笑えない決闘
翌朝、鈴が目を覚ましたとき、シラスはすでに身支度を終えていた。
窓から差し込む朝日が、部屋の床を明るく照らしている。机の上には昨夜のうちに整理した道具が並び、道具袋もいつでも持ち出せるようにまとめられていた。
「……おはよう、シラス」
「起きたか。具合はどうだ?」
「うん。昨日よりずっといいよ。頭も痛くないし、ちゃんと眠れた」
鈴はベッドから起き上がり、両腕を伸ばした。
昨日、金属板に触れたときに見た光景は、まだ頭の片隅に残っている。
石造りの部屋。
壁に刻まれた印。
そして、聞き取れなかった名前と、あの声。
思い出そうとすると、胸の奥が落ち着かなくなる。
けれど、今は無理に考えないことにした。
「今日は何をするの?」
「まずは薬を買う。それから、昨日の武器屋で見た印について、もう少し調べたい」
「分かった。私も一緒に行くね」
「ああ。ただし、昨日のように気分が悪くなったら、すぐに言え」
「大丈夫だよ。もう平気だから」
「その言葉を信じるかどうかは、実際に歩いてみてからだな」
「もう! シラスって、どうしてそういう言い方をするの?」
「経験上、お前の『大丈夫』は信用しすぎないほうがいいと分かった」
「ひどい!」
鈴は頬を膨らませた。
その様子を見て、シラスは小さく笑った。
彼女がいつもの調子を取り戻していることに、少しだけ安心していた。
◇
朝食を終えた二人が宿屋を出ると、通りにはすでに多くの人が行き交っていた。
荷車を引く商人、武器を携えた傭兵、依頼書を手にした冒険者。グラヴェスでは、朝から人々が忙しそうに動き回っている。
シラスはまず薬を扱う店へ向かい、手首に使う軟膏を購入した。
鈴は店主に使い方を尋ね、薬の包みを大切そうに鞄へしまった。
「これで安心だね」
「大した怪我じゃないんだが」
「大した怪我じゃなくても、手当ては必要なの!」
「分かった。使わせてもらう」
「よろしい」
鈴は満足そうに頷いた。
その後、二人は昨日の武器屋へ向かうつもりだった。
しかし、大通りを歩いていたシラスの耳に、聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「おい、そこの黒髪!」
足を止める。
振り返ると、昨日の大男が立っていた。
隣には細身の男もいる。二人とも武器を携えていたが、昨日のように抜き身の剣を手にしてはいなかった。
大男はシラスを指さした。
「やっぱりお前だ! 昨日はよくも恥をかかせてくれたな!」
「……まだ何か用か?」
「決まってるだろう。昨日の借りを返しに来たんだ」
「衛兵から事情を聞かれていたはずだが?」
「町の中で武器を抜かなければいいんだろう? なら、問題ない」
男は口元を歪めた。
「町の外で勝負しろ。お前が本当に手配書どおりの男なら、俺が直接確かめてやる」
鈴がシラスの袖をつかんだ。
「……シラス、行かないよね?」
シラスは答える前に、男たちを観察した。
昨日の戦いで、大男は力任せの攻撃を得意としていることが分かった。細身の男は短剣を使い、隙を狙う戦い方をする。
二人とも、単純な相手ではない。
だが、今ここで挑発に乗る必要はなかった。
「断る。俺には用事がある」
「逃げるのか?」
「そう思いたければ、好きに思え」
「賞金首のくせに、ずいぶん偉そうだな!」
周囲の人々が、少しずつ足を止め始めた。
シラスは舌打ちをこらえた。
このままでは、また余計な噂が広がる。
それでも、戦う理由にはならない。
「お前たちの相手をするつもりはない。これ以上つきまとうなら、衛兵に報告する」
シラスが歩き出そうとした、そのときだった。
「待て!」
大男が声を張り上げた。
「昨日の勝負は終わっていない! 俺はお前に負けたわけじゃない!」
「……そうか」
シラスは振り返った。
「なら、もう一度言っておく。俺はお前と戦うつもりはない」
その言葉が、男の怒りに火をつけた。
「この野郎……!」
大男が一歩踏み出す。
細身の男がその腕をつかんだ。
「待て。ここで騒ぐな」
「放せ!」
「周りを見ろ。衛兵が来たら面倒になる」
細身の男は大男を引き止めながら、シラスを睨んだ。
「……分かった。なら、町の外で勝負をしろ。逃げも隠れもしないなら、受けられるはずだ」
「何度言わせる。俺には用事がある」
シラスは今度こそ背を向けた。
だが、背後から大男の声が響いた。
「明日の昼、北門の外にある訓練場で待っている! 来なければ、お前は逃げた臆病者だと町中に言いふらしてやる!」
シラスは足を止めなかった。
鈴も黙って彼についていく。
二人の姿が人混みに消えると、大男は悔しそうに地面を蹴った。
「くそっ……!」
「落ち着け。あいつは逃げたわけじゃない。今は相手にする価値がないと思っているんだ」
「それが一番腹立たしいんだよ!」
細身の男は、去っていくシラスの背中を見つめた。
「……だが、確かめる価値はある」
◇
大通りを離れたところで、鈴がようやく口を開いた。
「……ねえ、シラス」
「何だ?」
「明日の勝負、受けるの?」
「受けるつもりはない」
「でも、あの人たち、また何かしてくるんじゃないかな」
「その可能性はある」
「だったら……」
鈴は言葉を切った。
シラスがどんな判断をするのか、気になっているのだろう。
彼は少し考えてから答えた。
「相手の挑発に乗って、こちらの予定を変える必要はない。俺たちは別の目的でこの町に来たんだ」
「……うん」
「それに、決闘という形にしたところで、相手が約束を守る保証もない」
「そうだよね。二人がかりで襲ってくるかもしれないし」
「その可能性もある」
鈴は少し安心したように頷いた。
しかし、シラスはその表情を見て、付け加えた。
「ただ、向こうがこちらの行動を妨害するなら、話は別だ」
「……つまり?」
「必要なら、戦う」
鈴の顔が曇った。
「怪我をしないでね」
「できる限りな」
「そこは『しない』って言ってほしいんだけど……」
「約束できないことを、軽々しく言うつもりはない」
鈴はしばらく黙っていた。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「……そういうところは、シラスらしいね」
「褒めているのか?」
「半分くらいは」
「残りの半分は?」
「内緒!」
鈴は少しだけ笑った。
シラスも、口元をわずかに緩めた。
◇
その日の午後、二人は武器屋へ向かった。
店主は昨日と同じ場所で刃を研いでいた。
「おや、昨日の旅人か。連れの子は大丈夫だったか?」
「ああ。もう問題ない」
「それはよかった。あの金属片について、何か分かったか?」
「まだだ。もう少し詳しく調べたい」
店主は手を止め、店の奥から小さな木箱を持ってきた。
「実は、あれを持ち込んだ男が、もう一つ似たようなものを持っていたんだ」
シラスの目が細くなる。
「もう一つ?」
「ああ。そっちは金属板じゃなく、薄い円盤だった。傷だらけで、使い道も分からなかったから、別の店に持っていくと言っていた」
「どこの店か分かるか?」
「町の北側にある古物商だ。名前は……確か、ローヴェン商会だったかな」
シラスはその名前を記憶した。
「助かる。場所を教えてくれ」
店主が簡単な地図を描いてくれた。
シラスは礼を言い、鈴とともに店を出た。
「ねえ、シラス。円盤って、あの箱と関係あるのかな?」
「分からない。だが、同じ印が刻まれているなら、調べる価値はある」
「じゃあ、次はそこへ行くんだね」
「ああ。今日は場所を確認するだけにして、明日改めて訪ねよう」
「どうして今日行かないの?」
「すでに午後だ。相手が店を閉めていたら無駄足になる。それに、今日はお前もまだ本調子とは言えない」
「……もう平気なのに」
「なら、今夜は早く寝て、明日も元気でいられることを証明してくれ」
鈴は少し考え、それから頷いた。
「分かった。明日はちゃんと元気だからね!」
「期待しておく」
◇
ローヴェン商会は、町の北側にある細い通りに面していた。
建物は古く、入口の看板には、壺や装飾品、古い道具を描いた絵が並んでいる。
扉は閉まっていたが、窓越しに店内を見ると、棚には古い金属製品や壊れた時計のような道具が並んでいた。
シラスは看板と建物の位置を確認し、周囲を見渡した。
通りには人が少ない。
そのせいか、少し離れた角に立っている男の姿が目についた。
黒い外套を着た男だった。
顔はよく見えないが、こちらを見ているように感じられる。
シラスは目を細めた。
「……鈴、行くぞ」
「え? もう帰るの?」
「ああ。店は閉まっているし、今日は確認できた」
鈴は不思議そうに首を傾げたが、何も言わずに彼についていった。
二人が通りを曲がる直前、シラスはもう一度だけ振り返った。
黒い外套の男は、まだ同じ場所に立っていた。
目が合ったような気がした。
だが、男はすぐに顔を背け、建物の陰へ消えていった。
◇
宿屋へ戻った二人は、夕食を済ませてから部屋で休んでいた。
シラスは机の上に地図を広げ、ローヴェン商会の位置と、明日の予定を書き込んでいる。
鈴はベッドの上で膝を抱え、窓の外を眺めていた。
「……ねえ、シラス」
「今度は何だ?」
「明日、あの人たちと戦うことになったら、私も役に立てるかな」
シラスは筆記具を置いた。
「どうしてそう思う?」
「だって、いつもシラスが私を守ってくれるから。私も何かできるようになりたいんだ」
鈴は自分の手を見つめた。
「昨日、あの印に触れたときもそうだった。何かを思い出しかけたのに、何もできなかった。魔法だって、自分で使おうと思って使えるわけじゃないし……」
「鈴」
シラスは静かに呼びかけた。
「お前が無理に戦う必要はない」
「でも……」
「役に立つというのは、敵を倒すことだけじゃない。危険に気づいて知らせることも、退路を確保することも、十分に意味がある」
鈴は顔を上げた。
「……本当に?」
「ああ。お前が何かを思い出したなら、それも重要な手掛かりになる」
「……そっか」
鈴は少しだけ笑った。
「じゃあ、私にできることを探してみる」
「そうしてくれ。ただし、無理はするな」
「うん!」
シラスは地図を畳み、机の引き出しを開けた。
金属箱は、昨日と同じ場所にある。
円と二本の交差した線。
この町には、同じ印に関係する品物がほかにも存在しているらしい。
そして、鈴の記憶も、その印をきっかけに動き始めた。
明日は古物商を訪ね、円盤について調べる。
同時に、賞金稼ぎたちの動きにも注意しなければならない。
シラスは引き出しを閉じ、窓の外を見た。
夜のグラヴェスは、昼間よりも静かだった。
しかし、その静けさの向こう側で、誰かが彼らの行動を見守っている。
その人物が何を求めているのか。
そして、明日の決闘が本当に避けられるのか。
まだ、何も分からなかった。




