追跡者ダリウス
グラヴェスの朝は、昨日よりも少しだけ肌寒かった。
宿屋の窓から差し込む光を眺めながら、シラス・ナハトは腰の剣を確かめた。鞘に傷はあるが、刃に異常はない。昨夜、裂けた外套は応急処置を済ませていた。
準備を終えた彼は、部屋の隅に置かれた荷物入れへ目を向けた。
中には、北部整理所から持ち出した金属箱がある。
円と二本の交差する線。そして、その端に刻まれた小さな切れ込み。
鈴が思い出しかけた白い部屋にも、同じ紋章があったという。
「……今日こそ、少しは話が進むといいんだが」
「何の話?」
背後から声がした。
振り返ると、鈴が寝台の上で毛布を抱えたまま、こちらを見ていた。
「起きていたのか」
「今、起きたところ。シラスが朝から難しい顔をしてるから、気になったの」
「いつもこんな顔だ」
「うん。だから、いつも難しいことを考えてるのかなって」
「半分は違う。残り半分は、お前が何を言い出すか考えている」
「ひどい!」
鈴は毛布を投げようとしたが、途中で思い直したらしい。毛布を抱え直し、むっとした顔でシラスを睨んだ。
「……今日は、ちゃんと役に立つからね」
「期待している」
シラスがあっさり答えたため、鈴は逆に拍子抜けしたようだった。
「えっ……本当に?」
「お前が役に立つと言ったんだろう」
「もうちょっと、こう……疑ったりしないの?」
「疑ってほしかったのか?」
「そういう意味じゃないよ!」
朝から騒がしい。
それでも、昨日の路地で見せた不安げな表情が少し和らいでいることに、シラスは内心ほっとしていた。
二人は朝食を済ませると、ローヴェン商会へ向かう準備を始めた。
古い金属片を持ち込んだ男の行方を追うこと。それが今日の目的だった。
だが、宿屋を出る直前、階下の主人に呼び止められた。
「お客さん。あんたたちに用があるって男が来てるぞ」
シラスの手が、扉の取っ手の上で止まった。
「どんな男だ?」
「三十代くらいだな。黒い服に、灰色の外套。武器は腰に一本。妙に静かな男だったよ」
鈴がシラスの袖をつかんだ。
「昨日の人……?」
「わからない。だが、会ってみる価値はある」
「罠だったら?」
「そのときは帰る」
「そんなに簡単に帰れるの?」
「帰れる状況ならな」
鈴は、少しだけ不安そうな顔をした。
シラスは彼女を見て、声を落とした。
「俺の後ろにいろ。何があっても、勝手に前へ出るな」
「……うん」
食堂の奥に、その男は座っていた。
年齢は三十代半ばほど。短く整えられた暗い髪に、鋭い灰色の目。装飾の少ない外套を身につけ、腰には細身の剣を差している。
傭兵にも見えるが、身のこなしには無駄がなかった。
男はシラスたちの姿を見ると、椅子から立ち上がった。
「シラス・ナハト。同行している少女は、鈴と呼ばれているそうだな」
シラスの目が細くなった。
「誰から聞いた?」
「いくつかの宿を回れば、旅人の話くらいは耳に入る」
「質問に答えていない」
男はわずかに口元を緩めた。
「警戒心が強いな。賞金首としては正しい判断だ」
「褒められている気がしない」
「褒めてはいない」
「なら、話が早い。用件は?」
男は空いている椅子へ視線を向けた。
「座って話そう。立ち話で済む内容ではない」
シラスは椅子に腰を下ろしたが、剣から手を離さなかった。鈴も隣に座る。
男は二人を順番に見たあと、静かに名乗った。
「ダリウス・ヴェイン。追跡を専門にしている」
「追跡者か」
「そう呼ばれることもある」
「賞金稼ぎとは違うのか?」
「依頼次第だな。人を探すこともあれば、人に見つからないよう道を作ることもある」
「ずいぶん便利な仕事だ」
「不便な仕事より、金になる」
鈴が小さく呟いた。
「……シラスと似てるね」
「どこがだ」
「言い方が」
「俺はあそこまで感じが悪くない」
ダリウスは二人のやり取りを聞き、少しだけ眉を上げた。
「思ったより、仲がいいらしい」
「用件を話せ」
シラスの声が低くなる。
ダリウスは表情を改めた。
「昨日、北側の荷捌き場で起きた騒ぎについてだ。お前を追っていた連中のうち、少なくとも二人は、通常の賞金稼ぎではない」
「理由は?」
「賞金首を捕まえることが目的なら、もっと人目の少ない場所を選ぶ。あの連中は、お前たちを特定の路地へ追い込もうとしていた」
シラスは黙って聞いていた。
それは、彼自身が考えていたことと一致していた。
「つまり、俺たちの行動を制限することが目的だったと?」
「その可能性が高い。捕縛が目的なら、あの場で逃げられた時点で追撃するはずだ。だが、連中の動きには妙な間があった」
「……誰かの指示を待っていた?」
「あるいは、何かを確認していた」
ダリウスの視線が、鈴へ移った。
ほんの一瞬だった。
だが、シラスは見逃さなかった。
「次は何だ。彼女についても知っているのか?」
「知っていることと、確かめたいことがある」
「同じ意味に聞こえるな」
「違う。知っていることは、すでに確認できた事実だ。確かめたいことは、まだ推測にすぎない」
ダリウスは懐から小さな紙片を取り出した。
そこには、古い文字と簡単な図形が記されていた。
鈴はそれを見た瞬間、息を呑んだ。
紙片の中央に、円と二本の交差する線が描かれていた。
「……その模様」
シラスは鈴を一瞥し、ダリウスへ視線を戻した。
「それは何だ?」
「古い魔術記録の写しだ。今から数十年前、ある研究施設で使われていた分類記号の一つとされている」
「研究施設?」
「詳しい場所は不明だ。記録の大半が失われている」
ダリウスは紙片を机の上に置いた。
「その記号に関連する記録には、魔力の測定値が通常の範囲を大きく超えた事例がいくつか記されていた。だが、測定方法も記録の信頼性も不明だ。だから、これだけで何かを断定することはできない」
「その話と、鈴に何の関係がある?」
「昨日の路地で、青白い魔力反応が確認された。しかも、通常の詠唱や術式の発動を伴わなかったという」
シラスは表情を変えなかった。
「誰から聞いた?」
「目撃者は複数いる。魔力に敏感な者も、その場にいたらしい」
「それで、彼女を疑っているのか」
「疑っているというより、記録と照合している」
「同じことだ」
ダリウスは反論しなかった。
鈴は紙片を見つめたまま、口を開いた。
「……私が、普通じゃないってこと?」
その声には、怯えが混じっていた。
ダリウスは少し考えてから答えた。
「普通かどうかを決めるのは、俺の仕事ではない。ただ、君のような反応を示す魔女について、古い記録が残っている可能性はある」
「魔女……」
鈴は自分の手を見つめた。
自分が魔女であることは、彼女自身も知っている。だが、どんな魔女なのか、なぜこれほどの力を持つのかは知らない。
ダリウスの言葉は、その疑問に答えるどころか、新しい疑問を増やしていた。
「その記録には、何が書いてあるの?」
鈴が尋ねる。
「断片的な情報しかない。魔力の分類、測定記録、そしていくつかの警告文だ」
「警告文?」
「詳しい内容までは確認できていない。ただ、一つだけ、繰り返し記されていた言葉がある」
ダリウスは紙片を裏返した。
裏面には、かすれた文字が残されていた。
「――眠れる魔女を、無理に目覚めさせるな」
鈴の顔から血の気が引いた。
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥で何かが揺れた。
白い壁。
冷たい床。
壁に刻まれた紋章。
そして、誰かの声。
『……まだ、開けてはならない』
鈴は額を押さえた。
「……っ」
「鈴!」
シラスがすぐに彼女の肩を支える。
「どうした? 頭が痛むのか?」
「今の言葉……前にも、聞いた気がする……」
呼吸が浅くなる。
「白い部屋で……誰かが……何かを開けるなって……」
シラスの表情が険しくなった。
ダリウスも、初めて明確な驚きを見せた。
「白い部屋?」
「……わからない。はっきり思い出せない。でも、同じような声だった」
「その記憶は、いつから?」
「金属板に触れたときから……少しずつ……」
ダリウスは紙片を見下ろした。
「そうか……」
「何か知っているのか?」
シラスの問いに、ダリウスはすぐには答えなかった。
やがて、彼は慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「俺が見た記録には、魔女の力を測定するための施設が存在した可能性が記されていた。ただ、その施設が何を研究していたのか、誰が管理していたのかはわからない」
「それが、鈴のいた場所だと?」
「断定はできない。白い部屋も、魔女も、古い記録も、それぞれ別のものかもしれない」
シラスはわずかに頷いた。
断片的な情報を、勝手につなげて結論を出すつもりはない。
だが、ダリウスがこの話を持ち込んだ理由は、まだ明らかになっていなかった。
「お前は、何のために俺たちへ近づいた?」
ダリウスはまっすぐにシラスを見返した。
「警告するためだ」
「何について?」
「君たちを追っている連中の中に、魔女の力を利用しようとする者がいる可能性がある。少なくとも、昨日の襲撃は通常の賞金稼ぎの動きではなかった」
「その根拠は?」
「一人の男を捕らえるだけなら、あれほど回りくどい方法を取る必要はない。しかも、少女が危険にさらされた瞬間、追手の一部が彼女のほうへ動いた」
シラスは目を細めた。
「それを見ていたのか」
「遠くからな。俺も、昨日はお前たちを観察していた」
「つまり、お前も俺たちを追っていたわけだ」
「否定はしない」
シラスの手が、ゆっくりと剣の柄へ移った。
ダリウスは動かなかった。
「だが、俺は君たちを捕まえに来たわけではない」
「信じろと?」
「信じる必要はない。俺の言葉を疑ったままでも、情報を利用することはできる」
その言い方は、シラスにとって不快ではなかった。
少なくとも、根拠もなく信用を求める人間よりは話が通じる。
「……お前は、誰の依頼で動いている?」
「今は答えられない」
「なら、こちらも情報を渡す理由はない」
「当然だ」
ダリウスは紙片を畳み、机の上へ置いたまま立ち上がった。
「その記号について、ローヴェン商会が何か知っている可能性がある。古い魔術道具や、研究施設から流出した品を扱っていたという話を聞いた」
シラスの目がわずかに動いた。
ようやく、今日の目的につながる情報が出てきた。
「誰から聞いた?」
「商会の取引記録を調べていた者からだ。記録そのものは見ていない。だから、確かな話とは言い切れない」
「それでも、行く価値はあるな」
「そう思う」
ダリウスは扉へ向かった。
「一つ、忠告しておく。今日の襲撃が、昨日の続きだとは限らない。別々の目的を持つ者たちが、同じ少女を追っている可能性もある」
「……どういう意味だ?」
「お前の賞金首としての価値と、彼女の魔女としての価値は、別々に扱われているかもしれないということだ」
シラスの表情が冷たくなった。
「彼女を値札のついた荷物みたいに言うな」
ダリウスは一瞬だけ沈黙した。
「……そのつもりはなかった。言葉を選ぶべきだったな」
そう言って、彼は扉を開けた。
「また会うことになるかもしれない、シラス・ナハト」
「できれば遠慮したい」
「俺も、無駄な追跡は好まない」
ダリウスはそれだけ言い残し、食堂を出ていった。
扉が閉じる。
鈴はしばらく黙っていた。
やがて、彼女は机の上に残された紙片へ視線を落とした。
「……眠れる魔女」
小さく呟く。
「私のことなのかな」
「まだわからない」
シラスは即座に答えた。
「似たような記録があったというだけだ。お前と関係があるとは限らない」
「でも、あの言葉を聞いたとき、何かを思い出しかけたの」
「それは覚えておく。だが、無理に思い出そうとするな」
鈴は頷いた。
それでも、不安は消えない。
自分の中に眠っている力。
記憶の奥にある白い部屋。
そして、自分を呼んでいた誰かの声。
それらがつながっているのなら、彼女は何をしていたのだろう。
誰かを守ろうとしていたのか。
それとも、誰かから逃げていたのか。
「シラス」
「何だ?」
「私が、危険な魔女だったら……どうする?」
その問いに、シラスはすぐには答えなかった。
鈴は彼の顔を見上げていた。
冗談ではない。自分の力が何なのかわからないからこそ、本気で恐れているのだ。
シラスは静かに息を吐いた。
「危険かどうかは、力の大きさだけで決まるものじゃない」
「……でも、私は自分の力を制御できない」
「だから、制御できる方法を探す。危険があるなら、どうすれば被害を防げるか考える。それだけだ」
「もし、私が誰かを傷つけたら?」
「そのときは、止める」
鈴の肩が小さく震えた。
シラスは彼女から目を逸らさなかった。
「だが、何も起きていないうちから、お前を危険な存在だと決めつけるつもりはない」
鈴は唇を噛んだ。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとう」
「礼はいい。今は、わかっていることと、わかっていないことを分けて考えろ」
「わかっていること……」
「お前には、普通ではない魔力反応がある。記憶の中に、古い施設らしき場所と、あの紋章が出てくる。そして、誰かがその力に関心を持っている。ここまでは事実に近い」
「うん」
「お前が何者で、何をしていたのか。なぜ記憶を失ったのか。それはまだわからない」
鈴は深く息を吸った。
「……じゃあ、調べよう。私、自分のことを知りたい」
「ああ」
シラスは紙片を手に取り、細かく折り畳んで懐へしまった。
ローヴェン商会へ向かう理由が、また一つ増えた。
金属箱の正体。
古い記録の行方。
鈴の記憶。
そして、彼女の力を利用しようとしているかもしれない者たち。
どれも簡単に解決できる問題ではない。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
「行くぞ、鈴」
「うん!」
二人は宿屋を出た。
北側の倉庫街へ向かう道は、昨日と同じように人々で賑わっている。
だが、シラスは気づいていた。
通りの反対側に立つ男が、こちらを見ている。
その男は二人と目が合うと、すぐに人混みへ紛れた。
シラスは追わなかった。
今は、ローヴェン商会へ向かうほうが重要だ。
鈴もまた、周囲に注意を向けながら歩いていた。
教えられたとおり、逃げ道を確認し、人の動きを見る。
彼女はまだ、自分の力を理解していない。
それでも、少しずつ変わり始めていた。
誰かに守られるだけではなく、自分の目で危険を見つけようとしている。
その一歩が、いつか二人の運命を変えることになるのかもしれない。
そして、彼らの背後では、古い記録を巡る追跡が、静かに速度を上げていた。




