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剣士シラスの戦い方

グラヴェスの北側にある裏市場は、昼を迎える頃には朝以上の賑わいを見せていた。


露店の呼び声。荷車の軋む音。値段を巡って言い争う商人たち。武器の手入れをする傭兵の金属音。


人々の声が重なり合うその場所は、追手を撒くには都合がよかった。


だが、シラス・ナハトは気を緩めていなかった。


「……まずいな」


露店の陰から通りを覗き、彼は小さく呟いた。


「何がまずいの?」


隣に立つ鈴が、声を潜めて尋ねる。


「俺たちを追っていた連中の姿が見えない」


「逃げ切れたんじゃないの?」


「本当に逃げ切れたなら、それに越したことはない。だが、あいつらは俺たちを路地に追い込んでいた。あの人数で終わりだとは思えない」


鈴は不安そうに周囲を見回した。


「じゃあ、また襲ってくる?」


「可能性はある」


「……シラスって、安心させるのが下手だね」


「安心できる材料がないんだ。仕方ないだろう」


「少しくらい、嘘でもいいから安心させてよ」


「大丈夫だ。今のところ、昼飯を食べる時間くらいはありそうだ」


「それ、安心させる嘘じゃなくて、ただのお腹の話だよ!」


鈴の声が少し大きくなり、近くの露店の店主が怪訝そうにこちらを見た。


シラスは鈴の肩を軽く押し、店の陰へ移動させる。


「声を落とせ。目立ちたくないんだ」


「シラスが変なことを言うからでしょ……」


「俺は事実を述べただけだ」


「もういい!」


鈴はそっぽを向いた。


それでも、彼女の指先はまだわずかに震えていた。


先ほどの路地で起きたこと。


自分が意識していないのに、空気が震え、木箱が跳ね、石畳に青白い光が走ったこと。


あの力が何なのか、鈴にはわからない。


誰かを傷つけるつもりなどなかった。それなのに、結果として男を壁へ吹き飛ばしてしまった。


もし、もっと強い力が出ていたら。


もし、シラスに当たっていたら。


考えるほど、胸の奥が冷たくなる。


「鈴」


シラスが呼んだ。


「……何?」


「手を見せろ」


「えっ?」


「震えている。どこか痛めたんじゃないか」


鈴は慌てて両手を差し出した。


シラスは手首や指を確かめ、怪我がないことを確認すると、ようやく手を離した。


「痛みはないな?」


「うん……」


「なら、ひとまずいい」


それだけ言って、彼は視線を通りへ戻した。


余計な慰めも、無理に笑わせようとする言葉もない。


それでも鈴は、少しだけ呼吸が楽になった気がした。


シラスは、彼女の力を怖がっていない。


少なくとも、今のところは。


「……シラスは、怖くないの?」


鈴が尋ねた。


「何がだ?」


「私の魔法。自分でもわからない力が、急に出るんだよ?」


シラスはすぐには答えなかった。


路地での出来事を思い返す。


あの力は、普通の魔法とは違っていた。詠唱も、明確な魔力の操作もなかった。鈴が危険を感じた瞬間、周囲の物が反応したように見えた。


それが彼女の意思によるものなのか、彼女自身を守る何かが働いたのか。


現時点では判断できない。


「警戒はしている」


鈴の表情が曇った。


「……そっか」


「だが、お前を怖がっているわけじゃない」


鈴が顔を上げる。


「わからないものを、わかったふりして扱うほうが危険だ。だから、何が起きたのか調べる。お前が無理に力を使う必要はない」


「……うん」


「それに、さっきのことなら、お前が俺を助けようとした結果だ。少なくとも、俺はそう見ている」


鈴はしばらく黙っていた。


やがて、俯いたまま小さく言った。


「……ありがとう」


「礼を言われるようなことじゃない」


「そういうところだよ、シラス」


「何がだ」


「何でもない!」


彼女は再びそっぽを向いた。


だが、今度は指先の震えが少し収まっていた。


シラスは懐から小さな紙片を取り出した。


そこには、ローヴェン商会の所在地が簡単な地図とともに記されている。昨日、武器屋の主人から聞いた情報をもとに書き留めたものだった。


商会は北側の倉庫街にある。


今の状況で直接向かうのは危険だが、いつまでも逃げ回るわけにもいかない。


「鈴。少し頼みがある」


「何?」


「これから、俺が通りを一周してくる。その間、お前はこの露店の裏で待っていてくれ」


鈴の表情が、たちまち不満げになった。


「一人で行くの?」


「追手がいるかどうか確認するだけだ」


「私も行く」


「駄目だ」


「どうして!」


「さっきの路地で、相手が何を狙っているのかはっきりしなかった。お前を連れて動けば、守る対象が増える」


「私、足手まといだって言いたいの?」


「そうは言っていない」


「でも、同じことじゃない!」


鈴の声に、悔しさが滲んだ。


シラスは彼女を見つめた。


彼女が何を考えているのか、わからないわけではない。


記憶を失い、自分の力すら制御できない。そんな状態で、唯一頼れる相手が危険に飛び込んでいくのを、ただ待つしかない。


それがどれほど不安なのか。


彼自身、似たような状況を何度も経験してきた。


「……なら、条件を変える」


「え?」


「俺が見える範囲から離れるな。危険を感じたら、すぐに逃げる。魔法を使って無理に助けようとしない。それを守れるなら、一緒に来てもいい」


鈴は驚いたように瞬きをした。


「本当に?」


「何度も言わせるな」


「わかった! ちゃんと守る!」


返事だけは威勢がよかった。


シラスはため息をついた。


「その返事の勢いを、危なくなったときにも維持できればいいがな」


「できるよ!」


「昨日も似たようなことを言っていた気がする」


「昨日は昨日、今日は今日!」


「便利な理屈だな」


二人は露店の裏を抜け、人通りの多い通りへ戻った。


シラスは歩きながら、窓や建物の角、荷車の陰を確認する。視線だけを動かし、足取りは自然なまま。立ち止まるときも、周囲を警戒していると悟られないようにした。


鈴も彼の動きを真似していたが、少しぎこちない。


時折、露店の商品に目を奪われては、シラスに袖を引かれていた。


「鈴。前を見ろ」


「見てるよ」


「今、干し果物を見ていた」


「だって、おいしそうだったから……」


「追手より干し果物が気になるのか」


「お腹が空いてきたんだもん!」


「さっき飯を食べたばかりだろう」


「シラスが昼飯の話をしたからだよ!」


「俺のせいにするな」


そんなやり取りをしながらも、シラスは通りの変化を見逃さなかった。


北側の角に、昨日の細身の男が立っている。


その少し奥には、見知らぬ男が一人。


二人は別々の方向を見ているようで、時折、同じ場所へ視線を向けていた。


こちらだ。


シラスは確信した。


「鈴。左へ曲がるぞ」


「え? でも、商会は右じゃ……」


「今はいいから、ついてこい」


二人は露店の間を抜け、細い道へ入った。


背後で、誰かが動く気配がした。


シラスは歩調を変えない。


相手が追ってきているのなら、こちらが走り出した瞬間に確信を与えることになる。まずは相手の人数と距離を測る。


角を一つ曲がり、さらに狭い路地へ入る。


その先は古い荷捌き場だった。


積み上げられた木箱。壊れた荷車。壁際に立てかけられた長い板。


人影はない。


シラスは足を止めた。


「鈴。後ろを見ろ」


鈴が振り返る。


路地の入口に、細身の賞金稼ぎが立っていた。


「やっと追いついたぜ」


男は短剣の柄に手をかけた。


「昨日は邪魔が入ったが、今日はそうはいかねえ」


その後ろから、大男も姿を現した。


幅広の剣を肩に担ぎ、にやりと笑っている。


「今度こそ決着をつけようじゃねえか、シラス」


「……決闘の時間には、まだ早いと思うが」


「そんなものは関係ねえ!」


「だろうな。最初から守る気がない顔をしている」


大男の笑みが消えた。


「てめえ……!」


彼は剣を抜き、地面を蹴った。


真正面からの突進。


速さはある。だが、力任せで軌道が読みやすい。


シラスは後ろへ下がらず、半歩だけ横へ移動した。大男の剣が肩のすぐ横を通り過ぎ、勢い余って木箱にぶつかる。


乾いた音とともに、箱が砕けた。


「ちっ!」


大男が剣を引き戻すより早く、シラスは相手の肘を打ち、膝裏へ足を掛けた。


重い体が傾く。


大男は転倒を避けるために踏ん張ったが、その瞬間、シラスは距離を取った。


倒すことが目的ではない。


まず、相手の動きを止める。


続いて、細身の男が左右から短剣を構えて迫ってきた。


こちらは動きが速い。正面から剣を合わせれば、もう片方の刃が死角から入る。


シラスは狭い通路の幅を確認した。


左右には木箱。後ろには壁。相手の武器は短いが、二本ある。


ならば、二本同時に使わせなければいい。


細身の男が右の短剣を振る。


シラスは剣の腹で刃を受け流し、そのまま相手の手首を押し込んだ。男の右腕が身体の内側へ引かれ、左手の短剣が振りにくくなる。


その隙に、シラスは男の足を払った。


男が体勢を崩す。


シラスは追撃せず、相手の肩を押して木箱へぶつけた。


「ぐっ……!」


「二本持っているなら、両方を使える位置に立て。片方を塞がれた時点で、もう片方も死んでいる」


「戦いの最中に講釈垂れてんじゃねえ!」


「聞く気がないなら、黙って倒れていろ」


大男が再び襲いかかってきた。


今度は剣を横薙ぎに振る。


シラスは身を屈めたが、刃先が外套をかすめた。布が裂け、頬に細い傷が走る。


彼はすぐに距離を取った。


――少し、踏み込みが遅れた。


大男の剣は重いが、単純な力だけではない。先ほどの動きでシラスの回避方向を読み、刃の軌道を修正していた。


油断すれば、次は避けきれない。


シラスは剣を構え直した。


大男が息を荒げる。


「どうした? さっきまでの余裕はどこへ行った!」


「少し考え事をしていた」


「戦いの最中にか!」


「お前の剣が思ったより重かった。それだけだ」


「褒めてんのか、馬鹿にしてんのか、どっちだ!」


「両方だ」


「ぶっ殺す!」


大男が怒りに任せて踏み込んだ。


シラスは正面から受けず、相手の剣を石壁へ誘導する。刃が壁に食い込み、わずかに動きが止まった。


その瞬間、シラスは柄頭で相手の胸を打った。


大男が息を詰まらせる。


さらに足を掛け、体勢を崩す。


今度こそ、大男の膝が地面についた。


「終わりだ」


シラスが剣先を向ける。


だが、細身の男は倒れた相棒を見て、すぐには動かなかった。


その視線が、シラスの背後に立つ鈴へと向く。


鈴は壁際で拳を握りしめていた。


怖い。


けれど、目を逸らさない。


彼女は、シラスがどう戦っているのかを見ていた。


力任せに相手を斬るのではない。


相手の動き、足の位置、周囲の障害物。すべてを見て、相手が動きにくい場所へ誘導し、必要な瞬間だけ力を使う。


剣を振るうたびに、シラスは何かを選んでいる。


どこへ踏み込むか。


いつ下がるか。


どこまで相手を追うか。


そして、いつ攻撃を止めるか。


彼の戦い方は、鈴が想像していたものとは違っていた。


「……シラス」


鈴が小さく呼ぶ。


彼は振り返らずに答えた。


「何だ」


「その人、まだ動けるよ!」


その声と同時に、シラスは身をひねった。


倒れていた大男が、隠し持っていた短い刃を振り上げていた。


鈴の声がなければ、背中を切られていたかもしれない。


シラスは大男の腕を蹴り上げ、刃を地面へ落とした。


「助かった、鈴」


短い言葉だった。


だが、鈴の顔がぱっと明るくなった。


「うん!」


大男は歯を食いしばり、地面に手をついた。


細身の男は、もはや勝ち目がないと悟ったのか、短剣を下ろした。


「……何なんだよ、お前は」


シラスは答えなかった。


遠くから、衛兵の笛が聞こえてきた。


おそらく、先ほどの騒ぎを誰かが通報したのだろう。


「ちっ……今日はここまでだ」


細身の男は大男の腕をつかみ、路地の反対側へ逃げようとした。


だが、シラスは追わなかった。


追えば捕まえられるかもしれない。


しかし、ここで追撃すれば、鈴を一人にすることになる。


それに、相手が何者なのかを調べるには、生きたまま逃がすという選択肢もある。


シラスは剣を鞘へ戻した。


「行かせるの?」


鈴が尋ねる。


「今はな」


「また襲ってくるかもしれないよ」


「その可能性はある」


「……本当に、安心させるのが下手だね」


「二度も言うな」


二人は衛兵が来る前に荷捌き場を離れ、裏市場の人混みへ戻った。


少し歩いたところで、シラスは建物の壁に背を預けた。


頬の傷から、血が一筋流れている。


鈴はそれを見て、慌てて鞄を開いた。


「シラス、怪我してる!」


「かすり傷だ」


「かすり傷でも血が出てるよ!」


「剣を振る仕事をしていれば、これくらいはある」


「そんな仕事、普通はしないよ!」


鈴は布を取り出し、彼の頬にそっと当てた。


シラスはわずかに顔をしかめる。


「……痛い?」


「いや」


「今、顔が動いたよ」


「お前の手が冷たいだけだ」


「じゃあ、温めるね」


鈴は両手で布を包み、少し温めてから、もう一度傷に当てた。


シラスは何も言わなかった。


やがて、鈴が真剣な顔で尋ねた。


「ねえ、シラス。どうして、あの人たちを殺さなかったの?」


シラスは少しだけ目を細めた。


「殺す必要がなかったからだ」


「でも、最後に後ろから襲ってきたよ」


「だから、もう一度同じことをするなら、次は容赦しない」


「……怖くないの?」


「何がだ?」


「相手を殺すことも、殺されることも」


シラスはしばらく黙っていた。


街の喧騒が、二人の間を流れていく。


「怖くない人間なんて、そうはいないだろう」


やがて、彼は静かに答えた。


「俺だって死にたくない。だから、相手をよく見る。できるだけ戦わずに済む道を探す。それでも駄目なら、勝つために動く」


「勝つために……」


「剣の腕だけで勝てる相手ばかりじゃない。力が上でも、足場が悪ければ転ぶ。速い相手でも、進む場所を塞げば動きは鈍る。大勢に囲まれたら、全員を倒すより、包囲を崩して逃げるほうがいい場合もある」


シラスは自分の剣を見下ろした。


「剣を振ることだけが、戦い方じゃない」


鈴は、彼の言葉を胸の中で繰り返した。


剣を振ることだけが、戦い方じゃない。


それなら、自分にもできることがあるかもしれない。


敵を倒せなくても、危険を知らせることはできる。周囲を見ることも、逃げ道を探すこともできる。


そして、さっきのように、彼の背後に迫る危険を見つけることだって。


「……私も、覚えたい」


「何を?」


「シラスの戦い方。剣じゃなくても、私にできることを覚えたい」


シラスは鈴を見た。


彼女の目には、まだ恐怖が残っている。


それでも、その奥には強い意志があった。


「なら、まずは周囲を見ることからだ。自分が立っている場所、逃げられる方向、近くにあるもの。危険が起きてから考えるんじゃ遅い」


「うん」


「それと、勝手に魔法を使おうとするな。今のお前は、力の加減がわかっていない」


「……わかってる」


「本当に?」


「わかってるってば!」


鈴が頬を膨らませる。


シラスは小さく息を吐いた。


「よし。なら、今日はそれを覚えて帰れ」


「それだけ?」


「一日で全部覚えられると思うな」


「むう……」


鈴は不満そうだったが、今度は反論しなかった。


シラスは通りの向こうを見た。


ローヴェン商会へ向かう予定は、またしても遅れている。


それでも、今日の戦いで得たものはあった。


あの賞金稼ぎたちは、単に金を目当てに追ってきただけなのか。


それとも、誰かの指示を受けていたのか。


そして、あの路地で待ち構えていた二人の男は、どこへ消えたのか。


答えはまだない。


だが、相手が自分たちの動きを把握しているのなら、こちらも相手の行動から情報を拾う必要がある。


シラスは外套の裂けた部分を確かめ、鈴へ視線を戻した。


「行くぞ」


「どこへ?」


「まずは宿に戻る。傷の手当てをして、予定を立て直す」


「商会は?」


「今日中に行けるかどうか、考える」


「……また面倒事が起きたら?」


シラスは一瞬だけ考えた。


「そのときは、できるだけ面倒にならないように対処する」


「それ、面倒事が起きる前提だよね?」


「経験則だ」


鈴は呆れたように息を吐いた。


それから、彼の隣に並んで歩き出す。


人々の声に満ちたグラヴェスの街。


その賑わいの中で、二人を見つめる視線が、また一つ増えていた。


古い倉庫の屋根の上。


黒い外套の男が、遠ざかる二人を見下ろしていた。


男の手には、小さな金属片が握られている。


円と二本の交差する線。


北部整理所で見つかった箱にも、鈴が触れた金属板にも刻まれていた、あの紋章だった。


男はそれを指先で裏返し、かすれた刻印を確かめた。


「剣士の腕は、噂以上か……」


低い呟きが風に消える。


「だが、問題は剣のほうではない」


男の視線が、鈴の白い髪を捉えた。


「彼女が、どこまで思い出すかだ」


男は金属片を懐へしまい、屋根の向こうへ姿を消した。


シラスも、鈴も、その視線には気づかなかった。


二人がまだ知らないところで、古い記録を巡る争いは、少しずつ形を変え始めていた。

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