形の金属板を見た瞬間、その笑顔は消えた。


「……これ」


「何かわかるのか?」


シラスが尋ねる。


鈴は首を横に振った。


「わからない。でも、見覚えがある気がする」


彼女は一歩だけ近づいた。


金属板の中央には、小さな窪みがある。その周囲には、円を描くように七つの細い刻印が並んでいた。


一つ、二つ、三つ。


鈴は無意識に数え始め、途中で口を閉じた。


「七つ……」


「何か思い出したか?」


「ううん。まだ、何も」


そう答えたものの、胸の奥がかすかにざわめいていた。


白い部屋。


誰かの声。


閉じて、と叫ぶ女性。


そして、何かを切り離せという言葉。


記憶は断片的で、つながりは見えない。


それでも、この扉が自分の過去と無関係ではないように思えた。


「無理に思い出そうとするな」


シラスが言った。


「でも、ここに何かあるなら……」


「だからこそ、慎重に調べる。お前が苦しんでまで思い出す必要はない」


鈴は彼を見上げた。


彼の声はいつもどおり、ぶっきらぼうだった。


けれど、そこには彼女を急かす響きがなかった。


「……ありがとう」


「また礼か」


「嫌だった?」


「いや。返事に困るだけだ」


「じゃあ、困ってて」


「ずいぶんと勝手になったな」


「シラスのせいだよ」


「俺は何もしていない」


「そういうところ!」


鈴が頬を膨らませる。


ダリウスは二人を一瞥し、ため息をついた。


「緊張感があるのかないのか、判断に困るな」


「お前が気にすることじゃない」


シラスは扉から離れ、事務室へ戻った。


「先に帳簿を調べる。鍵の仕組みがわからなくても、ここが何の施設だったのかはわかるかもしれない」


◇


事務室の机には、何冊もの帳簿が積まれていた。


大半は古い商取引の記録だった。武器の売買、金属部品の仕入れ、輸送費の精算。どれも、表向きは珍しくない内容だ。


だが、奥の棚から見つかった一冊だけは違った。


表紙に題名がなく、背表紙には番号だけが記されている。


シラスがページを開くと、日付と数字が整然と並んでいた。


「……これは商取引の帳簿じゃないな」


ダリウスが隣から覗き込む。


そこには、荷物の数量ではなく、記号と時刻、そして短い記述が記されていた。


『第一保管区、移送完了』


『第三保管区、接続確認』


『第五保管区、供給停止』


そして、何度も繰り返される言葉。


『原記録参照』


「保管区ごとに、何かを管理していたようだな」


シラスはページをめくった。


いくつかの項目には、赤い線が引かれている。


『第二保管区、記録欠落』


『第四保管区、再接続を禁止』


『第六保管区、応答なし』


最後のほうに進むにつれ、記述は短くなり、筆跡にも乱れが見え始めた。


そして、あるページでシラスの指が止まった。


『第七保管区――封鎖手順を再確認』


その下には、日付とともに短い文章が書かれていた。


『接続の残存を確認。原記録の持ち出しを禁止する』


さらに、その次の行。


『対象の覚醒を急ぐな』


部屋の空気が、急に重くなったように感じられた。


鈴がゆっくりと顔を上げる。


「……対象?」


誰もすぐには答えなかった。


シラスは記述を読み返した。


対象が誰なのか。


何を覚醒させようとしていたのか。


この帳簿だけでは、判断できない。


「鈴と関係があるかもしれないな」


ダリウスが言った。


シラスはすぐに彼を見た。


「可能性はある。だが、決めつけるな」


「決めつけてはいない。可能性を挙げただけだ」


「なら、今はその程度にしておけ」


シラスの声は低かった。


鈴は二人の会話を聞きながら、帳簿の文字を見つめていた。


対象の覚醒を急ぐな。


それは、以前ダリウスが見せた記録にあった言葉と似ている。


『眠れる魔女を、無理に目覚めさせるな』


偶然とは思えなかった。


けれど、なぜ自分がその対象と結びつくのかは、わからない。


「……私、何かを眠らせていたのかな」


鈴が呟いた。


その声には、恐怖が混じっていた。


「それとも、私自身が眠らされていたのかな……」


シラスは帳簿を閉じた。


「まだ、どちらとも言えない」


「でも……」


「わからないことを、悪いほうへ決めつけるな。お前が何者なのかは、これから調べればいい」


鈴は彼を見つめた。


「もし、私が危険な存在だったら?」


「危険かどうかは、力の大きさだけで決まるものじゃない」


シラスは静かに続けた。


「少なくとも、今のお前は自分の力を恐れている。誰かを傷つけたくないと思っている。それを無視して、帳簿の一行だけでお前を判断するつもりはない」


鈴の唇が、かすかに震えた。


何かを言おうとして、言葉にならなかった。


彼女は視線を落とし、両手を握りしめた。


「……うん」


小さな返事だった。


それでも、先ほどより少しだけ、声に力が戻っていた。


◇


帳簿を調べ続けるうちに、シラスは一つの奇妙な点に気づいた。


第七保管区の記録は、ある日を境に突然途切れている。


それ以前には、定期的な点検や移送の記録があった。


だが、最後の記述を境に、何も残されていない。


破り取られたページもある。


ただし、ページの端には、文字を書いた跡が薄く残っていた。


シラスは紙を斜めに傾け、窓から差し込む光にかざした。


「……何か書いてあったようだな」


ダリウスが近づく。


「読めるか?」


「難しい。だが、最後の部分は残っている」


シラスは目を細めた。


薄い筆跡を、ゆっくりと追う。


『……切り離しが完了しない場合、すべての記録を――』


その先は、破り取られていた。


「切り離し……」


鈴が呟いた。


その言葉を聞いた瞬間、頭の奥で、何かが鋭く弾けた。


白い部屋。


床に広がる魔法陣。


崩れ落ちる光。


誰かが、彼女の腕を掴んでいる。


『あなたは、ここに残ってはいけない』


知らない声だった。


けれど、悲しそうな響きがあった。


『お願い。あれを、あなたにつなげたままにしないで』


鈴は息を呑んだ。


「……っ!」


身体がぐらりと揺れた。


シラスがすぐに彼女の肩を支える。


「鈴!」


「だ、大丈夫……。今、声が……」


「どんな声だ?」


「わからない。でも、誰かが……私に、何かをつなげたままにしないでって……」


彼女は胸元を押さえた。


魔力が動き出す気配はなかった。


ただ、記憶の断片が彼女の心を揺さぶっていた。


「私、何かとつながっているの……?」


シラスは答えなかった。


答えられなかった。


彼自身、まだ何も知らないのだ。


それでも、彼女を不安の中に置き去りにするつもりはなかった。


「わからない。だが、少なくとも、この帳簿にはその手掛かりがある」


彼はページを閉じず、破り取られた部分を見つめた。


「ここに残っている情報を、できる限り集めよう。無理に記憶を引き出す必要はない」


鈴はゆっくり頷いた。


そのとき、部屋の外から足音が聞こえた。


三人とも、同時に顔を上げる。


足音は一つではない。


廊下を歩く音が、こちらへ近づいてくる。


ダリウスは剣を抜いた。


シラスも帳簿を閉じ、鈴を背後へ下がらせる。


「さっきの連中が戻ってきたのか?」


ダリウスが囁いた。


「足音だけでは判断できない」


シラスは扉の脇へ移動した。


足音が止まる。


短い沈黙。


そして、廊下の向こうから男の声が聞こえた。


「……そこにいるのは、誰だ」


三人は動かなかった。


声の主は、扉の向こうで立ち止まったままだ。


やがて、もう一度声がした。


「その帳簿を持っているなら、聞いてほしいことがある」


シラスは剣の柄を握り直した。


「先に名乗れ」


しばらく返事はなかった。


やがて男は、落ち着いた声で答えた。


「……この商会の元管理人だ」


ダリウスがシラスに目配せする。


信用するな。


そう言っているようだった。


シラスも同じ考えだった。


「証拠は?」


「証拠なら、そちらが持っている帳簿にある。第七保管区の記録を最後まで読んだのなら、次に何を探すべきかもわかるはずだ」


シラスは目を細めた。


「何を探せばいい?」


扉の向こうの男は、ためらうように息をついた。


「地下だ」


鈴の指先が冷たくなった。


「この商会の地下に、まだ記録が残っている。ただし……」


男の声が、わずかに低くなる。


「そこへ入るなら、決して中央の装置に触れてはいけない」


シラスは鈴を見た。


彼女もまた、彼を見返していた。


胸の奥で、あの言葉が繰り返されている。


接続を切って。


記録を切り離して。


そして、今度は別の声が、記憶の底から浮かび上がった。


『中央には、触れないで』


鈴は唇を結んだ。


ようやく見つけた手掛かり。


けれど、その先にあるものが何なのか、まだ誰にもわからない。


シラスは扉へ向き直った。


「……わかった。話を聞かせてもらおう」


そう答えた直後、廊下の奥で、重い金属が動く音が響いた。


地下へ続く何かが、ひとりでに動き始めたかのような音だった。


そして、壁の古い記号が、かすかに青く光った。

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