↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
47/58

鈴の見た紋章

グラヴェスの朝は、昨日よりも騒がしかった。


 宿屋の食堂では、傭兵たちが昨夜の騒動について話していた。壊れたテーブルの修理はまだ終わっていないらしく、壁際には木材や工具が積まれている。


 シラスはそれを横目に見ながら、焼いたパンを口へ運んだ。


「……あの人たち、まだ話してるね」


 隣に座る鈴が、小声で言った。


「何の話だ?」


「昨日のこと。賞金首が宿屋で暴れたって」


「正確には、俺を捕まえようとした連中が武器を抜いたんだがな」


「でも、みんながそう思ってくれるとは限らないでしょ?」


「そのとおりだ」


 シラスは特に気にした様子もなく、スープを飲んだ。


 噂というものは、一度広まれば簡単には消えない。話す者が増えるほど、事実と違う部分が付け加えられていく。


 自分の名前がどのように語られていようと、今さら驚くことではなかった。


 それでも、これ以上騒ぎが大きくなるのは避けたい。


「今日は買い物を済ませたら、町の様子を調べる。夕方までには宿へ戻るぞ」


「分かった。昨日言ってた薬も買うんだよね?」


「必要ならな」


「必要だよ。手首、まだ少し赤いもん」


 鈴はそう言って、シラスの右手をじっと見つめた。


「……お前は本当に、そういうところをよく見ているな」


「シラスが隠そうとするからでしょ」


「隠しているつもりはない」


「じゃあ、ちゃんと手当てしてね」


 鈴は満足そうに頷くと、残っていたパンを食べ始めた。


 シラスはその様子を見て、わずかに口元を緩める。


 昨日の戦闘で、彼女は怖い思いをしたはずだ。


 それでも、朝になればいつものように食事をし、こちらの怪我を心配してくれる。


 その強さは、魔法の力とは別のものなのかもしれなかった。


     ◇


 食事を終えた二人は、宿屋を出て大通りへ向かった。


 グラヴェスの市場には、朝から多くの店が並んでいる。


 干し肉や乾燥野菜、旅人向けのパン。革製の水袋や、傷んだ装備を修理するための道具。商人たちは客を呼び込む声を上げ、買い物客は商品の値段を巡って交渉していた。


 鈴は興味深そうに店先を眺めていたが、シラスは必要な物を優先して選んでいった。


 水袋の予備。


 包帯。


 消毒用の薬草を混ぜた軟膏。


 それから、日持ちする食料。


「……ねえ、シラス」


「何だ?」


「この町って、武器のお店が多いね」


「傭兵が多いからな。武器の需要も高いんだろう」


「見るだけなら、入ってもいい?」


「買うつもりがないなら、邪魔にならないようにしろよ」


「分かってる!」


 鈴は嬉しそうに頷き、通りの角にある武器屋へ向かった。


 店先には剣や槍が並び、壁には弓や盾が掛けられている。店の奥では、職人らしい男性が刃を研いでいた。


 鈴は剣の柄を眺めたり、盾の形を見比べたりしていたが、やがて一枚の金属製の小さな板の前で足を止めた。


 それは武器ではなかった。


 古びた装飾品のような板で、表面には円と二本の交差した線が刻まれている。


 シラスの目が細くなった。


「……これは」


 旧街道で拾った金属片。


 北部整理所の保管室で見つけた帳簿。


 そして、金属箱の表面。


 いずれにも、よく似た印があった。


「店主、この板は何だ?」


 シラスが尋ねると、職人は研いでいた刃を置いた。


「それか? 古い金属片だよ。ずいぶん前に、町の北側から持ち込まれたものだ。売り物になるかと思ったが、用途が分からなくてな」


「北側?」


「ああ。古い建物が残っている辺りだ。拾った奴は、何かの部品じゃないかと言っていた」


 シラスは板に触れず、刻印を観察した。


「これは、いつ頃持ち込まれた?」


「さあな。少なくとも、数か月前だったと思うが」


「持ち込んだ人間のことは覚えているか?」


「顔までは覚えていないな。旅装の男だった。金になりそうなものを探していたらしい」


 それ以上の情報は得られなかった。


 シラスは鈴を振り返った。


「鈴、どうした?」


 彼女は答えなかった。


 金属板を見つめたまま、動きを止めていた。


 その顔から、さっきまでの好奇心が消えている。


「……鈴?」


 シラスがもう一度呼ぶと、彼女の肩が小さく震えた。


「……分からない」


「何がだ?」


「この印……」


 鈴はゆっくりと手を伸ばした。


 シラスが止めるよりも早く、彼女の指先が金属板に触れた。


 その瞬間だった。


     ◇


 目の前の景色が、突然揺らいだ。


 鈴の耳から、武器屋の音が遠ざかっていく。


 職人が何かを言っている。


 シラスが自分を呼んでいる。


 それなのに、声がひどく遠い。


 代わりに、聞こえたのは別の音だった。


 硬い靴音。


 石の床を走る足音。


 誰かが、何かを叫んでいる。


 鈴は目を見開いた。


 見覚えのない部屋が、頭の中に浮かび上がる。


 高い天井。


 白い石壁。


 壁に刻まれた、円と二本の交差した線。


 その下には、いくつもの細い光が走る奇妙な模様が描かれていた。


 誰かが、その中央に立っている。


 顔は見えない。


 ただ、白い光に包まれた手が、ゆっくりと持ち上げられるのが見えた。


 そして、声がした。


『……まだ、開けてはならない』


 誰の声なのか分からない。


 低く、静かな声だった。


『その記録は……』


 言葉が途切れる。


 視界が激しく揺れた。


 今度は、赤い光が見えた。


 床に倒れた誰か。


 散らばった紙。


 燃え上がる炎。


 そして、誰かが自分の名前を呼んでいる。


 しかし、その名前だけが聞き取れなかった。


「……っ!」


 鈴は息を呑み、金属板から手を離した。


 膝から力が抜ける。


 倒れそうになった体を、シラスが素早く支えた。


「鈴!」


「はっ……はぁ……」


 鈴はシラスの外套をつかみ、荒い呼吸を繰り返した。


 心臓が激しく鳴っている。


 頭の奥が痛い。


 目の前には、武器屋の壁と、心配そうな職人の顔があった。


 さっきまで見えていた部屋は、もうどこにもない。


「おい、大丈夫か? 急に顔色が悪くなったぞ」


 職人が慌てて声をかけた。


「……少し、驚いただけだと思う」


 シラスはそう答えながら、鈴の顔を確かめた。


 彼女の瞳は揺れている。


 いつものように何かを見つけて興奮している様子ではない。


 明らかに、何かを見たのだ。


「鈴、聞こえるか?」


「……うん」


「俺が分かるか?」


「何言ってるの……シラスでしょ?」


 鈴は弱々しく答えた。


 シラスは、ひとまず安堵した。


「頭は痛むか?」


「少し……でも、それより……」


 鈴は金属板を見た。


 その表情には、戸惑いと恐怖が入り混じっていた。


「私、今……何かを見たの」


 シラスは彼女を支えたまま、静かに尋ねた。


「何が見えた?」


「分からない。でも……ここじゃない場所だった。大きな部屋で、壁にこの印があって……」


 鈴は言葉を探すように、額へ手を当てた。


「誰かが、何かを言っていたの。『まだ、開けてはならない』って……」


 シラスの目が細くなった。


「開けてはならない?」


「うん。それから、記録って……」


 鈴は口を閉じた。


 それ以上、言葉が出てこない。


 思い出そうとすればするほど、頭の奥に鈍い痛みが広がっていく。


「……ごめん。これ以上は、分からない」


「謝る必要はない」


 シラスは落ち着いた声で答えた。


「無理に思い出そうとするな。今は休め」


「でも……」


「鈴」


 彼は彼女の目を見た。


「思い出したことがある。それだけでも、十分だ」


 鈴はしばらく彼を見つめ、それから小さく頷いた。


     ◇


 店主の厚意で、二人は店の奥にある椅子を借りた。


 鈴は水を飲み、少しずつ呼吸を整えていた。


 シラスは彼女の隣に座りながら、金属板を見つめていた。


 この印が、単なる装飾ではない可能性は以前から考えていた。


 しかし、鈴が触れたことで、これほど明確な反応を示すとは思っていなかった。


 彼女は、この印を知っているのかもしれない。


 いや、正確には、知っていた記憶がどこかに残っているのだろう。


 だが、今回の出来事だけでは、印が何を意味するのかまでは分からない。


「……店主」


 シラスは顔を上げた。


「この金属板を、しばらく調べさせてもらうことはできるか?」


「構わないが、壊すなよ。せっかく拾ってきた奴がいたんだ。何か価値があるかもしれないからな」


「分かった。傷つけるつもりはない」


 シラスは金属板を布で包み、直接触れないようにした。


 それから鈴へ視線を戻す。


「立てそうか?」


「うん。もう大丈夫」


 そう答えた鈴だったが、立ち上がるとき、少しだけ体が揺れた。


 シラスはすぐに腕を支えた。


「……やっぱり、少し休んでから帰る」


「そうしろ」


 鈴は素直に頷いた。


 しばらくして、彼女はぽつりと呟いた。


「ねえ、シラス」


「何だ?」


「私、前にもあの場所に行ったことがあるのかな」


 シラスはすぐには答えなかった。


 記憶の断片が、本当に過去の出来事なのか。それとも、印に触れたことで生じた別の反応なのか。


 今の段階では、断定できない。


「その可能性はある。だが、今はまだ分からない」


「……そっか」


 鈴は俯いた。


「もし、本当に私があそこにいたなら……どうして何も覚えていないんだろう」


「記憶を失った理由も、まだ分からないからな」


「うん……」


 彼女の声が小さくなる。


 シラスは、しばらく考えてから口を開いた。


「ただ、一つだけ分かったことがある」


「何?」


「お前の記憶は、完全に消えてしまったわけじゃないのかもしれない」


 鈴が顔を上げた。


「……本当に?」


「今の反応が、記憶の一部を呼び起こしたものならな。だが、無理に確かめようとする必要はない」


「……うん」


 鈴はゆっくりと頷いた。


 不安が消えたわけではない。


 むしろ、思い出せるかもしれないという期待が生まれたことで、以前よりも自分の過去が気になり始めていた。


 それでも、少なくとも今は、一人で考え続けなくてもいい。


 隣にはシラスがいる。


 そのことが、彼女の気持ちを少しだけ落ち着かせていた。


     ◇


 武器屋を出た頃には、太陽が少し傾き始めていた。


 シラスは店主に礼を言い、鈴の歩調に合わせてゆっくりと通りを進んだ。


「……ごめんね。せっかく買い物に来たのに」


「何がだ?」


「私が急に具合を悪くしたから」


「だから、謝る必要はないと言っただろう」


「でも……」


「それより、今日はもう宿へ戻る。調べ物は明日でもできる」


 鈴は少し驚いたように彼を見た。


「金属箱のことはいいの?」


「逃げないだろう」


「……それもそうだね」


 鈴は小さく笑った。


 その笑顔を見て、シラスはようやく肩の力を抜いた。


 今は、彼女の記憶よりも体調を優先するべきだ。


 思い出すことが、必ずしも良い結果につながるとは限らない。


 記憶の中には、楽しかったことも、悲しかったことも、恐ろしいことも含まれているはずだ。


 それを一度に取り戻そうとすれば、彼女自身が耐えられなくなる可能性もある。


 焦る必要はない。


 そう考えながら、シラスは通りの向こうを見た。


 そのとき、店の前を通り過ぎた一人の男が、ふと足を止めた。


 男は武器屋の窓から店内を覗き込み、店主に何かを尋ねている。


 その手には、小さな紙片が握られていた。


 遠目では文字までは読めない。


 だが、男の視線が一度だけ、シラスと鈴の背中を追った。


 シラスは歩みを止めなかった。


 今は鈴の体調を優先する。


 しかし、あの男の視線は、偶然通りかかった者のものには見えなかった。


     ◇


 宿屋へ戻ると、鈴はベッドに腰を下ろし、深く息を吐いた。


「……疲れた」


「今日はよく休め。夕食は部屋へ運んでもらう」


「うん。ありがとう」


 シラスは水袋を机に置き、窓の外を確認した。


 町はいつもどおり賑わっている。


 だが、昨日の賞金稼ぎたちが何もせず諦めたとは限らない。


 それに、今日の武器屋での出来事も気になる。


 金属板に触れた鈴が見た光景。


 記録に関する声。


 そして、最後に見かけた男の視線。


 それらがすべて関係しているとは、まだ言えない。


 だが、無関係だと決めつけることもできなかった。


「……シラス?」


 鈴の声に、彼は振り返った。


「どうした?」


「もし、また何か思い出したら……ちゃんと話すね」


 シラスは彼女を見つめた。


 鈴はまだ不安そうだったが、その目には先ほどよりも強い意志が宿っていた。


「ああ。話せる範囲で構わない」


「うん」


 鈴は布団を引き寄せ、横になった。


 しばらくすると、彼女の呼吸が少しずつ穏やかになっていく。


 シラスは窓際の椅子へ腰を下ろし、懐から書き写した記録を取り出した。


 十二箱の受領。


 十箱の移管。


 原記録参照。


 そして、円と二本の交差した線。


 鈴が見たという場所にも、同じ印があった。


 偶然とは思えない。


 しかし、まだ結論を出すには早すぎる。


 シラスは紙を畳み、外套の内側へしまった。


 町のどこかで、誰かが彼らを見ている。


 そして、鈴の失われた記憶は、少しずつ形を取り戻し始めていた。


 次に彼女が思い出すものは、いったい何なのだろうか。


 その答えは、まだ闇の中にあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。