鈴の見た紋章
グラヴェスの朝は、昨日よりも騒がしかった。
宿屋の食堂では、傭兵たちが昨夜の騒動について話していた。壊れたテーブルの修理はまだ終わっていないらしく、壁際には木材や工具が積まれている。
シラスはそれを横目に見ながら、焼いたパンを口へ運んだ。
「……あの人たち、まだ話してるね」
隣に座る鈴が、小声で言った。
「何の話だ?」
「昨日のこと。賞金首が宿屋で暴れたって」
「正確には、俺を捕まえようとした連中が武器を抜いたんだがな」
「でも、みんながそう思ってくれるとは限らないでしょ?」
「そのとおりだ」
シラスは特に気にした様子もなく、スープを飲んだ。
噂というものは、一度広まれば簡単には消えない。話す者が増えるほど、事実と違う部分が付け加えられていく。
自分の名前がどのように語られていようと、今さら驚くことではなかった。
それでも、これ以上騒ぎが大きくなるのは避けたい。
「今日は買い物を済ませたら、町の様子を調べる。夕方までには宿へ戻るぞ」
「分かった。昨日言ってた薬も買うんだよね?」
「必要ならな」
「必要だよ。手首、まだ少し赤いもん」
鈴はそう言って、シラスの右手をじっと見つめた。
「……お前は本当に、そういうところをよく見ているな」
「シラスが隠そうとするからでしょ」
「隠しているつもりはない」
「じゃあ、ちゃんと手当てしてね」
鈴は満足そうに頷くと、残っていたパンを食べ始めた。
シラスはその様子を見て、わずかに口元を緩める。
昨日の戦闘で、彼女は怖い思いをしたはずだ。
それでも、朝になればいつものように食事をし、こちらの怪我を心配してくれる。
その強さは、魔法の力とは別のものなのかもしれなかった。
◇
食事を終えた二人は、宿屋を出て大通りへ向かった。
グラヴェスの市場には、朝から多くの店が並んでいる。
干し肉や乾燥野菜、旅人向けのパン。革製の水袋や、傷んだ装備を修理するための道具。商人たちは客を呼び込む声を上げ、買い物客は商品の値段を巡って交渉していた。
鈴は興味深そうに店先を眺めていたが、シラスは必要な物を優先して選んでいった。
水袋の予備。
包帯。
消毒用の薬草を混ぜた軟膏。
それから、日持ちする食料。
「……ねえ、シラス」
「何だ?」
「この町って、武器のお店が多いね」
「傭兵が多いからな。武器の需要も高いんだろう」
「見るだけなら、入ってもいい?」
「買うつもりがないなら、邪魔にならないようにしろよ」
「分かってる!」
鈴は嬉しそうに頷き、通りの角にある武器屋へ向かった。
店先には剣や槍が並び、壁には弓や盾が掛けられている。店の奥では、職人らしい男性が刃を研いでいた。
鈴は剣の柄を眺めたり、盾の形を見比べたりしていたが、やがて一枚の金属製の小さな板の前で足を止めた。
それは武器ではなかった。
古びた装飾品のような板で、表面には円と二本の交差した線が刻まれている。
シラスの目が細くなった。
「……これは」
旧街道で拾った金属片。
北部整理所の保管室で見つけた帳簿。
そして、金属箱の表面。
いずれにも、よく似た印があった。
「店主、この板は何だ?」
シラスが尋ねると、職人は研いでいた刃を置いた。
「それか? 古い金属片だよ。ずいぶん前に、町の北側から持ち込まれたものだ。売り物になるかと思ったが、用途が分からなくてな」
「北側?」
「ああ。古い建物が残っている辺りだ。拾った奴は、何かの部品じゃないかと言っていた」
シラスは板に触れず、刻印を観察した。
「これは、いつ頃持ち込まれた?」
「さあな。少なくとも、数か月前だったと思うが」
「持ち込んだ人間のことは覚えているか?」
「顔までは覚えていないな。旅装の男だった。金になりそうなものを探していたらしい」
それ以上の情報は得られなかった。
シラスは鈴を振り返った。
「鈴、どうした?」
彼女は答えなかった。
金属板を見つめたまま、動きを止めていた。
その顔から、さっきまでの好奇心が消えている。
「……鈴?」
シラスがもう一度呼ぶと、彼女の肩が小さく震えた。
「……分からない」
「何がだ?」
「この印……」
鈴はゆっくりと手を伸ばした。
シラスが止めるよりも早く、彼女の指先が金属板に触れた。
その瞬間だった。
◇
目の前の景色が、突然揺らいだ。
鈴の耳から、武器屋の音が遠ざかっていく。
職人が何かを言っている。
シラスが自分を呼んでいる。
それなのに、声がひどく遠い。
代わりに、聞こえたのは別の音だった。
硬い靴音。
石の床を走る足音。
誰かが、何かを叫んでいる。
鈴は目を見開いた。
見覚えのない部屋が、頭の中に浮かび上がる。
高い天井。
白い石壁。
壁に刻まれた、円と二本の交差した線。
その下には、いくつもの細い光が走る奇妙な模様が描かれていた。
誰かが、その中央に立っている。
顔は見えない。
ただ、白い光に包まれた手が、ゆっくりと持ち上げられるのが見えた。
そして、声がした。
『……まだ、開けてはならない』
誰の声なのか分からない。
低く、静かな声だった。
『その記録は……』
言葉が途切れる。
視界が激しく揺れた。
今度は、赤い光が見えた。
床に倒れた誰か。
散らばった紙。
燃え上がる炎。
そして、誰かが自分の名前を呼んでいる。
しかし、その名前だけが聞き取れなかった。
「……っ!」
鈴は息を呑み、金属板から手を離した。
膝から力が抜ける。
倒れそうになった体を、シラスが素早く支えた。
「鈴!」
「はっ……はぁ……」
鈴はシラスの外套をつかみ、荒い呼吸を繰り返した。
心臓が激しく鳴っている。
頭の奥が痛い。
目の前には、武器屋の壁と、心配そうな職人の顔があった。
さっきまで見えていた部屋は、もうどこにもない。
「おい、大丈夫か? 急に顔色が悪くなったぞ」
職人が慌てて声をかけた。
「……少し、驚いただけだと思う」
シラスはそう答えながら、鈴の顔を確かめた。
彼女の瞳は揺れている。
いつものように何かを見つけて興奮している様子ではない。
明らかに、何かを見たのだ。
「鈴、聞こえるか?」
「……うん」
「俺が分かるか?」
「何言ってるの……シラスでしょ?」
鈴は弱々しく答えた。
シラスは、ひとまず安堵した。
「頭は痛むか?」
「少し……でも、それより……」
鈴は金属板を見た。
その表情には、戸惑いと恐怖が入り混じっていた。
「私、今……何かを見たの」
シラスは彼女を支えたまま、静かに尋ねた。
「何が見えた?」
「分からない。でも……ここじゃない場所だった。大きな部屋で、壁にこの印があって……」
鈴は言葉を探すように、額へ手を当てた。
「誰かが、何かを言っていたの。『まだ、開けてはならない』って……」
シラスの目が細くなった。
「開けてはならない?」
「うん。それから、記録って……」
鈴は口を閉じた。
それ以上、言葉が出てこない。
思い出そうとすればするほど、頭の奥に鈍い痛みが広がっていく。
「……ごめん。これ以上は、分からない」
「謝る必要はない」
シラスは落ち着いた声で答えた。
「無理に思い出そうとするな。今は休め」
「でも……」
「鈴」
彼は彼女の目を見た。
「思い出したことがある。それだけでも、十分だ」
鈴はしばらく彼を見つめ、それから小さく頷いた。
◇
店主の厚意で、二人は店の奥にある椅子を借りた。
鈴は水を飲み、少しずつ呼吸を整えていた。
シラスは彼女の隣に座りながら、金属板を見つめていた。
この印が、単なる装飾ではない可能性は以前から考えていた。
しかし、鈴が触れたことで、これほど明確な反応を示すとは思っていなかった。
彼女は、この印を知っているのかもしれない。
いや、正確には、知っていた記憶がどこかに残っているのだろう。
だが、今回の出来事だけでは、印が何を意味するのかまでは分からない。
「……店主」
シラスは顔を上げた。
「この金属板を、しばらく調べさせてもらうことはできるか?」
「構わないが、壊すなよ。せっかく拾ってきた奴がいたんだ。何か価値があるかもしれないからな」
「分かった。傷つけるつもりはない」
シラスは金属板を布で包み、直接触れないようにした。
それから鈴へ視線を戻す。
「立てそうか?」
「うん。もう大丈夫」
そう答えた鈴だったが、立ち上がるとき、少しだけ体が揺れた。
シラスはすぐに腕を支えた。
「……やっぱり、少し休んでから帰る」
「そうしろ」
鈴は素直に頷いた。
しばらくして、彼女はぽつりと呟いた。
「ねえ、シラス」
「何だ?」
「私、前にもあの場所に行ったことがあるのかな」
シラスはすぐには答えなかった。
記憶の断片が、本当に過去の出来事なのか。それとも、印に触れたことで生じた別の反応なのか。
今の段階では、断定できない。
「その可能性はある。だが、今はまだ分からない」
「……そっか」
鈴は俯いた。
「もし、本当に私があそこにいたなら……どうして何も覚えていないんだろう」
「記憶を失った理由も、まだ分からないからな」
「うん……」
彼女の声が小さくなる。
シラスは、しばらく考えてから口を開いた。
「ただ、一つだけ分かったことがある」
「何?」
「お前の記憶は、完全に消えてしまったわけじゃないのかもしれない」
鈴が顔を上げた。
「……本当に?」
「今の反応が、記憶の一部を呼び起こしたものならな。だが、無理に確かめようとする必要はない」
「……うん」
鈴はゆっくりと頷いた。
不安が消えたわけではない。
むしろ、思い出せるかもしれないという期待が生まれたことで、以前よりも自分の過去が気になり始めていた。
それでも、少なくとも今は、一人で考え続けなくてもいい。
隣にはシラスがいる。
そのことが、彼女の気持ちを少しだけ落ち着かせていた。
◇
武器屋を出た頃には、太陽が少し傾き始めていた。
シラスは店主に礼を言い、鈴の歩調に合わせてゆっくりと通りを進んだ。
「……ごめんね。せっかく買い物に来たのに」
「何がだ?」
「私が急に具合を悪くしたから」
「だから、謝る必要はないと言っただろう」
「でも……」
「それより、今日はもう宿へ戻る。調べ物は明日でもできる」
鈴は少し驚いたように彼を見た。
「金属箱のことはいいの?」
「逃げないだろう」
「……それもそうだね」
鈴は小さく笑った。
その笑顔を見て、シラスはようやく肩の力を抜いた。
今は、彼女の記憶よりも体調を優先するべきだ。
思い出すことが、必ずしも良い結果につながるとは限らない。
記憶の中には、楽しかったことも、悲しかったことも、恐ろしいことも含まれているはずだ。
それを一度に取り戻そうとすれば、彼女自身が耐えられなくなる可能性もある。
焦る必要はない。
そう考えながら、シラスは通りの向こうを見た。
そのとき、店の前を通り過ぎた一人の男が、ふと足を止めた。
男は武器屋の窓から店内を覗き込み、店主に何かを尋ねている。
その手には、小さな紙片が握られていた。
遠目では文字までは読めない。
だが、男の視線が一度だけ、シラスと鈴の背中を追った。
シラスは歩みを止めなかった。
今は鈴の体調を優先する。
しかし、あの男の視線は、偶然通りかかった者のものには見えなかった。
◇
宿屋へ戻ると、鈴はベッドに腰を下ろし、深く息を吐いた。
「……疲れた」
「今日はよく休め。夕食は部屋へ運んでもらう」
「うん。ありがとう」
シラスは水袋を机に置き、窓の外を確認した。
町はいつもどおり賑わっている。
だが、昨日の賞金稼ぎたちが何もせず諦めたとは限らない。
それに、今日の武器屋での出来事も気になる。
金属板に触れた鈴が見た光景。
記録に関する声。
そして、最後に見かけた男の視線。
それらがすべて関係しているとは、まだ言えない。
だが、無関係だと決めつけることもできなかった。
「……シラス?」
鈴の声に、彼は振り返った。
「どうした?」
「もし、また何か思い出したら……ちゃんと話すね」
シラスは彼女を見つめた。
鈴はまだ不安そうだったが、その目には先ほどよりも強い意志が宿っていた。
「ああ。話せる範囲で構わない」
「うん」
鈴は布団を引き寄せ、横になった。
しばらくすると、彼女の呼吸が少しずつ穏やかになっていく。
シラスは窓際の椅子へ腰を下ろし、懐から書き写した記録を取り出した。
十二箱の受領。
十箱の移管。
原記録参照。
そして、円と二本の交差した線。
鈴が見たという場所にも、同じ印があった。
偶然とは思えない。
しかし、まだ結論を出すには早すぎる。
シラスは紙を畳み、外套の内側へしまった。
町のどこかで、誰かが彼らを見ている。
そして、鈴の失われた記憶は、少しずつ形を取り戻し始めていた。
次に彼女が思い出すものは、いったい何なのだろうか。
その答えは、まだ闇の中にあった。




