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退けない戦場

 ローヴェン商会の二階で、再び物音がした。


 今度は、はっきりと聞こえた。


 床を踏む音。


 何かを引きずるような音。


 そして、短い沈黙。


 シラスは扉から目を離さず、腰の剣に手を添えた。


「中に誰かいるな」


「そのようだ」


 ダリウスも剣の柄を握っていた。


「店主が残っている可能性は?」


「ある。だが、俺たちを警戒している可能性もある」


「どちらにしても、扉を壊すのは最後だ」


「珍しく意見が合ったな」


「喜ぶには早い」


 二人のやり取りを聞きながら、鈴は二階の窓を見上げていた。


 閉じられた布の隙間に、人影がある。


 その影は、こちらを見ているようだった。


 けれど、彼女が目を凝らした瞬間、影は窓から離れた。


「……逃げるつもりなのかな」


「わからない。だが、ここで騒ぎを起こせば、通りの人間まで巻き込むことになる」


 シラスは扉の脇にしゃがみ、鍵穴と蝶番を調べた。


 鍵は内側から掛かっているらしい。扉そのものに細工された形跡はない。


「正面から入るのは難しいな」


「裏口があるはずだ」


 ダリウスが商会の建物を見回した。


「古い商業区の建物は、荷物を運び込むために裏手へ通路を設けていることが多い」


「なら、そちらを調べよう」


 シラスは鈴を見た。


「お前は俺たちから離れるな」


「わかってる」


 返事はすぐだった。


 だが、彼女の手は胸元の銀飾りを握りしめていた。


 昨夜の暴走が、まだ心の奥に残っているのだろう。


 シラスは一瞬だけ迷い、それから声を落とした。


「無理に魔法を使う必要はない。危険を感じたら、まず逃げ道を探せ」


「……でも、何かできるかもしれないよ」


「何かできることと、今やるべきことは別だ」


 鈴は少し不満そうに頬を膨らませた。


「シラスは、私に何もさせたくないの?」


「違う。お前に無茶をさせたくないだけだ」


 その言葉に、鈴は口を閉じた。


 彼女はまだ、自分の力を信じ切れない。


 それでも、シラスが自分をただの荷物として扱っているわけではないことは、わかっていた。


「……わかった。まずは逃げ道を探す」


「そうしてくれ」


「でも、何かあったら助けるからね」


「状況を見て判断しろ」


「それ、助けるなって意味じゃないよね?」


「……好きに解釈しろ」


 鈴は小さく笑った。


 その笑顔を確かめると、シラスは建物の裏手へ向かった。


     ◇


 商会の裏側には、細い荷物搬入路が伸びていた。


 両側を古い倉庫に挟まれ、昼間でも日差しがほとんど届かない。


 積み上げられた木箱の隙間には、乾いた泥と新しい靴跡が残っていた。


 シラスはしゃがみ込み、地面を指先でなぞった。


「新しいな」


「どれくらい前のものだ?」


「少なくとも、雨で崩れていない。今朝か、昨夜だろう」


 彼は靴跡の向きを確かめた。


 商会の裏口へ向かう足跡が二組。


 そのうち一組は、途中で急に向きを変えている。


 まるで、誰かに気づいて引き返したかのようだった。


「二人以上が出入りしている可能性がある」


「店主と客か?」


「それならいいがな」


 シラスが立ち上がったとき、鈴が小さく声を上げた。


「ねえ、あそこ」


 彼女が指した先に、錆びた金属製の扉があった。


 扉の下には、細い隙間があり、その奥からかすかな光が漏れている。


 シラスが近づき、耳を澄ませた。


 中から聞こえるのは、低い話し声だった。


「……原記録は、まだ見つからないのか」


「棚は調べた。だが、保管場所が変わっている」


「急げ。あの娘が反応した以上、時間がない」


 三人の動きが止まった。


 鈴の顔から血の気が引いた。


 あの娘。


 自分のことだろうか。


 彼女は反射的に一歩下がった。


 シラスはすぐに彼女の前へ立った。


 声は聞こえなくなった。


 しばらくして、扉の向こうから別の声がした。


「外に誰かいる」


 次の瞬間、金属が激しく鳴った。


「下がれ!」


 シラスが叫んだ。


 扉が内側から蹴り開けられ、黒い服の男が飛び出してきた。


 手には短剣。


 狙いは、先頭にいたシラスの腹部だった。


 シラスは身体を半歩ずらし、相手の腕を剣の鞘で打った。短剣が逸れ、金属音を立てて壁に当たる。


 男はすぐに距離を取った。


「ちっ……!」


「話を聞かせてもらおうか」


 シラスが剣を抜く。


「断る!」


 男は懐から小さな金属片を取り出した。


 円と二本の交差する線。


 それを地面へ叩きつける。


 青白い光が、足元に走った。


「伏せろ!」


 シラスが鈴を引き寄せ、横へ飛んだ。


 次の瞬間、狭い通路の地面が震えた。


 石畳の隙間から細い光の線が伸び、壁に刻まれた古い溝へとつながっていく。


 魔法陣。


 だが、自然に発動したものではない。


 金属片を起点として、何かが起動したのだ。


「また、これ……!」


 鈴が息を呑んだ。


 光の線を見た途端、頭の奥に白い部屋が浮かんだ。


 磨かれた床。


 壁に刻まれた記号。


 そして、誰かの叫び。


『接続を切って! 今すぐに!』


 胸の奥で、何かが強く脈打った。


 鈴の指先が震える。


 力が集まり始めている。


 昨夜と同じ感覚だった。


「鈴!」


 シラスの声が飛んできた。


「こっちを見ろ!」


 鈴は顔を上げた。


 彼は敵から目を離していない。それでも、彼女の様子を確かめていた。


「息をしろ。ゆっくりだ」


「で、でも……魔法陣が……」


「見えている。だから、今は俺の声を聞け」


 鈴は唇を噛んだ。


 一度、息を吸う。


 そして、ゆっくり吐いた。


 胸の奥で膨らみかけた力が、ほんの少しだけ弱まる。


 完全に消えたわけではない。


 それでも、昨日のように周囲のものが浮き上がることはなかった。


「……できた」


「ああ。そのまま、俺の後ろにいろ」


 シラスは短く答え、男へ向き直った。


 しかし、相手はすでに通路の奥へ走り出していた。


「逃がすか!」


 ダリウスが追おうとした。


 その瞬間、建物の中から別の男が飛び出し、横合いから剣を振るった。


 ダリウスは剣を抜いて受け止める。


 鋭い金属音が、狭い通路に響いた。


「二人か……!」


 ダリウスが相手の剣を押し返す。


「シラス、そちらを頼む!」


「命令するな!」


「頼んでいるんだ!」


「なら、最初からそう言え!」


 言い合いながらも、シラスは逃げた男を追って走り出した。


     ◇


 通路の先は、商会の裏手にある小さな荷捌き場へ続いていた。


 男は木箱を蹴倒しながら走り、積み上げられた荷物の間を抜けていく。


 シラスは剣を構えたまま追った。


 相手は速い。


 だが、走り方に癖があった。


 右足を踏み込むとき、わずかに身体が外側へ流れる。


 長距離を走ることには慣れていても、狭い場所での方向転換は得意ではないらしい。


 シラスは追いつこうとせず、先回りできる通路を探した。


 左側に積まれた荷箱。


 右側には壁。


 正面には、荷車が一台置かれている。


 逃げ道は二つ。


 男は広い方を選ぶはずだ。


 シラスは荷車の陰へ回り込んだ。


 予想どおり、男が姿を現した。


「なっ……!」


 男が足を止めた瞬間、シラスは剣の柄でその手首を打った。


 男の短剣が落ちる。


 続けて足元を払う。


 男は地面に転がり、息を詰まらせた。


 シラスは剣先を向けた。


「もう逃げられない」


 男は荒い息を吐きながら、彼を睨みつけた。


「賞金首が……正義の味方気取りか」


「そんな趣味はない」


「なら、見逃せ」


「お前が俺たちを襲った理由を話せば、考えてやる」


 男は笑った。


「何も知らないくせに……」


「なら、教えてくれ」


「知ったところで、どうにもならない」


「それを決めるのは俺だ」


 男の笑みが消えた。


 シラスは剣先をわずかに下げたが、警戒は解かなかった。


「誰の命令だ?」


「……」


「さっき、原記録を探していると言っていたな。何の記録だ?」


 男の視線が揺れた。


 ほんの一瞬。


 だが、シラスは見逃さなかった。


「やはり、知っているんだな」


「知らない!」


「今、反応しただろ」


「うるさい!」


 男は腰の袋へ手を伸ばした。


 シラスはすぐに踏み込み、その手を押さえつけた。


 袋の中から小さな瓶が転がり出る。


 透明な液体が入っていた。


「毒か?」


「違う!」


「なら、何だ?」


 男は答えなかった。


 そのとき、遠くで木が砕ける音がした。


 続いて、ダリウスの怒声が響く。


 シラスが一瞬だけそちらを見た。


 その隙に、男は身体をひねり、シラスの手を振りほどいた。


「くそっ!」


 シラスは追おうとしたが、男は荷捌き場の奥にある狭い門を抜けていった。


 追跡は続けられる。


 だが、鈴を残していくわけにはいかなかった。


 シラスは舌打ちし、男が落とした金属片を拾い上げた。


 表面には、円と二本の交差する線。


 その端に、小さな傷が二つ刻まれていた。


 以前に見たものと同じ特徴だった。


「……やっぱり、つながっているのか」


 だが、何と何がつながっているのかは、まだわからない。


     ◇


 シラスが裏口へ戻ると、ダリウスは壁際に立っていた。


 灰色の外套の袖が裂け、頬に細い傷ができている。


 足元には、もう一人の男が倒れていた。


「そっちは逃がしたか」


「逃がしたというより、追跡を中断した」


「同じことだ」


「なら、お前の相手を引き受けるべきだったか?」


「それは遠慮する」


 ダリウスは倒れた男を見下ろした。


「こいつは何も話さない。名前も、雇い主も黙ったままだ」


「こちらも似たようなものだ」


 シラスは拾った金属片を見せた。


 ダリウスの表情がわずかに変わった。


「二つの傷……」


「知っているのか?」


「いや。だが、以前見せた記録にあった印とよく似ている」


「以前の記録?」


「俺が持っていた紙に描かれていたものだ。施設に関する資料の端に、同じ印があった」


 シラスは金属片を掌で転がした。


「これを持っていた男は、原記録を探していた。店の中にも、まだ何かあるはずだ」


「そうだろうな。問題は、こいつらが先に見つけようとしている理由だ」


 そのとき、鈴が二人のもとへ歩いてきた。


 顔色はまだ少し悪い。


 それでも、足取りはしっかりしていた。


「……ごめんなさい。私、何もできなかった」


 シラスは彼女を見た。


「何を言っている?」


「魔法陣が動いたとき、怖くなって……。止められなかった」


「お前は暴走しなかった。それだけで十分だ」


「でも、シラスたちは戦っていたのに」


「戦うのが俺の役目だっただけだ」


 鈴は何か言いかけて、口を閉じた。


 彼女は、シラスの言葉を素直に受け取ろうとした。


 けれど、胸の奥にはまだ、役に立ちたいという思いが残っていた。


 自分の力を恐れるだけで終わりたくない。


 彼の隣に立てるようになりたい。


 そのために何をすべきなのか、まだわからない。


「……次は、ちゃんと助けられるようになりたい」


 鈴が呟いた。


 シラスはしばらく彼女を見つめた。


「なら、まずは自分を守れるようになれ」


「それだけ?」


「それができなければ、誰かを助ける余裕もなくなる」


 鈴は静かに頷いた。


「……うん。わかった」


 ダリウスが二人を見比べた。


「話を続けたいところだが、ここに長居するのは危険だ。衛兵が来る前に、場所を変えよう」


「賛成だ。だが、その前に店の中を調べる」


「まだ入るつもりか?」


「連中が原記録を探していた。ここに手掛かりがある可能性は高い」


「罠かもしれないぞ」


「だからといって、何も見ずに帰るわけにはいかない」


 シラスは商会の裏口を見た。


 扉は開いたままだった。


 その向こうには、暗い廊下が続いている。


 罠の可能性はある。


 敵が戻ってくる可能性もある。


 それでも、ここで引けば、彼らが何を探していたのか知る機会を失うかもしれない。


 シラスは剣を握り直した。


「行くぞ」


 鈴は一度だけ深呼吸をした。


 そして、今度は自分から彼の隣に並んだ。


「私も行く」


「無理はするな」


「うん。でも、逃げ道を探すことならできるから」


 シラスは彼女を見て、小さく頷いた。


「頼りにしている」


 鈴は目を丸くした。


 思いがけない言葉だった。


 ほんの短い一言なのに、胸の奥にあった不安が少しだけ和らいだ。


「……任せて」


 彼女は小さく笑った。


 三人は開いた裏口から、ローヴェン商会の中へ入っていった。


 暗い廊下の先には、倒れた棚と散らばった書類が見えた。


 壁には、古い金属板が取り付けられている。


 そこに刻まれていたのは、見覚えのある記号だった。


 円と二本の交差する線。


 その下に、薄れかけた文字が残されている。


『接続先――第七保管区』


 シラスは足を止めた。


 鈴の胸元で、銀飾りが小さく鳴った。


 彼女の脳裏に、またあの白い部屋が浮かぶ。


 そして、聞き取れなかった言葉の続きが、ほんの一瞬だけ形になった。


『第七保管区を閉鎖し、原記録を……』


 その先は、思い出せなかった。


 だが、今度は確かだった。


 彼女は、そこに何があったのかを知っている。


 ただ、その記憶へたどり着くための言葉が、まだ失われたままなのだ。

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