失われた言葉
朝になっても、鈴の顔色は完全には戻っていなかった。
宿の一室。窓から差し込む光の中で、彼女はベッドの端に腰掛け、両手をじっと見つめていた。
昨夜、自分の魔力が暴走したことは覚えている。
石畳が砕け、荷箱が宙を舞い、周囲の空気が青白く染まったことも。
そして、その力を止めようとしてくれたシラスのことも。
「……シラス」
「なんだ」
窓際で剣の手入れをしていたシラスが、顔を上げた。
「昨日、私……誰かを傷つけた?」
「少なくとも、俺が確認した範囲では、誰かが倒れている様子はなかった」
「でも、建物とか、石とか……壊しちゃった」
「そうだな」
シラスは否定しなかった。
鈴は小さく肩を落とす。
「私、また制御できなかったんだね」
「そうだ」
「……もうちょっと、優しい言い方はないの?」
「嘘をついて安心させるよりはいいだろ」
「それは……そうだけど」
鈴は唇を尖らせた。
シラスは剣を鞘に収め、彼女の向かいに腰を下ろした。
「ただし、ひとつ訂正しておく」
「なに?」
「お前は途中で俺の声に反応した。完全に意識を失っていたわけじゃない。最後には自分で力を止めた」
「……本当に?」
「ああ。だから、昨日のことを全部失敗だったと決めつけるな」
鈴は顔を上げた。
その青い瞳には、まだ不安が残っている。
「でも、また同じことになったら?」
「そのときは、また止める方法を考える」
「簡単に言うね」
「難しく考えたところで、魔力が勝手に言うことを聞くようになるわけじゃない」
「……シラスって、励ましてるのか、突き放してるのか、時々わからなくなる」
「俺にもわからん」
「自分でもわからないんだ……」
鈴は思わず笑った。
ほんのわずかだったが、昨日から初めて見せた自然な笑顔だった。
それを確認してから、シラスは本題に入った。
「昨日、お前が口にした言葉を覚えているか?」
「言葉?」
「『開けちゃ、だめ』。それから、何かを守らなきゃいけないと言っていた」
鈴の笑顔が消えた。
彼女は眉間に指を当て、記憶の奥を探る。
「……うん。少しだけ」
「無理に思い出そうとするな。浮かんできたものだけでいい」
鈴は目を閉じた。
白い部屋。
磨かれた床。
壁に刻まれた、円と二本の交差する線。
そして、誰かの声。
『記録を運んで……ここには、残すな』
「……記録」
鈴が呟いた。
「何か思い出したのか?」
「前にも聞いた言葉。記録を運んで、ここには残すなって……誰かが言ってた」
「誰が?」
「わからない。男の人だったかもしれないし、女の人だったかもしれない。声だけだと、はっきりしないの」
彼女は目を開けた。
「でも、そのあとに別の声が聞こえた気がする」
「なんと言っていた?」
鈴はしばらく考えた。
喉の奥に何かが引っかかっているような、奇妙な感覚があった。
「……接続を、切って」
シラスの目が細くなる。
「接続?」
「うん。たぶん、そう言ってた。『接続を切って、供給を止めて』……そんな感じ」
シラスは懐から手帳を取り出し、言葉を書き留めた。
以前、崩れた建物で見つけた石板には、『魔力供給』『接続』『停止』という文字が残っていた。
鈴の記憶と一致している。
偶然と片づけるには、少しずつ共通点が増えすぎていた。
「鈴」
「なに?」
「お前が見た白い部屋は、昨日の建物と同じ場所だったと思うか?」
鈴は首を横に振った。
「わからない。でも……昨日の場所は、もっと古くて、壊れていた。私が覚えている部屋は、壊れていなかった気がする」
「つまり、記憶の中の施設は、少なくとも今見つかっている廃墟よりは、まともな状態だった可能性がある」
「そんな昔のことなのかな……」
「それを確かめるために、俺たちは記録を探している」
シラスは手帳を閉じた。
「まずはローヴェン商会だ。あそこなら、古い金属片について何か知っているかもしれない」
鈴は頷きかけて、ふと視線を落とした。
「……ねえ、シラス」
「今度はなんだ」
「もし、私が思い出したことが……よくないことだったら?」
シラスはすぐには答えなかった。
彼女が恐れているのは、記憶そのものだけではないのだろう。
自分が何者なのか。
どうしてあれほどの魔力を持っているのか。
そして、知らないうちに誰かを傷つけてしまう存在なのではないか。
その答えが、彼女自身を否定するものだったら。
「思い出した内容と、今のお前が何をするかは別の話だ」
シラスは静かに言った。
「過去に何があったとしても、それだけで今のお前が決まるわけじゃない」
「……シラスは、そう思う?」
「少なくとも、俺はそう考えている」
鈴は彼の顔を見つめた。
それから、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「……ありがとう」
「礼を言われるほどのことじゃない」
「そういうところだよ」
「何がだ」
「せっかくお礼を言ったのに、すぐ台無しにするところ」
「なら、次から礼を言わなくていい」
「それは嫌」
「面倒なやつだな」
「シラスほどじゃないもん」
いつもの調子が、少しだけ戻ってきた。
だが、シラスは気づいていた。
鈴が笑っていても、時折、自分の指先を確かめるように見つめていることに。
昨夜の恐怖は、まだ消えていない。
言葉を交わしただけで解決するほど、簡単なものではなかった。
それでも、今は前へ進むしかない。
◇
昼前、二人は宿を出た。
グラヴェスの通りは、朝から多くの人々で賑わっていた。武器を背負った傭兵、荷車を引く商人、露店で値段を交渉する客。
昨日の騒ぎについて噂が広がっているのか、すれ違う人々の視線が、ときおりシラスの顔に留まる。
「……見られてるね」
「賞金首だからな」
「昨日のことも関係あるのかな?」
「それもあるだろう。目立つことを二日続ければ、嫌でも覚えられる」
「じゃあ、今日は目立たないようにしよう」
「賛成だ」
そう答えた直後、シラスは通りの向こうにある武器屋の前で、昨日の大柄な賞金稼ぎが腕を組んで立っているのを見つけた。
男もこちらに気づいた。
互いの視線が交差する。
男は何か言いたそうに口を開いたが、周囲に人が多いことを気にしたのか、結局何も言わなかった。
シラスは歩調を変えずに通り過ぎた。
「……決闘、どうするの?」
「向こうがまだやる気なら、考える」
「それ、昨日も聞いた気がする」
「昨日と状況は変わっていない」
「つまり、何も決まってないんだね」
「理解が早くて助かる」
鈴は呆れたように息をついた。
そのとき、通りの反対側から、灰色の外套を着た男が歩いてきた。
短く整えられた暗い髪。
鋭い灰色の目。
腰には細身の剣が下がっている。
ダリウス・ヴェインだった。
「昨日の忠告は、少しは役に立ったか?」
「役に立ったかどうかを判断するには、まだ早い」
シラスが答えると、ダリウスは口元をわずかに動かした。
「相変わらず愛想がないな」
「お互い様だろ」
ダリウスは鈴に視線を移した。
「体調は?」
「……大丈夫です」
鈴は一瞬だけ迷ってから答えた。
完全に大丈夫というわけではない。
それでも、昨日の出来事を初対面に近い相手へ話す気にはなれなかった。
ダリウスはそれ以上追及しなかった。
「ならいい。ひとつ、情報が入った」
「何の情報だ?」
「ローヴェン商会のことだ。昨日、あの店に古い金属片を持ち込もうとした人間がいたらしい」
シラスの表情が変わる。
「昨日のアーモリーが話していた男か?」
「同一人物かどうかは、まだ確認できていない。ただ、持ち込もうとした品には、円と交差する二本の線が刻まれていたそうだ」
鈴の足が止まった。
ダリウスはその反応を見逃さなかったが、何も言わずに話を続けた。
「店主は品を見たあと、すぐには預からなかったらしい。鑑定に時間が必要だと言って、持ち主を帰した。その後、店は臨時休業になった」
「……店主が逃げた可能性は?」
「ある。だが、何かを調べている可能性もある。どちらにせよ、行ってみる価値はあるだろう」
シラスは短く頷いた。
「案内できるか?」
「道なら知っている。だが、ひとつ条件がある」
「言ってみろ」
「俺が同行しても、何もかも信用したふりをするな。こちらも、お前たちの事情をすべて知っているわけではない」
「最初からそのつもりだ」
「話が早くて助かる」
ダリウスは歩き始めた。
鈴はシラスの袖をそっと引いた。
「……一緒に行っても、大丈夫かな?」
「大丈夫だと判断できるほど、あいつのことを知らない」
「それ、答えになってないよ」
「だが、今のところ敵だと断定する材料もない」
シラスは声を落とした。
「目の届くところに置いておく。それが一番確実だ」
「……シラスって、やっぱり用心深いね」
「生き残るためには必要だ」
「じゃあ、私も気をつける」
「ああ。何かあったら、すぐに知らせろ」
鈴は力強く頷いた。
昨日の自分の力を思い出せば、まだ怖い。
けれど、怖いからといって、何もせずに後ろにいるだけではいたくなかった。
シラスを守るために何ができるのか。
自分の中にあるものが何なのか。
その答えを知るためにも、進まなければならない。
◇
ローヴェン商会は、グラヴェスの北側にある古い商業区に建っていた。
通りに面した看板には、擦れた文字で商会の名が刻まれている。窓には厚い布が下ろされ、入口には「臨時休業」と書かれた札が掛かっていた。
「閉まっているな」
シラスが呟いた。
「見ればわかる」
ダリウスが答える。
「確認のために言っただけだ」
「なら、もっと有益な確認をしてくれ」
「例えば?」
「扉が開くかどうか、試してみるとか」
「それは確認じゃなくて、器物損壊の予告だろ」
鈴が二人を交互に見た。
「……二人とも、意外と仲がいいの?」
「よくない」
シラスとダリウスの声が、きれいに重なった。
鈴は思わず吹き出した。
ほんの短い笑い声だったが、シラスは彼女の肩から力が抜けたことに気づいた。
それだけで、ここまで来た意味はあったのかもしれない。
ダリウスが扉の脇を調べ始めた。
鍵穴に傷はない。窓にも割られた形跡は見当たらない。
ただ、扉の下に、細い紙片が挟まっていた。
ダリウスがそれを引き抜く。
紙には、短い一文だけが記されていた。
『原記録を持ち出すな。接続が残っている』
シラスの表情が険しくなった。
「……原記録」
それは、以前に見つけた資料にも書かれていた言葉だった。
十二個の箱が受け入れられ、そのうち十個だけが別の場所へ移された記録。
残る二個の行方は、わからない。
そして、その記録の末尾にも――。
原記録参照。
「接続が残っている、か」
ダリウスが紙を裏返した。
裏面には何も書かれていない。
「誰に向けた警告だと思う?」
「店主か、品を持ち込んだ人間か。あるいは、俺たちに読ませるためか」
シラスは周囲を見回した。
古い商業区の通りには人影がまばらで、少し離れた角を荷車が通り過ぎていく。
目立った動きはない。
だが、何もないことと、安全であることは同じではなかった。
鈴は紙片を見つめていた。
その文字を見た瞬間、胸の奥で何かがかすかに揺れた。
接続。
供給。
停止。
それらの言葉が、頭の中でひとつにつながっていく。
そして、もうひとつ。
思い出せないはずの言葉が、唇の裏まで浮かび上がった。
「……切り離して」
小さな声だった。
シラスが振り向く。
「鈴?」
彼女は目を見開いた。
「今……誰かが、そう言った気がする」
「誰が?」
「わからない。でも……『記録を残すな』じゃなくて、『記録を切り離して』って……」
鈴は額を押さえた。
頭痛はなかった。
代わりに、胸の奥に奇妙な空白が広がっていた。
まるで、何か大切な言葉を知っていたのに、それだけを抜き取られてしまったような感覚。
シラスは彼女の肩に手を置いた。
「無理に追うな。今はそれだけで十分だ」
「……うん」
鈴は深呼吸をして、ゆっくり頷いた。
そのとき、商会の二階から、かすかな物音が聞こえた。
三人は同時に顔を上げた。
窓の向こうで、布が一瞬だけ揺れた。
誰かがいる。
ダリウスは剣の柄に手をかけ、シラスは鈴を自分の背後へ移動させた。
「店主か?」
ダリウスが低く尋ねる。
「わからない」
シラスは扉から目を離さずに答えた。
「だが、留守だと思って帰るのは、まだ早そうだ」
二階の窓は、再び静かになった。
そこに誰がいたのか。
警告を書いたのは誰なのか。
そして、切り離すべきものとは何なのか。
答えはまだ、扉の向こうに隠されていた。
鈴は無意識に胸元の銀飾りを握りしめた。
小さな鈴が、かすかに鳴った。
その音を聞いた瞬間、彼女の脳裏に、白い部屋の光景が一瞬だけ蘇った。
誰かが振り返る。
白い衣服が揺れる。
そして、聞き取れなかった最後の一言。
『……それを、切り離せば――』
そこで記憶は途切れた。
鈴は目を閉じ、胸元の飾りを強く握った。
まだ、思い出せない。
けれど、失われた言葉は、確かにそこにあった。




