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鈴の暴走

グラヴェスの北側で古い建物が崩れたという知らせは、昼を迎える前に街中へ広がっていた。


老朽化した倉庫の倒壊。


原因不明の振動。


巻き込まれた者はいなかったらしい。


街の人々はそんな噂を交わしながら、いつもの暮らしへ戻っていった。


だが、シラス・ナハトは、その説明を信じていなかった。


「……あれをただの倒壊で片づけるつもりか」


裏市場から離れた路地で、彼は建物の屋根越しに北側を眺めていた。


「でも、誰も魔法陣のことは知らないんだよね?」


鈴が隣で尋ねる。


「ああ。あの場所に何があったのか、俺たち以外の人間が知っているかどうかもわからない」


「さっきの人たちが調べに来たら?」


「その前に、俺たちがここを離れる」


シラスはそう言って歩き出した。


本来なら、今頃はローヴェン商会に到着しているはずだった。


しかし、古い魔法陣の暴走によって予定は完全に狂ってしまった。崩れた建物の中には、紋章の刻まれた小さな金属箱も残されている。


回収したかったが、あの状態では近づくことすら危険だった。


「……今日は、予定どおりにいかない日だな」


「昨日もそうだったよ」


「一昨日もだ」


「その前もじゃない?」


「お前、よく覚えているな」


「シラスが毎回同じことを言うからだよ!」


鈴は頬を膨らませた。


その表情を見て、シラスはほんのわずかに口元を緩めた。


だが、笑みはすぐに消えた。


鈴の歩調が、急に乱れたからだ。


「……鈴?」


「え……?」


彼女は足を止め、自分の胸元を押さえた。


「何か……変なの」


シラスはすぐに彼女のそばへ戻った。


「どこが痛む?」


「痛いというより……熱い。胸の奥が、急に熱くなって……」


鈴の呼吸が浅くなる。


シラスは周囲を見回した。


魔法陣のあった建物からは、すでにかなり離れている。少なくとも、先ほどのような青白い光は見えない。


それでも、鈴の異変は明らかだった。


「歩けるか?」


「うん……大丈夫」


そう答えた直後、鈴の膝が崩れた。


「鈴!」


シラスは彼女の身体を支えた。


その瞬間、鈴の周囲で空気が揺れた。


風が吹いたわけではない。


だが、路地に落ちていた紙片が浮き上がり、壁際の砂埃が渦を巻いた。


鈴の白い髪が、見えない風に揺れる。


「……っ、やだ……止まって……!」


彼女は両手を握りしめた。


すると、指先から青白い光が漏れ始めた。


「シラス、私……!」


「落ち着け。俺を見ろ、鈴!」


シラスは彼女の肩を支え、目を合わせようとした。


だが、鈴の瞳は彼を見ていなかった。


その青い瞳の奥に、別の光景が映っているようだった。


「……開けちゃ、だめ……」


鈴が呟いた。


「何だ?」


「開けたら……駄目なの……!」


声が震える。


次の瞬間、路地全体が青白い光に包まれた。


壁に刻まれた古い傷が浮かび上がり、地面の石畳に細い光の筋が走る。


シラスは反射的に鈴を抱き寄せ、彼女を壁際へ移動させた。


「鈴、聞こえるか!」


「やめて……お願い……!」


彼女の声に呼応するように、空気が激しく震えた。


近くに積まれていた木箱が跳ね上がり、路地の奥へ吹き飛ぶ。


石畳の一部が持ち上がり、乾いた破裂音が響いた。


シラスは腕で顔をかばった。


魔力の放出が続けば、周囲の建物まで巻き込まれる。


鈴自身も無事では済まないかもしれない。


「くそっ……!」


シラスは彼女の肩を強く揺さぶった。


「鈴! ここは白い部屋じゃない。俺たちはグラヴェスにいる! 聞こえるか!」


鈴の呼吸が乱れたまま、指先から光があふれ続ける。


「……違う……私は……」


「鈴!」


シラスは彼女の名前を呼んだ。


何度も。


何度も。


やがて、鈴の瞳がかすかに揺れた。


「……シ、ラス……?」


「そうだ。俺だ。ここを見ろ!」


彼女の視線が、ようやくシラスの顔を捉えた。


その瞬間、青白い光が大きく膨れ上がった。


「危ない!」


シラスは鈴をかばい、地面へ身を伏せた。


轟音。


衝撃。


壁に立てかけられていた板が吹き飛び、路地の入口にあった木製の看板が真っ二つに折れた。


そして――


すべてが、止まった。


空気の震えが消える。


浮かび上がっていた紙片が地面へ落ち、青白い光も一つずつ消えていった。


静寂が戻った。


シラスはしばらく動かなかった。


鈴の身体を支えたまま、呼吸と意識を確かめる。


「……鈴。聞こえるか?」


返事はない。


「おい、鈴!」


彼女のまぶたが、ゆっくりと動いた。


「……うるさいよ、シラス……」


かすれた声だった。


シラスは大きく息を吐いた。


「……そうか。文句が言えるなら、ひとまず大丈夫だな」


「文句じゃないもん……」


鈴は弱々しく言い返した。


しかし、その顔色は悪い。額には汗が浮かび、身体から力が抜けている。


シラスは彼女を抱き起こした。


「立てるか?」


「……ちょっと、無理かも」


「わかった」


彼は迷わず鈴を背負った。


「えっ……シラス?」


「暴れるな。落としたくない」


「暴れてないよ……!」


「なら、静かにしていろ」


鈴は何か言い返そうとしたが、結局、彼の背中に額を預けた。


シラスは周囲を確認した。


路地には、さっきの魔力の痕跡が残っている。


壁の一部には亀裂が走り、地面には黒く焦げたような跡があった。


魔法陣のあった建物から離れているにもかかわらず、鈴の力は再び暴走した。


あの場所で見た記憶が原因なのか。


崩れた魔法陣が何かを刺激したのか。


あるいは、別の理由があるのか。


今は何もわからない。


ただ一つ、確かなことがある。


鈴の力は、本人の意思だけでは制御できない。


そして、暴走したときには周囲を巻き込むほどの危険がある。


「……シラス」


背中から、小さな声がした。


「何だ?」


「私……また、何か壊しちゃった?」


シラスは、少しだけ足を止めた。


「……ああ。看板が一本、犠牲になった」


「そうじゃなくて……」


「人は巻き込んでいない。今のところ、怪我人も見当たらない」


鈴は黙り込んだ。


しばらくして、震える声で呟いた。


「……よかった」


その一言に、シラスは何も返せなかった。


彼女が何よりも恐れていたのは、自分の力で誰かを傷つけることだった。


今回、周囲の物を壊したのは事実だ。


だが、人を傷つけなかったからといって、次もそうなるとは限らない。


それでも、彼女に責任を押しつけるつもりはなかった。


原因がわからない以上、必要なのは責めることではなく、次に同じことが起きたときの対策を考えることだ。


「鈴」


「……うん」


「今日のことは、覚えている範囲でいい。あとで話してくれ」


「……怒らないの?」


「何に対してだ?」


「私、また力を制御できなかった……」


シラスは歩きながら答えた。


「制御できないものを、制御できなかったからといって責めても仕方がない」


「でも……」


「次に同じことが起きたら、どうすれば被害を減らせるか考える。それだけだ」


鈴は彼の背中に顔を寄せた。


「……シラスは、怖くないの?」


「怖いさ」


その答えに、鈴が顔を上げた気配がした。


「え……?」


「何が起きるかわからない。お前が苦しむのも、周りの人間が巻き込まれるのも避けたい。だから、怖い」


シラスは少しだけ声を落とした。


「だが、怖いからといって、お前を置いていく理由にはならない」


鈴は何も言わなかった。


ただ、彼の外套を握る手に、少しだけ力がこもった。


二人が宿屋へ戻ると、主人は鈴の顔色を見るなり、慌てて部屋へ案内した。


シラスは彼女を寝台へ横たえ、水を飲ませた。


その後、主人に余計な質問をされないよう、旅の途中で体調を崩したとだけ説明した。


部屋に二人きりになると、鈴はゆっくりと目を開けた。


「……シラス」


「何だ」


「私、さっき……何かを見た気がする」


シラスは椅子を寝台のそばへ移した。


「話せるか?」


「うん。でも、全部は覚えてない」


鈴は額に手を当てた。


「白い部屋が見えたの。前に見たのと同じ……。床に、あの魔法陣があって……」


「それから?」


「誰かが、何かを開けようとしていた。私は……止めようとしてた気がする」


「誰を止めようとしていた?」


「わからない。でも、すごく怖かった。開けたら、何かが起きるって……そう思ったの」


シラスは黙って聞いていた。


「それから、誰かが私に言ったの」


鈴の声が小さくなる。


「『力を使ってはいけない』って……」


彼女は目を閉じた。


「でも、私は……使わなきゃいけないって思った気もする。何かを守るために……」


シラスは眉を寄せた。


記憶の中で、彼女は魔法を使うなと告げられたのか。


それとも、何かを守るために力を使う必要があったのか。


二つの言葉は矛盾しているように見える。


だが、両方とも同じ状況で語られたとは限らない。


「……無理に思い出そうとするな」


シラスは静かに言った。


「今は休め。続きは、頭が痛くなくなってからでいい」


鈴は小さく頷いた。


「……うん」


彼女は目を閉じたが、すぐには眠らなかった。


しばらくして、ぽつりと呟く。


「ねえ、シラス」


「今度は何だ?」


「もし、私が本当に危険な魔女だったら……」


「その話は、もうしただろう」


「……うん。でも、やっぱり怖い」


シラスは彼女の顔を見つめた。


「なら、怖いままでいい」


「え……?」


「怖くなくなるまで待つ必要はない。怖いと思いながらでも、できることはある」


鈴はゆっくりと目を開けた。


「……できること?」


「自分の状態を知ること。何が起きたのか記録すること。危険な場所に近づくときは、俺に相談すること。まずはそこからだ」


「……わかった」


「それと、無理をしない」


「うん」


「本当に?」


「もう! わかってるってば!」


鈴が少しだけ声を張り上げた。


その直後、彼女は疲れたように寝台へ沈み込んだ。


シラスはため息をついた。


「……元気が戻るのが早いな」


「誰のせいだと思ってるの……」


「俺は何もしていない」


「そういうところだよ……」


鈴は目を閉じた。


やがて、呼吸がゆっくりと落ち着いていく。


シラスは彼女が眠ったのを確認してから、机へ向かった。


紙と筆を取り出し、今日の出来事を書き留める。


発生時刻。


場所。


直前の鈴の状態。


魔力反応の特徴。


周囲への影響。


そして、彼女が思い出した言葉。


『力を使ってはいけない』


『何かを守るために』


記録を終えると、シラスは筆を置いた。


原因はわからない。


だが、記録を残せば、次に同じ現象が起きたとき、何か違いを見つけられるかもしれない。


彼は窓の外を見た。


グラヴェスの街には、夕方の灯りがともり始めていた。


その明かりの向こう、古い倉庫街の屋根の上に、一つの影が立っている。


黒い外套の男だった。


男は宿屋の窓を見上げ、手元の金属片を確かめた。


円と二本の交差する線。


その端に刻まれた二つの切れ込み。


「……制御が崩れ始めている」


男は低く呟いた。


「このままでは、次に何が起きるかわからない」


男は懐から、折り畳まれた古い紙片を取り出した。


そこには、かすれた文字で一文が記されていた。


『封印の破損を確認した場合、対象から距離を取り、魔力の再活性化を防ぐこと』


男は紙片を見つめたあと、ゆっくりと折り畳んだ。


「……もう、時間がないな」


そして、誰にも気づかれることなく、夜の街へ消えていった。

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