崩れた魔法陣
ローヴェン商会へ向かう道の途中で、シラス・ナハトは足を止めた。
「……妙だな」
「どうしたの、シラス?」
隣を歩いていた鈴が、彼の視線を追う。
北側の倉庫街。その一角に、古い石造りの建物があった。周囲の倉庫と比べても特別に大きいわけではない。壁には蔦が這い、窓の一部は板で塞がれている。
だが、入口の前に積もった埃には、最近誰かが出入りした跡が残っていた。
「人が入った形跡がある」
「商人さんの倉庫じゃないの?」
「商人が使っているなら、もっと荷物の出入りがあるはずだ。あの足跡は少ない。それに……」
シラスは建物の扉を見つめた。
蝶番の周辺に、新しい傷がある。
鍵を壊そうとした跡ではない。むしろ、何度も慎重に開閉したような擦り傷だった。
「誰かが、ここを調べている」
「昨日の人たち?」
「可能性はある。だが、決めつけるのは早い」
鈴は少し考え、それから建物の壁際を指さした。
「ねえ、あそこ。地面が光ってない?」
シラスは彼女の指先を追った。
壁の根元。雑草に覆われた石畳の隙間に、青白い光がかすかに滲んでいる。
普通の魔石が放つ光とは違った。
明滅するたびに、地面の上に細い線が浮かび上がる。円弧のような形をしていたが、途中で途切れ、別の線と不自然に重なっていた。
シラスは周囲を確認してから、慎重に近づいた。
「触るなよ」
「わかってる」
鈴は素直に返事をした。
その声に、いつものような反発がなかった。
彼女も、この光が普通ではないと感じているのだろう。
シラスはしゃがみ込み、地面を観察した。
石畳の表面には、細い溝が刻まれていた。土や埃に覆われているが、溝の奥に青白い光が残っている。
円形の線。その内側に伸びる複数の線。
魔法陣に見えなくもない。
だが、線はところどころで欠けていた。円は閉じておらず、交差する線の一部は、本来つながるはずの場所からずれている。
「……崩れているな」
「魔法陣なの?」
「そう見える。ただ、これが何のためのものかはわからない」
鈴は、少し離れた場所から線を見つめた。
「この模様……」
「何か思い出したか?」
「ううん。はっきりとは。でも、前に見た白い部屋にも、こんな線があった気がする」
シラスは顔を上げた。
「紋章か?」
「紋章というより、床に描かれていた模様。壁の模様とは少し違うけど……似ているところがあるの」
彼は再び地面を見た。
確かに、円の内側にある線の配置は、金属箱に刻まれた紋章と似た部分がある。
しかし、同じものだと断言するには違いが多すぎた。
「鈴。ここから見える範囲で、ほかに気になるものはあるか?」
彼女は周囲を見回した。
「……あそこ」
建物の裏手へ続く通路。その壁に、半分ほど崩れた石板が立てかけられていた。
シラスは立ち上がり、石板へ近づいた。
表面には、文字らしい刻印が残っている。大半は削れていたが、いくつかの単語は読み取れた。
「……魔力供給……接続……停止?」
シラスは眉を寄せた。
古い記録に使われていた言葉なのだろう。だが、文面が途中で途切れているため、意味を正確に理解することはできない。
石板の下には、細長い金属片が落ちていた。
円と二本の交差する線。
例の紋章だ。
ただし、今回は線の端に、小さな切れ込みが二つ刻まれている。
シラスはそれを拾い上げず、まず周囲を確かめた。
「誰かが、ここに何かを運び込んだらしいな」
「魔法の道具?」
「その可能性はある」
鈴は少し身を乗り出した。
「ねえ、これって、私の記憶と関係あるのかな?」
「まだわからない。だが、調べる価値はある」
シラスが金属片を布で包もうとした、そのときだった。
建物の内部から、かすかな音が聞こえた。
コツン。
何かが石に当たるような音。
二人は同時に顔を上げた。
「……誰かいる」
鈴が囁く。
シラスは剣の柄に手を添えた。
「俺の後ろにいろ」
彼は扉へ近づいた。
鍵は掛かっていない。
指先で押すと、扉は嫌な音を立てながら、ゆっくりと開いた。
内部は暗かった。
窓から差し込む光が、埃の舞う床を照らしている。壁際には古い棚が並び、壊れた木箱や、用途のわからない金属部品が散乱していた。
そして、床の中央には、青白い線が広がっていた。
外にあったものより、はるかに大きい。
円形の魔法陣だった。
ただし、その半分以上は崩れていた。
線は途中で途切れ、石床には亀裂が走っている。円の中央には、何かを固定していたらしい金属製の台座があったが、今は空になっていた。
シラスは足を止めた。
「……これは」
鈴は、息を呑んだまま動かなかった。
床に刻まれた円。
その内側に、何重にも重なる線。
壁に並ぶ記号。
そして、部屋の奥にある白い石板。
彼女の脳裏に、断片的な光景が浮かんだ。
白い壁。
冷たい床。
誰かの背中。
『まだ、開けてはならない』
「……っ」
鈴はこめかみを押さえた。
「鈴!」
シラスがすぐに振り返る。
「大丈夫か?」
「うん……でも、ここ……」
彼女は震える指で、床の魔法陣を指した。
「見たことがある気がする」
シラスは鈴の肩を支えた。
「無理に思い出そうとするな。ここを出るか?」
鈴は首を横に振った。
「もう少しだけ……見たい」
「頭痛が強くなったら、すぐに言え」
「うん」
二人は魔法陣の外周に沿って、ゆっくりと移動した。
シラスは足元を注意深く確認する。青白い光は弱まっているが、完全には消えていない。
線の一部は、床の亀裂に沿って断ち切られていた。
まるで、何か大きな力が内側から外へ向かって働き、魔法陣そのものを破壊したかのようだった。
だが、崩れた原因が魔力なのか、物理的な破壊なのかはわからない。
「シラス、あれ……」
鈴が部屋の奥を指さした。
白い石板の下に、小さな金属製の箱が置かれている。
シラスは周囲を確認してから近づいた。
箱には鍵穴がなく、表面には古い刻印があった。
円と二本の交差する線。
その横に、小さな切れ込みが二つ。
先ほど拾った金属片と同じ特徴だった。
シラスは手を伸ばしかけたが、すぐに止めた。
「……待て」
「どうしたの?」
「箱の周りを見ろ」
鈴は目を凝らした。
箱の周囲には、細い溝が円を描くように刻まれている。溝の一部は、床の魔法陣につながっていた。
「箱が、魔法陣につながってる……?」
「そう見えるな。下手に動かさないほうがいい」
シラスは箱に触れず、刻印を観察した。
そのとき、床の青白い光が一瞬だけ強くなった。
パチッ。
小さな音がした。
鈴の身体がびくりと震える。
「今の、何?」
「わからない。下がれ」
シラスは彼女を後ろへ下がらせた。
光は再び弱まり、やがて元の明るさに戻った。
しかし、床の奥から低い振動が伝わってきた。
ゴゴ……。
建物全体が、かすかに揺れている。
シラスはすぐに出口を確認した。
「鈴、外へ出るぞ」
「でも、箱が……」
「箱は逃げない。建物が先に崩れたら、俺たちも箱も終わりだ」
二人が入口へ向かおうとした瞬間、背後で金属音が響いた。
ガシャン!
振り返ると、中央の台座が沈み込み、床の亀裂が広がっていた。
青白い線が次々と点灯する。
円形の魔法陣が、不規則に明滅し始めた。
「……まずいな」
シラスは剣を抜いた。
魔法陣の外周に沿って、石床が持ち上がる。壁の一部が崩れ、棚に置かれていた金属部品が床へ落ちた。
「走れ、鈴!」
二人は出口へ駆けた。
その背後で、魔法陣の中央から青白い光が噴き上がった。
耳をつんざくような音が響き、床に刻まれた線が一斉に輝く。
鈴は思わず振り返った。
その瞬間、光の中に一つの光景が浮かんだ。
白い服を着た人物。
顔は見えない。
その人物は、魔法陣の中央に立ち、両手を広げていた。
そして、誰かに向かって叫んでいる。
『閉じて! 今すぐ、閉じるの!』
鈴の足が止まった。
「……あ」
「鈴、止まるな!」
シラスの声が響く。
次の瞬間、天井から石片が落ちた。
シラスは鈴の腕をつかみ、力任せに引き寄せた。
二人のすぐ後ろに、大きな石材が落下する。
衝撃で埃が舞い上がり、視界が白く染まった。
「走れ!」
鈴は我に返り、シラスとともに出口へ駆けた。
扉を飛び出した直後、背後で轟音が響いた。
建物の一角が崩れ、石材と木片が通路へ飛び散る。
シラスは鈴をかばい、壁際へ身を伏せた。
しばらくして、ようやく音が止んだ。
「……怪我は?」
シラスが尋ねる。
鈴は何度か瞬きをした。
「ない……と思う」
「頭は痛むか?」
「少し。でも、大丈夫」
シラスは彼女の腕や肩を確認し、怪我がないことを確かめた。
それから、崩れた建物を振り返った。
入口の向こうには、もう青白い光は見えなかった。
魔法陣は、完全に停止したらしい。
「……何が起きたんだろう」
鈴が呟いた。
シラスは答えなかった。
魔法陣が自然に崩れたのか。
何者かが装置を動かしたのか。
それとも、鈴が近づいたことが何らかの影響を与えたのか。
どれも可能性にすぎない。
だが、崩れる直前に鈴が見た光景は、無視できなかった。
「鈴。さっき、何か見えたのか?」
彼女はゆっくりと頷いた。
「白い服の人がいた。魔法陣の真ん中に立っていて……誰かに、閉じろって叫んでた」
「何を閉じろと?」
「わからない。でも、すごく必死だった」
鈴は自分の胸元を握りしめた。
「それから……怖かった。何かを止めないといけないって、思った気がする」
シラスは崩れた建物を見つめた。
古い魔法陣。
記録に関する言葉。
白い部屋。
そして、何かを閉じろと叫ぶ人物。
これらは、同じ出来事の断片なのだろうか。
まだ、答えは出ない。
そのとき、通りの向こうから複数の足音が聞こえてきた。
「何の音だ!?」
「建物が崩れたぞ!」
人々が集まり始めている。
シラスは舌打ちした。
「ここに長居するわけにはいかない」
「でも、箱は……」
「持ち出せなかった。今は諦める」
鈴は悔しそうに崩れた建物を振り返ったが、やがて頷いた。
二人は人々が集まる前に、倉庫街の裏道へと姿を消した。
その様子を、向かいの建物の屋根から見ている人物がいた。
黒い外套。
顔は影に隠れている。
男は崩れた建物を見下ろし、懐から金属片を取り出した。
円と二本の交差する線。
その端には、小さな切れ込みが二つ刻まれている。
男は金属片を強く握りしめた。
「……やはり、反応したか」
その声には、安堵とも焦りともつかない響きがあった。
「だが、これではもう……」
言葉の続きを口にすることなく、男は屋根の向こうへ姿を消した。
グラヴェスの街は、建物の崩落騒ぎで一時的に騒然となった。
誰もが事故だと考えていた。
老朽化した倉庫が、突然崩れただけだと。
しかし、シラスと鈴は知っている。
あの場所には、古い魔法陣が存在した。
そして、鈴の記憶に残る白い部屋と、確かに似た何かがあった。
彼女の失われた過去は、まだ深い霧の向こうにある。
だが、その霧の中で、何かが確実に動き始めていた。




