↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/50

連れていくつもりはない

森を抜ける頃には、太陽が西へ傾き始めていた。


木々の隙間から差し込む光は、昼間の白さを失い、淡い金色に変わっている。湿った土の匂いに混じって、草花の青い香りが漂っていた。


シラスは歩く速度を落とさなかった。


背後から聞こえる足音が、少しずつ不規則になっていることには気づいていた。


「……シラス」


「何だ」


「足が痛い」


「そうか」


「……それだけ?」


「痛いなら、少し休めばいいだろう」


「シラスは休まないの?」


「俺はまだ歩ける」


「わたしも歩けるよ。でも、足が痛いの」


シラスは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。


少女は両手を腰に当て、少し不満そうに彼を見上げていた。


白い髪は森を歩いたせいで少し乱れ、低い位置で結んだ二つの髪束から、細い毛が頬にかかっている。旅装束の裾には泥がつき、ブーツにも乾きかけた土がこびりついていた。


それでも、青い瞳だけは妙にはっきりと輝いていた。


「……お前、さっきまで魔狼を吹き飛ばしていた人間とは思えないな」


「わたしだって、足は痛くなるよ!」


「それもそうか」


シラスは小さく息を吐いた。


あの魔狼を追い払った力は、今思い返しても理解できない。


それほどの魔力を持っているなら、身体能力にも何かしらの異常があるのではないか。そんな考えが一瞬頭をよぎったが、目の前の少女はどう見ても普通の少女だった。


少なくとも、歩き疲れて不満を言う程度には。


「少しだけ休む。だが、ここから動くな」


「分かった!」


返事だけは妙に元気だった。


シラスは街道脇の大きな岩に腰を下ろし、背負っていた荷物を膝の上に置いた。


袋から水筒を取り出し、一口飲む。


その間、少女は少し離れた場所で周囲を見回していた。


木の根元に咲く小さな花を見つけてしゃがみ込んだかと思えば、すぐに立ち上がり、今度は道端の石を拾い上げて眺めている。


「……落ち着きのない奴だな」


「え? 何か言った?」


「何でもない」


少女は石を元の場所に戻すと、シラスの隣までやってきた。


「ねえ、シラス」


「今度は何だ」


「わたしたち、どこに向かっているの?」


「街道だ」


「それは聞いたよ。その先は?」


「知らん」


「知らないの?」


「俺はお前の案内人じゃない」


少女は目を丸くした。


それから、少し考え込むように視線を落とした。


「……じゃあ、わたし、これからどうすればいいんだろう」


その声には、先ほどまでの明るさがなかった。


シラスは水筒の蓋を閉めた。


少女は自分の手を見つめていた。細い指が、無意識に握られたり開かれたりしている。


記憶を失っている。


名前も、家も、自分がどこから来たのかも分からない。


それに加えて、本人にも制御できないほどの魔法を使ってしまった。


そんな人間が、一人で旅を続けられるとは思えなかった。


だが、それはシラスが責任を負うべき問題ではない。


「近くの街まで行けば、冒険者ギルドがある。そこで事情を話せば、保護してくれる人間が見つかるかもしれない」


「シラスは?」


「俺は行かない」


少女は顔を上げた。


「どうして?」


「用事がある」


「どんな用事?」


「お前に話す必要はない」


「……そっか」


少女は小さく頷いた。


それ以上、何も聞いてこなかった。


その反応に、シラスはわずかに眉を寄せた。


もっと食い下がってくると思っていたのだ。


記憶を失った少女が、見知らぬ森で出会った人間に頼ろうとする。それ自体は不思議ではない。


しかし、彼女はそれ以上何も言わず、ただ自分の膝を見つめていた。


シラスは立ち上がった。


「休憩は終わりだ。行くぞ」


「うん」


少女は素直に返事をした。


その後、二人はしばらく無言で歩いた。


街道に出ると、森の中よりも視界が開けた。遠くにはなだらかな丘が続き、その向こうに、煙を上げる小さな集落が見える。


大きな街ではない。


だが、宿屋と食料を扱う店くらいはあるだろう。


シラスは集落の方角を確認したあと、街道の分かれ道で足を止めた。


右へ進めば集落。


左へ進めば、さらに西へ続く旧街道だった。


シラスは迷わず左を選んだ。


「じゃあ、俺はこっちだ」


少女が瞬きをした。


「え?」


「お前はあの集落へ行け。人がいる場所なら、誰かに助けを求められる」


シラスは右側を指さした。


「道なりに進めば着くはずだ。暗くなる前に入れ」


少女は集落とシラスを交互に見た。


「……シラスは、そっちへ行くの?」


「ああ」


「一緒に来てくれないの?」


「ここまでだと言ったはずだ」


少女は唇を結んだ。


何かを言おうとして、やめる。


その表情を見て、シラスはわずかに視線を逸らした。


泣かれると面倒だ。


怒られても面倒だ。


ましてや、別れを惜しまれるほど親しくなった覚えもない。


だから、できるだけ簡潔に告げた。


「お前には、お前の行く場所がある。俺には俺の事情がある。それだけだ」


「……うん」


少女は頷いた。


「分かった」


その声は、驚くほど静かだった。


彼女は一歩下がり、シラスに背を向けた。


白い髪が夕方の風に揺れる。


小さな背中が、集落へ続く道の方へ向かっていく。


シラスはその姿を見送った。


これでいい。


見知らぬ少女を助ける義理はない。


自分には自分の問題がある。指名手配は続いているし、賞金稼ぎがどこまで迫っているかも分からない。


誰かを連れて歩けば、危険は増える。


ましてや、あれほど異常な魔法を使う少女なら、なおさらだ。


シラスは踵を返した。


そして、歩き出した。


一歩。


二歩。


三歩。


背後から足音は聞こえない。


当たり前だ。


少女は別の道へ向かったのだから。


それなのに、胸の奥に小さな違和感が残った。


シラスは眉をひそめた。


「……くだらない」


自分に言い聞かせるように呟き、そのまま進んだ。


しばらく歩いたところで、彼は街道脇の古い道標を見つけた。


石造りの柱は傾き、刻まれていた文字も半分以上が削れている。


その根元には、旅人が捨てたと思われる木箱が転がっていた。


シラスは周囲を確認し、箱の影に腰を下ろした。


ここなら街道から姿が見えにくい。夜になるまで待ち、暗くなってから移動すればいい。


彼は荷物を下ろし、干し肉と硬いパンを取り出した。


一人分の食事。


いつも通りだ。


パンを一口かじる。


硬い。


水で流し込み、干し肉を噛む。


味気ない食事だったが、腹を満たすには十分だった。


……十分なはずだった。


シラスは、ふと手を止めた。


頭に浮かんだのは、先ほどの少女の顔だった。


足が痛いと不満を言っていた顔。


自分の名前が分からないと困っていた顔。


そして、別れを告げたときの、あの静かな表情。


「……はあ」


彼は深いため息をついた。


自分でも理由が分からない。


あの少女は、もう集落へ向かっている。


人がいる場所に着けば、誰かが面倒を見てくれるだろう。記憶喪失の人間を保護する制度が、この地方にどれほど整っているかは知らないが、少なくとも自分よりは頼りになる人間が見つかるはずだ。


それでいい。


何も問題はない。


シラスは残りのパンを口に押し込んだ。


そのとき。


「……お腹、空いた」


聞き覚えのある声がした。


シラスの動きが止まった。


ゆっくりと顔を上げる。


道標の向こう側。


そこに、白い髪の少女が立っていた。


両手をお腹に当て、じっとシラスを見つめている。


「…………」


シラスは無言だった。


少女も、無言だった。


数秒後、シラスが口を開いた。


「……何でいる」


少女は少しだけ首を傾げた。


「こっちに来たから」


「見れば分かる」


「じゃあ、聞かなくてもよかったね」


「そういう意味じゃない!」


思わず声を荒らげてしまった。


少女はびくりと肩を跳ねさせたあと、困ったように笑った。


「えっと……道が分からなくなっちゃって」


「道は一本だっただろうが!」


「分かれ道があったよ?」


「右へ行けと言っただろ!」


「うん。でも、シラスは左に行ったでしょ?」


「それがどうした」


「だから、わたしも左に行けば、また会えるかなって」


シラスは言葉を失った。


意味が分からない。


いや、言葉の意味自体は分かる。


分かるからこそ、頭が痛くなった。


「……お前、わざと俺を追ってきたのか?」


少女は少し考えてから、こくりと頷いた。


「うん」


「なぜだ」


「だって、知らない場所で一人になるのは怖いから」


あまりにも単純な答えだった。


少女は視線を落とし、両手をぎゅっと握った。


「誰も知らないし、自分のことも分からないし……さっきの魔法だって、また使えるかどうか分からない。もし、また魔物が出てきたら……」


そこで言葉が途切れた。


彼女は唇を噛んだ。


「……ごめんなさい。困らせるつもりじゃなかったの」


シラスは何も言えなかった。


少女の言葉は、もっともだった。


記憶を失った人間が、見知らぬ土地で一人になることを恐れる。


それは自然なことだ。


だが、自然だからといって、自分が面倒を見る理由にはならない。


「俺と一緒にいても、安全とは限らない」


シラスは、できるだけ冷静に告げた。


「俺は普通の旅人じゃない。追われている身だ。お前がそばにいれば、余計な危険に巻き込まれる可能性がある」


少女は顔を上げた。


「追われてるの?」


「……ああ」


「悪いことをしたの?」


その質問に、シラスの表情がわずかに硬くなった。


少女に悪意はない。


ただ、知らないから聞いただけだ。


それでも、その言葉は胸の奥に小さな棘のように刺さった。


「……そういうことになっている」


「そういうこと?」


「詳しく話すつもりはない」


少女はしばらく彼を見つめていた。


やがて、ゆっくりと頷いた。


「分かった。今は聞かない」


シラスは少しだけ意外に思った。


もっと問い詰めてくるかと思っていた。


だが、少女はそれ以上聞かなかった。


代わりに、彼の手元へ視線を移した。


「……それ、食べ物?」


「そうだ」


「パン?」


「見れば分かるだろう」


「わたし、お腹が空いてるんだけど……」


「……」


シラスは天を仰いだ。


話を真面目に終わらせようとしたところで、結局そこへ戻るのか。


「さっき、俺の分だと言ったはずだ」


「うん」


「分けるつもりはない」


「……そっか」


少女は小さく頷いた。


それから、すぐ近くの木箱に腰を下ろした。


「じゃあ、シラスが食べ終わるまで待ってるね」


「待つな」


「でも、お腹が空いたから」


「俺の食事を待っても、お前の腹は膨れないぞ」


「うん。だから、食べ終わったら一緒に食べ物を探しに行こうと思って」


シラスは再び言葉を失った。


この少女は、どうしてこうも話が通じないのだろう。


いや、話は通じている。


通じているうえで、自分の望む方向へ進んでいるのだ。


「……お前な」


シラスは残った干し肉を見つめた。


一人分の食料。


明日以降のことを考えれば、簡単に分けるわけにはいかない。


しかし、目の前の少女は、今日の食事すら持っていない。


このまま放置すれば、夜になる前に空腹で動けなくなるかもしれない。


森には魔物がいる。


少女があの魔法をもう一度使える保証もない。


シラスは、ひどく不愉快な気分になった。


なぜ自分が、こんなことで悩まなければならないのか。


「……一切れだけだ」


少女が顔を上げた。


「え?」


「干し肉を一切れだけやる。それを食べたら、集落へ戻れ」


シラスは袋から干し肉を取り出し、少女へ差し出した。


少女は驚いたように目を見開いた。


そして、両手でそれを受け取った。


「……いいの?」


「気が変わる前に食べろ」


「ありがとう、シラス!」


少女の顔が、ぱっと明るくなった。


その笑顔を見た瞬間、シラスはなぜか視線を逸らした。


大したことをしたわけではない。


干し肉を一切れ渡しただけだ。


それなのに、あんなに嬉しそうな顔をされると、ひどく居心地が悪い。


少女は干し肉を小さくかじった。


何度か噛み、ゆっくりと飲み込む。


そして、ほっとしたように息を吐いた。


「おいしい……」


「ただの干し肉だぞ」


「うん。でも、おいしいよ」


少女は残りを大切そうに食べた。


最後の一口を飲み込むと、彼女は小さく頭を下げた。


「ごちそうさまでした」


その仕草は、妙に丁寧だった。


どこかで礼儀作法を教わったことがあるのかもしれない。


記憶はなくても、身体に染みついた習慣は残っているのだろうか。


シラスは、そんなことを考えた。


「……さて」


彼は立ち上がり、荷物を肩にかけた。


「もう行け。集落はあっちだ」


少女は立ち上がらなかった。


「……行かないのか?」


「うん」


「なぜだ」


少女は、まっすぐにシラスを見上げた。


「わたし、あなたと一緒に行きたい」


シラスは目を閉じた。


やはり、そうなるのか。


「駄目だ」


「どうして?」


「危険だからだ」


「さっきも聞いたよ。でも、わたし、シラスと一緒にいたいの」


「俺はお前を守る約束なんてしていない」


「うん。だから、守ってもらうだけじゃなくて、わたしも何かできるようになりたい」


その言葉に、シラスは黙った。


少女は自分の手を見つめた。


「さっきの魔法も、どうして使えたのか分からない。でも、もしまた使えるなら……誰かを助けることもできるのかな?」


彼女は顔を上げた。


「わたし、自分のことを何も覚えていない。どこへ行けばいいのかも分からない。でも、何もできないまま、誰かに助けてもらうだけなのは嫌なの」


夕暮れの風が吹いた。


白い髪が揺れ、少女の青い瞳に、沈みかけた太陽の光が映った。


シラスは、すぐには答えなかった。


あの魔力を思い出す。


あれほどの力を持ちながら、少女は自分が何者なのかも分かっていない。


もし、その力を狙う人間が現れたら。


もし、彼女が力を制御できず、誰かを傷つけてしまったら。


考えるべき問題はいくつもあった。


だが、それ以上に気になったことがある。


彼女は、ただ守られることを望んでいるわけではない。


自分の足で歩こうとしている。


たとえ、どこへ向かえばいいのか分からなくても。


「……好きにしろ」


シラスは、ぶっきらぼうに言った。


少女の顔が明るくなる。


「じゃあ――」


「ただし、俺についてくるなら約束がある」


「約束?」


「勝手に走り出すな。危険を感じたら、俺の指示に従え。そして、分からないことを無理に一人で解決しようとするな」


少女は真剣な顔で頷いた。


「分かった!」


「それから、俺が危険だと判断したら、すぐに離れること。いいな?」


「……うん」


最後の条件だけ、少女は少しだけ不満そうだった。


それでも、彼女は頷いた。


シラスはため息をついた。


「勘違いするな。これは同行を認めたわけじゃない。次の街までだ。それ以上は知らん」


「うん!」


「……本当に分かっているのか?」


「次の街まで一緒なんでしょ?」


「そうだ」


「じゃあ、その間に、わたしの名前を思い出す方法も探せるかもしれないね!」


「……お前は本当に都合よく解釈するな」


少女は嬉しそうに笑った。


「そうかな?」


「そうだ」


シラスは歩き始めた。


今度は、背後から二つの足音が聞こえてくる。


一つは自分のもの。


もう一つは、少し軽く、時々リズムが乱れる少女のものだった。


彼は振り返らなかった。


ただ、歩く速度をほんの少しだけ落とした。


少女が隣に並ぶ。


「ねえ、シラス」


「今度は何だ」


「わたし、まだ名前がないから……呼ぶとき、困るよね?」


「……そうだな」


「何か呼び方を決めた方がいいかな?」


シラスは少し考えた。


名前を思い出すまでの仮の呼び方。


どうせ次の街までの短い付き合いだ。


余計な意味を持たせる必要はない。


「……おい、でいいだろ」


少女は足を止めた。


「えっ?」


「聞こえなかったか?」


「聞こえたよ! でも、それは名前じゃないよ!」


「名前が分からないんだから仕方ないだろ」


「仕方なくない!」


少女は頬を膨らませた。


「せめて、もうちょっと可愛い呼び方にしてよ!」


「……注文の多い奴だな」


シラスは面倒そうに頭を掻いた。


「なら、好きな呼び方を自分で考えろ」


「えー……」


少女は唸りながら考え始めた。


その様子を横目で見て、シラスは小さく息を吐いた。


自分の生活に、こんな騒がしい人間が加わるとは思ってもいなかった。


ましてや、魔狼を吹き飛ばすほどの魔法を持ち、名前すら忘れてしまった少女だ。


厄介事の塊と言ってもいい。


それなのに。


彼女の足音が隣にあることを、先ほどほど不愉快には感じなかった。


「……明日は早く出るぞ」


シラスが告げる。


少女は顔を上げた。


「うん!」


「だから、今日は余計なことをせずに休め」


「分かった!」


返事をした直後、少女は小さく付け加えた。


「……あのね、シラス」


「まだあるのか」


「明日も、干し肉を一切れくれる?」


「自分で食料を調達する方法を覚えろ」


「……けち」


「聞こえているぞ」


少女は、くすくすと笑った。


夕暮れの街道を、二人の影が並んで伸びていく。


まだ信頼と呼べるほどのものはない。


シラスは少女を厄介者だと思っているし、少女も彼が本当はどんな人間なのか知らない。


それでも、ほんの少しだけ。


二人の間にあった距離は、出会ったときよりも縮まっていた。


そして、彼らが向かう先には、まだ互いの知らない危険が待っている。


シラスが追われる理由も。


少女が記憶を失った理由も。


その答えは、まだ遠い。


今はただ、次の街を目指して歩き続けるだけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。