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魔女の記憶

宿屋に戻った頃には、グラヴェスの街を照らす日差しも少し傾き始めていた。


シラス・ナハトは部屋の扉を閉め、鍵を掛けた。それから窓の外を確認し、向かいの建物の屋根や通りの様子に不審な影がないことを確かめる。


「……ひとまず、追ってきている気配はないな」


「本当に?」


鈴が扉のそばから尋ねた。


「今のところはな」


「その言い方、全然安心できないんだけど……」


「安心したいなら、追手がいないことを祈っておけ」


「シラスって、祈ることまで人任せにするんだね」


「神様に頼むより、自分で鍵を確認するほうが確実だ」


そう言いながら、シラスは机の上に荷物を置いた。


頬にできた傷は、鈴が手当てしてくれたおかげで出血が止まっている。深い傷ではないが、外套の裂け目はそのままだった。


鈴はそれを見て、申し訳なさそうに眉を下げた。


「……ごめんね。私がもっとちゃんとしていれば、シラスが怪我をしなくて済んだかもしれないのに」


「何の話だ?」


「さっきの戦い。私、結局、シラスに守ってもらってばかりだった」


シラスは椅子に腰を下ろした。


「お前は、俺の背後にいた男に気づいて知らせてくれた。それで十分だ」


「でも……」


「鈴」


彼女の言葉を遮り、シラスは静かに続けた。


「戦いの最中に、できなかったことばかり数えるな。できたことまで見失う」


鈴は口を閉じた。


「危険に気づいた。声を上げた。指示を聞いて動いた。どれも無駄じゃない。少なくとも、俺は助かった」


最後の一言に、鈴は目を丸くした。


「……本当に?」


「ああ。背後から刃を振られていたら、面倒なことになっていた」


「面倒って……死んでたかもしれないんだよ?」


「だから、面倒なことになっていたと言った」


「もう! そういうところ!」


鈴は頬を膨らませたが、先ほどまでの暗い表情は少し和らいでいた。


シラスは机の上に水差しを置き、二人分の杯に水を注いだ。


「それより、今日は少し話をしておきたい」


「話?」


「路地で起きたことだ」


鈴の表情が変わった。


彼女は杯を受け取り、両手で包み込むように持った。


「……あの、勝手に魔法が出たこと?」


「ああ」


部屋に静寂が落ちる。


窓の外からは、遠くで商人が客を呼ぶ声が聞こえていた。


シラスは急かさず、鈴が話し始めるのを待った。


やがて、彼女はゆっくりと口を開いた。


「最初は、怖かったの。あの人が後ろから近づいてきて……何かしなきゃって思った。でも、どうすればいいのかわからなくて」


「それで、力が出た?」


「うん。でも、魔法を使おうって考えたわけじゃないんだよ。呪文も知らないし、どうやって魔力を動かすのかもわからない。ただ……」


鈴は目を伏せた。


「誰かに、触られたくないって思った瞬間、頭の奥で何かが弾けたような感じがした」


「頭の奥?」


「うまく説明できない。でも、前に金属板を触ったときにも、少し似た感じがあった気がする」


シラスの視線が鋭くなる。


武器屋で見つけた古い金属板。


円の中に二本の線が交差する紋章。


それに触れたとき、鈴は白い壁に囲まれた大きな部屋と、顔の見えない人物の姿を見たという。


そして、あの声。


『……まだ、開けてはならない』


『その記録は……』


あの記憶と、今日の現象に何か関係があるのか。


今の段階では、何も断定できない。


「鈴。もう一度、何かを思い出そうとしてみる気はあるか?」


鈴は顔を上げた。


「思い出すって……あのときのことを?」


「無理にとは言わない。だが、何かを思い出したなら、どんな些細なことでも教えてほしい」


彼女はしばらく考えていた。


「……やってみたい」


「本当にいいのか?」


「うん。私、自分が誰なのか知りたい。どうして何も覚えていないのかも。それに……」


鈴は自分の手を見つめた。


「さっきみたいに、何もわからないまま力が出るのは嫌なの。もし、誰かを傷つけたらって思うと……」


シラスは頷いた。


「わかった。ただし、少しでも具合が悪くなったら中止する。何も思い出せなくても、無理に続ける必要はない」


「うん」


「それと、今日は金属板も箱も使わない」


鈴は意外そうに瞬きをした。


「どうして?」


「刺激を与えれば必ず思い出せるとは限らない。さっきのような反応が起きた理由もわかっていないんだ。わざわざ危険を増やす必要はない」


「……そっか」


鈴はゆっくりと息を吐いた。


「じゃあ、どうするの?」


「目を閉じて、今覚えていることを順番に思い返す。見えたもの、聞こえた声、感じたこと。何も浮かばなければ、それで終わりだ」


シラスは椅子を一つ、彼女の正面へ移動させた。


鈴はそこに座り、膝の上で手を重ねた。


「……なんだか、試験みたい」


「答えを間違えても減点はない」


「満点を取ったら、ご褒美は?」


「何もない」


「ひどい!」


「試験ではないと言っただろう」


「そういう問題じゃないよ!」


鈴は不満を口にしたものの、すぐに目を閉じた。


シラスは黙って待った。


最初の数分、部屋には何の変化もなかった。


鈴は眉を寄せたり、首を傾げたりしていたが、やがて肩の力が少しずつ抜けていく。


「……白い」


小さな声だった。


シラスは身を乗り出しかけたが、彼女を驚かせないよう、その場に留まった。


「何が見える?」


「白い壁……すごく広い部屋。天井も高くて、窓がないのに明るいの」


前回の記憶と似ている。


「ほかには?」


「床が……石みたい。でも、普通の石じゃない。つるつるしていて、光が反射してる」


鈴の眉間に皺が寄った。


「壁に模様がある。円の中に、線が二本……」


シラスは息を止めた。


また、あの紋章だ。


「その模様の近くに、誰かいるか?」


「……いる」


鈴の声がわずかに震えた。


「人が一人。白い服を着てる。でも、顔が見えないの。光が当たっていて……ぼんやりしてる」


「何か話しているか?」


鈴は黙り込んだ。


長い沈黙のあと、唇がわずかに動く。


「……記録を、運んで……」


シラスの表情が変わった。


「何だって?」


「わからない。誰かが言ってる。『記録を運んで……ここには、残すな』って……」


鈴は苦しそうに眉を寄せた。


「それから……音がする。大きな音。何かが壊れる音……」


彼女の呼吸が速くなった。


「火が見える。紙が燃えてる。床に誰かが倒れていて……あれ?」


鈴が突然、目を見開いた。


「……私、あそこにいたの?」


「鈴?」


「違う……わからない。でも、誰かが私を呼んでる」


彼女の指が、膝の上で強く握り締められた。


「誰かが……私の名前を……」


声が途切れる。


鈴は頭を押さえた。


「痛い……!」


シラスはすぐに立ち上がり、彼女の肩に手を置いた。


「もういい。目を開けろ、鈴!」


彼女は苦しそうに息を吸い、何度か瞬きをした。


しばらくして、ようやく焦点が合う。


「……シラス?」


「ああ。ここにいる」


「私……何か、思い出したの?」


「いくつか聞いた。だが、今はそれより体調だ。吐き気はあるか? 目が回るか?」


「少しだけ、頭が痛い……」


「今日は終わりだ」


シラスは水を差し出した。


鈴は両手で杯を持ち、少しずつ水を飲んだ。


しばらくすると、顔色も落ち着いてきた。


「……ごめんね。せっかく思い出せそうだったのに」


「謝る必要はない。ここで倒れられるほうが困る」


「また、そういう言い方……」


「本音だ」


鈴は小さく笑った。


けれど、その笑みはすぐに消えた。


「ねえ、シラス。私、あの場所にいたのかな」


「可能性はある」


「じゃあ、あそこにいた人たちは……」


「わからない」


シラスは慎重に言葉を選んだ。


彼女が見たのは、記憶の断片にすぎない。


白い壁。紋章。記録を運べという声。燃える紙。そして、床に倒れた人物。


それらが同じ時間、同じ場所で起きたことなのかさえ、まだ確証はない。


「ただ、一つわかったことはある」


「何?」


「お前の記憶には、記録に関する何かが残っているらしい」


鈴は顔を上げた。


「記録……」


北部整理所で見つけた原記録。


十二箱が受け入れられ、十箱が移送されたという帳簿。番号のない金属箱。そして、あちこちの古い資料に残されていた紋章。


別々に見えていたものが、少しずつ同じ方向を指し始めている。


だが、つながりが見え始めたからこそ、慎重になる必要があった。


「鈴。さっき見たものを、もう一度整理してくれ」


彼女は頷き、ゆっくりと思い出すように話した。


「白い部屋。壁に紋章があった。白い服の人がいて……誰かが記録を運べって言ってた。それから、火が出て……」


「お前自身は、何をしていた?」


「それが……わからない。誰かを探していたような気もするし、誰かから逃げていたような気もする」


鈴は困ったように眉を下げた。


「最後に、誰かが私を呼んだの。だけど、名前は聞き取れなかった」


「声は男か、女か?」


「……わからない。遠かったから」


「声の高さは?」


「少し低かった気がする。でも、確かじゃない」


シラスは頷き、それ以上は質問しなかった。


今の彼女に、これ以上思い出させようとするのは危険だ。


それに、無理に聞き出せば、曖昧な記憶を確かな事実だと思い込んでしまう可能性もある。


「今日は十分だ」


鈴はほっとしたように息を吐いた。


「……うん」


そのとき、窓の外から鐘の音が聞こえた。


街の中央にある時計塔の鐘だ。


シラスは窓へ目を向け、時刻を確かめる。


午後の半ばを過ぎている。


ローヴェン商会へ向かうには遅くなりすぎた。今から出向いても、十分な情報を得られない可能性が高い。


「今日は外に出ないほうがよさそうだな」


「商会は?」


「明日にする」


鈴は少し残念そうにしたが、すぐに頷いた。


「……わかった」


シラスは机の引き出しを開け、鍵を取り出した。


部屋の隅に置いた金属箱を確かめるためだ。


箱は、北部整理所から持ち出して以来、一度も開いていない。


表面には、円と二本の線が交差する紋章が刻まれている。


シラスは箱を机の上へ置き、傷や歪みがないかを確認した。


「それ、開けられないの?」


鈴が尋ねた。


「まだな。鍵穴らしいものもないし、継ぎ目もほとんど見えない」


「魔法で開けるとか?」


「お前が言うと、冗談に聞こえないからやめてくれ」


「ひどい! 私だって、何でもできるわけじゃないよ!」


「それはよく知っている」


「今の、褒めてないよね!?」


「事実を述べただけだ」


鈴は頬を膨らませた。


シラスは箱を裏返し、底面を確認した。


そのとき、鈴が小さく息を呑んだ。


「……待って」


「どうした?」


彼女は箱に近づき、紋章をじっと見つめた。


「この線……」


「何か思い出したのか?」


「ううん。でも、さっき見た模様と少し違う気がする」


シラスは箱を持ち上げ、紋章を改めて確認した。


円の中に、二本の線が交差している。


一見すると、金属板に刻まれていたものと同じだ。


だが、よく見ると、片方の線の端に小さな切れ込みがある。


「……これは」


シラスは指先で切れ込みをなぞった。


以前、金属板を見たときには気づかなかった特徴だった。


「鈴。武器屋で見た金属板にも、こんな切れ込みはあったか?」


「……覚えてない。ごめんね」


「謝るな。今、気づいたばかりだ」


シラスは箱を元の向きに戻した。


まだ開ける方法はわからない。


だが、単なる装飾ではない可能性がある。


紋章の違いが、箱の用途を示しているのか。それとも、同じ組織の中で使われていた別の印なのか。


判断するには情報が足りない。


「シラス」


鈴が彼の袖を軽く引いた。


「私、もう少し思い出せるようになりたい」


シラスは彼女を見た。


「焦るな」


「でも、記録のことを知っているなら、私の記憶が戻れば、箱のこともわかるかもしれない」


「そうかもしれない。だが、逆もある。箱のことを調べれば、お前の記憶につながる可能性もある」


鈴はしばらく考えたあと、ゆっくりと頷いた。


「……じゃあ、両方調べよう」


「ああ。できる範囲でな」


シラスは箱を布で包み、再び鍵のかかる荷物入れへしまった。


窓の外では、夕暮れが街を染め始めていた。


今日一日で、二人は何度も追い詰められた。


賞金稼ぎとの戦い。正体のわからない追手。そして、鈴の中から浮かび上がった、記録と火災の記憶。


何も解決していない。


それでも、手掛かりは少しずつ増えている。


鈴は椅子に座ったまま、自分の手を見つめた。


白い部屋。


壁に刻まれた紋章。


燃える紙。


そして、自分を呼ぶ声。


その声は、今も耳の奥に残っている気がした。


誰かが、確かに彼女を知っていた。


誰かが、彼女の名前を呼んでいた。


けれど、その名前だけが、深い霧の向こうに隠れている。


「……私は、誰だったんだろう」


鈴の呟きは、部屋の静けさに溶けていった。


シラスは答えなかった。


今は、答えられなかった。


ただ、彼女が再び記憶を探るときには、必ずそばにいる。


それだけは、決めていた。


その夜。


宿屋から離れた古い建物の一室で、黒い外套の男が一枚の報告書を読んでいた。


そこには、グラヴェスの裏路地で起きた騒ぎについて、簡潔な記録が残されている。


賞金首シラス・ナハト、戦闘能力は高い。


同行する白髪の少女、危機的状況において未知の魔力反応を確認。


男は報告書を机へ置いた。


「記憶が戻り始めたか……」


彼は懐から、円と二本の交差する線が刻まれた金属片を取り出した。


その裏側には、箱に刻まれていたものとよく似た、小さな切れ込みがある。


男はしばらくそれを見つめたあと、蝋燭の火へ近づけた。


「まだ、開けてはならない」


誰かの言葉をなぞるように、男は呟いた。


「だが、もう時間は残されていない」


蝋燭の炎が揺れた。


男の顔は、最後まで影に隠れたままだった。

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