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逃げ場のない路地

グラヴェスの朝は、騒がしい。


城壁の上では兵士たちが交代し、街の大通りには荷馬車が列を作る。武器を背負った傭兵たちが酒場から出てくる一方で、商人たちは露店を広げ、昨日と変わらない日常を始めていた。


だが、シラス・ナハトにとって、昨日と変わらない朝など存在しない。


「……今日は面倒事が起きないといいんだがな」


宿屋の階段を下りながら、シラスはぼそりと呟いた。


その後ろから、鈴が小走りで追いついてくる。


「シラス、それ、昨日も言ってたよ」


「だから今日も言ってる」


「じゃあ、明日も言うの?」


「明日が無事に来たらな」


「縁起でもないこと言わないで!」


鈴が頬を膨らませた。


シラスは返事をせず、宿の食堂へ向かった。


昨夜、部屋の鍵を確認したのは三度。窓の外を確かめたのは二度。持ち込んだ金属箱に異常がないかも調べた。


箱は依然として沈黙したままだった。


円の中に二本の線が交差する、あの奇妙な紋章。


北部整理所で見つけた箱と、武器屋で見せられた金属板。そして、鈴が見たという記憶の中の紋章。


それらが同じものを指しているのか、シラスにはまだ判断できなかった。


ただ、一つだけ確かなことがある。


誰かが、この紋章に関わる記録を探している。


そして、その誰かは自分たちより先に動いている可能性が高い。


「シラス?」


鈴の声に、彼は考えを中断した。


「何だ」


「朝ご飯、冷めちゃうよ」


卓上には黒パンと野菜のスープ、それに薄切りの燻製肉が並んでいた。


「……まずは腹ごしらえか」


「うん。お腹が空いてると、いい考えも浮かばないからね」


「それはお前の経験談か?」


「そうだよ!」


「堂々と言うことじゃない」


鈴は不満そうに唇を尖らせたが、スープを一口飲むと、すぐに機嫌を直した。


その様子を横目で見ながら、シラスは今日の予定を整理する。


午前中は北側にあるというローヴェン商会へ向かい、古い金属片について情報を得る。午後は、昨日約束させられた決闘の件を考える必要がある。


正確には、決闘などするつもりはなかった。


相手が勝手に約束しただけだ。


それでも、街の外で待ち伏せされる可能性はある。面倒を避けるためにも、相手の動きを把握しておく必要があった。


「鈴。今日は俺の近くから離れるな」


「……また危ないことがあるの?」


「あると決まったわけじゃない」


「でも、そういうときのシラスって、だいたい何かあるんだよね」


「俺のせいみたいに言うな」


「違うの?」


「違う」


即答だった。


鈴は少し考え、首を傾げた。


「じゃあ、シラスが面倒事を引き寄せてるんじゃなくて、面倒事がシラスを追いかけてくるの?」


「……その解釈のほうが、まだ気分はいいな」


二人は朝食を済ませ、宿屋を出た。


グラヴェスの北側は、武器屋や防具屋が並ぶ南側とは少し雰囲気が違っていた。


古い倉庫や荷捌き場が多く、街の中心部から離れるほど人通りが減っていく。荷車が通れるように道幅は広いが、その分、建物の間には細い路地がいくつも伸びていた。


ローヴェン商会は、その一角にあるらしい。


「お店の人、何か知ってるといいね」


「ああ。金属片を持ち込んだ男について、何か記録が残っていればいいが」


「もし何も知らなかったら?」


「別の手掛かりを探す」


「もし、その別の手掛かりもなかったら?」


「さらに別の手掛かりを探す」


「……シラスって、意外と諦めが悪いよね」


「生き残るためには必要な性質だ」


そう言った直後だった。


シラスの足が止まった。


前方の通りを、黒い外套の男が横切った。


顔は見えない。歩き方も特別な特徴があるわけではない。


だが、シラスには見覚えがあった。


昨日、古物商の閉まった店の近くで、こちらを見ていた男だ。


男は一瞬だけ二人のほうへ顔を向けると、すぐに荷車の陰へ消えた。


「……鈴。あの男を見たか?」


「うん。黒い服の人だよね。昨日もいた人?」


「おそらくな」


シラスは男が消えた方向を見据えた。


偶然かもしれない。


だが、昨日に続いて今日も姿を見せたのなら、偶然だと決めつけるのは危険だった。


「追いかけるの?」


鈴が尋ねた。


シラスは少しだけ考えた。


追えば、商会への到着が遅れる。相手が罠を用意している可能性もある。一方で、ここで見失えば、次にいつ接触できるかわからない。


「……いや。まずは商会だ」


「いいの?」


「向こうが俺たちを見ているなら、こちらが追わなくても、また姿を現す可能性がある。それに、今は調べるべきことがある」


「わかった」


鈴は素直に頷いた。


そのとき、通りの向こうから怒鳴り声が響いた。


「いたぞ! そっちだ!」


シラスの目が細くなる。


聞き覚えのある声だった。


昨日、宿屋で彼に決闘を申し込んできた大男の声だ。


「……まさか、朝から来るとはな」


「知り合い?」


「知り合いではない。できれば一生、他人でいたかった相手だ」


通りの角から、二人の男が現れた。


一人は大柄で、背中に幅広の剣を背負っている。もう一人は細身で、腰の左右に短剣を差していた。


昨日の賞金稼ぎたちだった。


大男はシラスを見つけるなり、口元を歪めた。


「よう、賞金首。逃げずに街に残っていたか」


「俺がどこへ行こうと、お前には関係ない」


「今日は話が違う。昨日の決闘、覚えているだろうな?」


「覚えている。受けるとは言っていないが」


大男の顔が赤くなる。


「貴様……!」


「声が大きい。朝から頭に響く」


「てめえ、ふざけやがって!」


細身の男が一歩前へ出た。


その視線が、シラスの隣に立つ鈴へと移る。


「そんなに強気でいられるのも、そこの嬢ちゃんがいるからか? 女を連れていると、ずいぶん余裕が出るらしいな」


鈴の眉がぴくりと動いた。


「……私、関係ないんだけど」


「なら、少し離れていてもらおうか」


細身の男が鈴へ手を伸ばす。


その瞬間、シラスの表情から、わずかな気配の緩みが消えた。


「触るな」


低い声だった。


男の手が止まる。


「何だと?」


「二度は言わない」


シラスは鈴を背後へかばい、二人の賞金稼ぎを見据えた。


「俺に用があるなら俺に来い。関係のない人間を巻き込むな」


「へえ……賞金首にも、守りたいものがあるってわけか」


大男が剣の柄に手をかける。


周囲の人々が、異変に気づいて足を止め始めた。


シラスは周囲を見た。


北側の通り。右手には荷車の列。左手には古い倉庫。その先に、建物と建物の間を抜ける細い路地がある。


人目がある場所で剣を抜けば、衛兵が来るまでに誰かが巻き込まれる。


それだけは避けたい。


「鈴。俺が合図したら、あの路地へ走れ」


「でも……!」


「大丈夫だ。俺もすぐに行く」


「本当に?」


「嘘をついている余裕があるように見えるか?」


鈴は不安そうに彼の顔を見たが、やがて小さく頷いた。


大男が剣を抜いた。


「逃がすかよ!」


刃が陽光を反射する。


その瞬間、シラスは足元の砂埃へ視線を落とし、指先をわずかに動かした。


短い風が吹き抜けた。


乾いた砂が舞い上がり、男たちの視界を覆う。


「なっ、何だ!」


シラスは鈴の手を取り、路地へ駆け込んだ。


背後から怒号が響く。


「待ちやがれ!」


「逃げる気か、賞金首!」


「追ってくるなら、まず前を見ろ!」


シラスは振り返らずに答えた。


路地は狭く、石畳の隙間には雑草が生えていた。両側には古びた建物が立ち並び、洗濯物や木箱が通路の一部を塞いでいる。


鈴は懸命に足を動かしながら、シラスについていった。


「シラス、どこまで走るの!?」


「追手を振り切れる場所までだ!」


「それ、目的地が曖昧すぎない!?」


「文句があるなら、追手に言え!」


「今それどころじゃないよ!」


背後で足音が増えた。


二人だけではない。


別の足音が、前方からも聞こえてくる。


シラスはすぐに歩調を緩めた。


「止まれ、鈴」


鈴が彼の背中にぶつかりそうになり、慌てて足を止める。


前方の路地口に、二人の男が立っていた。


どちらも傭兵風の服装だったが、剣を持つ手に迷いがない。偶然ここを通りかかった者の立ち方ではなかった。


男の一人が、シラスの顔を確認するように目を細めた。


「シラス・ナハト。間違いないな」


「……俺の名前を知っているのか」


「賞金首の顔くらい、覚えている」


「それなら、道を空けてくれ。急いでいる」


「悪いが、通すわけにはいかない」


シラスは周囲を見回した。


前方は二人。後方からは、賞金稼ぎたちが迫っている。右手の建物は窓が塞がれ、左手には崩れかけた石壁が続いていた。


逃げ道は、ほとんどない。


「シラス……」


鈴の声が少し震えた。


彼は振り返らずに答える。


「大丈夫だ。俺の後ろにいろ」


「でも、前にも後ろにも人がいるよ」


「見ればわかる」


「じゃあ、どうするの?」


シラスは腰の剣に手を添えた。


「道を作る」


前方の男が剣を抜いた。


「抵抗するな。お前を生きたまま連れていけという話だったが……多少の傷は構わないそうだ」


「誰の指示だ?」


「知る必要はない」


「そうか。なら、聞き方を変えよう」


シラスは視線を男の肩、肘、そして足元へと移した。


「お前たちは、俺を捕まえるためにここで待っていたのか。それとも、誰かに追い込まれるのを待っていたのか?」


男の表情が、ほんのわずかに変化した。


その一瞬を、シラスは見逃さなかった。


やはり、偶然ではない。


昨日から自分たちを見ていた黒い外套の男。朝から現れた賞金稼ぎ。そして、この路地で待ち構えていた二人。


全員が同じ目的を持っているとは限らない。


だが、少なくとも誰かが、シラスたちの進路を意図的に狭めている。


「鈴。左の壁を見ろ」


「壁?」


「石が崩れているところがある。人一人なら通れるかもしれない」


鈴は言われたとおりに目を向けた。


古い石壁の下部に、ひび割れた箇所がある。大人が通るには狭いが、小柄な鈴ならどうにか抜けられそうだった。


「私なら行けるかも……」


「隙間の向こうに何があるかはわからない。先に飛び込むな。俺が合図するまで待て」


鈴は唇を引き結び、頷いた。


シラスは剣を抜いた。


刃が鞘を離れる音は、驚くほど静かだった。


「最後に聞く。道を空ける気は?」


前方の男が剣を構える。


「ない」


「そうか」


シラスはわずかに腰を落とした。


相手の剣先が揺れる。右足に体重がかかっている。初撃は横薙ぎ。距離を詰めれば、後ろの男が動く。


一人を倒すことだけ考えるなら、難しくはない。


だが、今は鈴がいる。


彼女を守りながら、背後の追手にも注意を払わなければならない。狭い路地では、剣を大きく振ることもできない。


シラスは息を整えた。


「鈴、合図したら壁際へ」


「うん!」


男が踏み込む。


刃が迫る。


シラスは真正面から受けず、半歩だけ外側へ滑った。相手の剣が石壁をかすめ、火花が散る。


その隙に、シラスは男の手首を剣の柄で打った。


「ぐっ……!」


剣が地面に落ちる。


シラスは男の肩を押し、通路の端へ押しやった。


「今だ!」


鈴が壁の隙間へ走る。


だが、背後から追いついた細身の賞金稼ぎが、彼女の外套をつかもうと手を伸ばした。


「待ちやがれ!」


鈴が振り返る。


その瞳に、恐怖と怒りが混じった。


「だから、触らないでってば!」


彼女の声が路地に響いた。


次の瞬間、空気が震えた。


風もないのに、壁際に積まれていた木箱が一斉に跳ね上がる。地面の砂が渦を巻き、石畳の隙間から青白い光が一瞬だけ走った。


誰も動けなかった。


鈴自身も、何が起きたのかわからないという顔で立ち尽くしていた。


「……え?」


光はすぐに消えた。


だが、細身の男は見えない力に押されたかのようによろめき、壁に背中を打ちつけた。


シラスは一瞬だけ鈴を見た。


今のは、彼女が意識して使った魔法ではない。


少なくとも、普段の彼女ならあんな顔はしない。


「鈴、怪我は?」


「な、ない……と思う」


「なら、今は考えるな。ここを出るぞ」


シラスは彼女の手を引き、崩れた壁の隙間を抜けた。


その先は、古い倉庫の裏手だった。積み上げられた木材の向こうに、荷車が一台通れるほどの通路が続いている。


二人は通路を駆け抜け、やがて人通りのある裏市場へ飛び出した。


背後から追手の声が聞こえたが、すぐに雑踏に紛れて遠ざかっていく。


シラスは市場の露店の陰で足を止め、周囲を確認した。


追手は見えない。


今すぐ追ってくる気配もなかった。


「……ひとまず、撒いたか」


鈴は肩で息をしながら、シラスの袖をつかんだ。


「シラス……さっきの、私……」


「わかっている」


「私、何もしてないのに、勝手に……」


「今は落ち着け。無理に思い出そうとするな」


鈴は自分の手を見つめた。


指先は震えている。けれど、痛みはない。魔力を使ったという感覚も、ほとんど残っていなかった。


ただ、ほんの一瞬だけ。


あの青白い光を見たとき、頭の奥で何かが軋んだ気がした。


白い壁。


冷たい床。


そして、誰かの声。


――まだ、開けてはならない。


「……また、あの声がした気がする」


鈴が小さく呟いた。


シラスは彼女の顔を見つめた。


「前に見た記憶と同じか?」


「わからない。でも……似てた」


シラスはすぐには答えなかった。


彼女の力は、危機に陥るたびに反応しているように見える。だが、その仕組みも限界もわからない。


下手に使わせれば、彼女自身に何が起きるかもわからない。


それでも、今の力がなければ、二人はあの路地で追い詰められていた可能性が高い。


「鈴」


「……うん」


「今のことは、誰にも話すな。少なくとも、相手が何者かわかるまでは」


鈴は不安そうに頷いた。


「シラスにも?」


「俺には話していい」


「……そっか」


その返事を聞き、鈴の表情がほんの少しだけ和らいだ。


シラスは市場の向こうを見た。


ローヴェン商会へ向かう予定は、完全に狂ってしまった。


だが、今日の出来事で一つわかったことがある。


誰かは、彼らを捕らえようとしている。


しかも、ただ賞金首を捕まえたいだけなら、わざわざ鈴を狙う必要はない。


あの男たちは、彼女の存在を利用しようとしていたのか。それとも、最初から彼女も目的の一部だったのか。


まだ何も断定できない。


「シラス、これからどうするの?」


鈴が尋ねた。


シラスは剣を鞘へ戻し、外套の襟を整えた。


「予定を変える。まずは安全な場所を確保する。それから、俺たちを追い込んだ連中について調べる」


「商会には行かないの?」


「行くさ。ただし、正面から堂々と向かうのはやめだ」


「どうして?」


「今の状況で正面から歩いていけば、相手に行き先を教えているようなものだからな」


鈴はしばらく考えたあと、真剣な顔で頷いた。


「わかった。私も周りを見る」


「頼む」


「それで、もしまた誰かが襲ってきたら?」


シラスは一瞬だけ言葉を止めた。


「そのときは、俺が前に出る。お前は自分の身を守ることを考えろ。魔法を使おうと無理はするな」


「……でも、私だって助けになりたい」


「もうなっている」


鈴が目を見開いた。


シラスは気まずそうに視線を逸らす。


「さっき、俺の判断を待っただろう。それに、危険を知らせてくれた。十分だ」


「……それだけ?」


「今のところはな」


「むう……」


鈴は不満そうだったが、それ以上は言い返さなかった。


二人は市場の人波に紛れ、北側の通りとは反対の方向へ歩き出した。


その様子を、遠く離れた建物の二階から見下ろしている影があった。


黒い外套。


顔は窓枠の影に隠れている。


男は、シラスたちが路地から逃げ出すところを最後まで見届けると、静かに窓を閉じた。


「……やはり、娘のほうも反応したか」


低い声が、薄暗い室内に落ちた。


机の上には、一枚の古い記録の写しが置かれていた。


そこには、円と二本の交差する線。


そして、かすれた文字が残されている。


男はその紙を裏返した。


「計画を急ぐ必要があるな」


誰に向けた言葉なのか。


部屋には、ほかに誰もいなかった。


グラヴェスの街は、今日も騒がしい。


市場では商人たちが声を張り上げ、傭兵たちは酒場へ向かい、城門では荷車の検査が続いている。


その日常の裏側で、シラスと鈴を取り巻く状況は、確実に変わり始めていた。


逃げ場のない路地で、二人は初めて、追手が自分たちをただ捕まえたいだけではない可能性を知った。


そして鈴の中で眠る力は、彼女自身の意思とは無関係に、再び目を覚ましかけていた。

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