連れていくつもりはない
森を抜ける頃には、太陽が西へ傾き始めていた。
木々の隙間から差し込む光は、昼間の白さを失い、淡い金色に変わっている。湿った土の匂いに混じって、草花の青い香りが漂っていた。
シラスは歩く速度を落とさなかった。
背後から聞こえる足音が、少しずつ不規則になっていることには気づいていた。
「……シラス」
「何だ」
「足が痛い」
「そうか」
「……それだけ?」
「痛いなら、少し休めばいいだろう」
「シラスは休まないの?」
「俺はまだ歩ける」
「わたしも歩けるよ。でも、足が痛いの」
シラスは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
少女は両手を腰に当て、少し不満そうに彼を見上げていた。
白い髪は森を歩いたせいで少し乱れ、低い位置で結んだ二つの髪束から、細い毛が頬にかかっている。旅装束の裾には泥がつき、ブーツにも乾きかけた土がこびりついていた。
それでも、青い瞳だけは妙にはっきりと輝いていた。
「……お前、さっきまで魔狼を吹き飛ばしていた人間とは思えないな」
「わたしだって、足は痛くなるよ!」
「それもそうか」
シラスは小さく息を吐いた。
あの魔狼を追い払った力は、今思い返しても理解できない。
それほどの魔力を持っているなら、身体能力にも何かしらの異常があるのではないか。そんな考えが一瞬頭をよぎったが、目の前の少女はどう見ても普通の少女だった。
少なくとも、歩き疲れて不満を言う程度には。
「少しだけ休む。だが、ここから動くな」
「分かった!」
返事だけは妙に元気だった。
シラスは街道脇の大きな岩に腰を下ろし、背負っていた荷物を膝の上に置いた。
袋から水筒を取り出し、一口飲む。
その間、少女は少し離れた場所で周囲を見回していた。
木の根元に咲く小さな花を見つけてしゃがみ込んだかと思えば、すぐに立ち上がり、今度は道端の石を拾い上げて眺めている。
「……落ち着きのない奴だな」
「え? 何か言った?」
「何でもない」
少女は石を元の場所に戻すと、シラスの隣までやってきた。
「ねえ、シラス」
「今度は何だ」
「わたしたち、どこに向かっているの?」
「街道だ」
「それは聞いたよ。その先は?」
「知らん」
「知らないの?」
「俺はお前の案内人じゃない」
少女は目を丸くした。
それから、少し考え込むように視線を落とした。
「……じゃあ、わたし、これからどうすればいいんだろう」
その声には、先ほどまでの明るさがなかった。
シラスは水筒の蓋を閉めた。
少女は自分の手を見つめていた。細い指が、無意識に握られたり開かれたりしている。
記憶を失っている。
名前も、家も、自分がどこから来たのかも分からない。
それに加えて、本人にも制御できないほどの魔法を使ってしまった。
そんな人間が、一人で旅を続けられるとは思えなかった。
だが、それはシラスが責任を負うべき問題ではない。
「近くの街まで行けば、冒険者ギルドがある。そこで事情を話せば、保護してくれる人間が見つかるかもしれない」
「シラスは?」
「俺は行かない」
少女は顔を上げた。
「どうして?」
「用事がある」
「どんな用事?」
「お前に話す必要はない」
「……そっか」
少女は小さく頷いた。
それ以上、何も聞いてこなかった。
その反応に、シラスはわずかに眉を寄せた。
もっと食い下がってくると思っていたのだ。
記憶を失った少女が、見知らぬ森で出会った人間に頼ろうとする。それ自体は不思議ではない。
しかし、彼女はそれ以上何も言わず、ただ自分の膝を見つめていた。
シラスは立ち上がった。
「休憩は終わりだ。行くぞ」
「うん」
少女は素直に返事をした。
その後、二人はしばらく無言で歩いた。
街道に出ると、森の中よりも視界が開けた。遠くにはなだらかな丘が続き、その向こうに、煙を上げる小さな集落が見える。
大きな街ではない。
だが、宿屋と食料を扱う店くらいはあるだろう。
シラスは集落の方角を確認したあと、街道の分かれ道で足を止めた。
右へ進めば集落。
左へ進めば、さらに西へ続く旧街道だった。
シラスは迷わず左を選んだ。
「じゃあ、俺はこっちだ」
少女が瞬きをした。
「え?」
「お前はあの集落へ行け。人がいる場所なら、誰かに助けを求められる」
シラスは右側を指さした。
「道なりに進めば着くはずだ。暗くなる前に入れ」
少女は集落とシラスを交互に見た。
「……シラスは、そっちへ行くの?」
「ああ」
「一緒に来てくれないの?」
「ここまでだと言ったはずだ」
少女は唇を結んだ。
何かを言おうとして、やめる。
その表情を見て、シラスはわずかに視線を逸らした。
泣かれると面倒だ。
怒られても面倒だ。
ましてや、別れを惜しまれるほど親しくなった覚えもない。
だから、できるだけ簡潔に告げた。
「お前には、お前の行く場所がある。俺には俺の事情がある。それだけだ」
「……うん」
少女は頷いた。
「分かった」
その声は、驚くほど静かだった。
彼女は一歩下がり、シラスに背を向けた。
白い髪が夕方の風に揺れる。
小さな背中が、集落へ続く道の方へ向かっていく。
シラスはその姿を見送った。
これでいい。
見知らぬ少女を助ける義理はない。
自分には自分の問題がある。指名手配は続いているし、賞金稼ぎがどこまで迫っているかも分からない。
誰かを連れて歩けば、危険は増える。
ましてや、あれほど異常な魔法を使う少女なら、なおさらだ。
シラスは踵を返した。
そして、歩き出した。
一歩。
二歩。
三歩。
背後から足音は聞こえない。
当たり前だ。
少女は別の道へ向かったのだから。
それなのに、胸の奥に小さな違和感が残った。
シラスは眉をひそめた。
「……くだらない」
自分に言い聞かせるように呟き、そのまま進んだ。
しばらく歩いたところで、彼は街道脇の古い道標を見つけた。
石造りの柱は傾き、刻まれていた文字も半分以上が削れている。
その根元には、旅人が捨てたと思われる木箱が転がっていた。
シラスは周囲を確認し、箱の影に腰を下ろした。
ここなら街道から姿が見えにくい。夜になるまで待ち、暗くなってから移動すればいい。
彼は荷物を下ろし、干し肉と硬いパンを取り出した。
一人分の食事。
いつも通りだ。
パンを一口かじる。
硬い。
水で流し込み、干し肉を噛む。
味気ない食事だったが、腹を満たすには十分だった。
……十分なはずだった。
シラスは、ふと手を止めた。
頭に浮かんだのは、先ほどの少女の顔だった。
足が痛いと不満を言っていた顔。
自分の名前が分からないと困っていた顔。
そして、別れを告げたときの、あの静かな表情。
「……はあ」
彼は深いため息をついた。
自分でも理由が分からない。
あの少女は、もう集落へ向かっている。
人がいる場所に着けば、誰かが面倒を見てくれるだろう。記憶喪失の人間を保護する制度が、この地方にどれほど整っているかは知らないが、少なくとも自分よりは頼りになる人間が見つかるはずだ。
それでいい。
何も問題はない。
シラスは残りのパンを口に押し込んだ。
そのとき。
「……お腹、空いた」
聞き覚えのある声がした。
シラスの動きが止まった。
ゆっくりと顔を上げる。
道標の向こう側。
そこに、白い髪の少女が立っていた。
両手をお腹に当て、じっとシラスを見つめている。
「…………」
シラスは無言だった。
少女も、無言だった。
数秒後、シラスが口を開いた。
「……何でいる」
少女は少しだけ首を傾げた。
「こっちに来たから」
「見れば分かる」
「じゃあ、聞かなくてもよかったね」
「そういう意味じゃない!」
思わず声を荒らげてしまった。
少女はびくりと肩を跳ねさせたあと、困ったように笑った。
「えっと……道が分からなくなっちゃって」
「道は一本だっただろうが!」
「分かれ道があったよ?」
「右へ行けと言っただろ!」
「うん。でも、シラスは左に行ったでしょ?」
「それがどうした」
「だから、わたしも左に行けば、また会えるかなって」
シラスは言葉を失った。
意味が分からない。
いや、言葉の意味自体は分かる。
分かるからこそ、頭が痛くなった。
「……お前、わざと俺を追ってきたのか?」
少女は少し考えてから、こくりと頷いた。
「うん」
「なぜだ」
「だって、知らない場所で一人になるのは怖いから」
あまりにも単純な答えだった。
少女は視線を落とし、両手をぎゅっと握った。
「誰も知らないし、自分のことも分からないし……さっきの魔法だって、また使えるかどうか分からない。もし、また魔物が出てきたら……」
そこで言葉が途切れた。
彼女は唇を噛んだ。
「……ごめんなさい。困らせるつもりじゃなかったの」
シラスは何も言えなかった。
少女の言葉は、もっともだった。
記憶を失った人間が、見知らぬ土地で一人になることを恐れる。
それは自然なことだ。
だが、自然だからといって、自分が面倒を見る理由にはならない。
「俺と一緒にいても、安全とは限らない」
シラスは、できるだけ冷静に告げた。
「俺は普通の旅人じゃない。追われている身だ。お前がそばにいれば、余計な危険に巻き込まれる可能性がある」
少女は顔を上げた。
「追われてるの?」
「……ああ」
「悪いことをしたの?」
その質問に、シラスの表情がわずかに硬くなった。
少女に悪意はない。
ただ、知らないから聞いただけだ。
それでも、その言葉は胸の奥に小さな棘のように刺さった。
「……そういうことになっている」
「そういうこと?」
「詳しく話すつもりはない」
少女はしばらく彼を見つめていた。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「分かった。今は聞かない」
シラスは少しだけ意外に思った。
もっと問い詰めてくるかと思っていた。
だが、少女はそれ以上聞かなかった。
代わりに、彼の手元へ視線を移した。
「……それ、食べ物?」
「そうだ」
「パン?」
「見れば分かるだろう」
「わたし、お腹が空いてるんだけど……」
「……」
シラスは天を仰いだ。
話を真面目に終わらせようとしたところで、結局そこへ戻るのか。
「さっき、俺の分だと言ったはずだ」
「うん」
「分けるつもりはない」
「……そっか」
少女は小さく頷いた。
それから、すぐ近くの木箱に腰を下ろした。
「じゃあ、シラスが食べ終わるまで待ってるね」
「待つな」
「でも、お腹が空いたから」
「俺の食事を待っても、お前の腹は膨れないぞ」
「うん。だから、食べ終わったら一緒に食べ物を探しに行こうと思って」
シラスは再び言葉を失った。
この少女は、どうしてこうも話が通じないのだろう。
いや、話は通じている。
通じているうえで、自分の望む方向へ進んでいるのだ。
「……お前な」
シラスは残った干し肉を見つめた。
一人分の食料。
明日以降のことを考えれば、簡単に分けるわけにはいかない。
しかし、目の前の少女は、今日の食事すら持っていない。
このまま放置すれば、夜になる前に空腹で動けなくなるかもしれない。
森には魔物がいる。
少女があの魔法をもう一度使える保証もない。
シラスは、ひどく不愉快な気分になった。
なぜ自分が、こんなことで悩まなければならないのか。
「……一切れだけだ」
少女が顔を上げた。
「え?」
「干し肉を一切れだけやる。それを食べたら、集落へ戻れ」
シラスは袋から干し肉を取り出し、少女へ差し出した。
少女は驚いたように目を見開いた。
そして、両手でそれを受け取った。
「……いいの?」
「気が変わる前に食べろ」
「ありがとう、シラス!」
少女の顔が、ぱっと明るくなった。
その笑顔を見た瞬間、シラスはなぜか視線を逸らした。
大したことをしたわけではない。
干し肉を一切れ渡しただけだ。
それなのに、あんなに嬉しそうな顔をされると、ひどく居心地が悪い。
少女は干し肉を小さくかじった。
何度か噛み、ゆっくりと飲み込む。
そして、ほっとしたように息を吐いた。
「おいしい……」
「ただの干し肉だぞ」
「うん。でも、おいしいよ」
少女は残りを大切そうに食べた。
最後の一口を飲み込むと、彼女は小さく頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
その仕草は、妙に丁寧だった。
どこかで礼儀作法を教わったことがあるのかもしれない。
記憶はなくても、身体に染みついた習慣は残っているのだろうか。
シラスは、そんなことを考えた。
「……さて」
彼は立ち上がり、荷物を肩にかけた。
「もう行け。集落はあっちだ」
少女は立ち上がらなかった。
「……行かないのか?」
「うん」
「なぜだ」
少女は、まっすぐにシラスを見上げた。
「わたし、あなたと一緒に行きたい」
シラスは目を閉じた。
やはり、そうなるのか。
「駄目だ」
「どうして?」
「危険だからだ」
「さっきも聞いたよ。でも、わたし、シラスと一緒にいたいの」
「俺はお前を守る約束なんてしていない」
「うん。だから、守ってもらうだけじゃなくて、わたしも何かできるようになりたい」
その言葉に、シラスは黙った。
少女は自分の手を見つめた。
「さっきの魔法も、どうして使えたのか分からない。でも、もしまた使えるなら……誰かを助けることもできるのかな?」
彼女は顔を上げた。
「わたし、自分のことを何も覚えていない。どこへ行けばいいのかも分からない。でも、何もできないまま、誰かに助けてもらうだけなのは嫌なの」
夕暮れの風が吹いた。
白い髪が揺れ、少女の青い瞳に、沈みかけた太陽の光が映った。
シラスは、すぐには答えなかった。
あの魔力を思い出す。
あれほどの力を持ちながら、少女は自分が何者なのかも分かっていない。
もし、その力を狙う人間が現れたら。
もし、彼女が力を制御できず、誰かを傷つけてしまったら。
考えるべき問題はいくつもあった。
だが、それ以上に気になったことがある。
彼女は、ただ守られることを望んでいるわけではない。
自分の足で歩こうとしている。
たとえ、どこへ向かえばいいのか分からなくても。
「……好きにしろ」
シラスは、ぶっきらぼうに言った。
少女の顔が明るくなる。
「じゃあ――」
「ただし、俺についてくるなら約束がある」
「約束?」
「勝手に走り出すな。危険を感じたら、俺の指示に従え。そして、分からないことを無理に一人で解決しようとするな」
少女は真剣な顔で頷いた。
「分かった!」
「それから、俺が危険だと判断したら、すぐに離れること。いいな?」
「……うん」
最後の条件だけ、少女は少しだけ不満そうだった。
それでも、彼女は頷いた。
シラスはため息をついた。
「勘違いするな。これは同行を認めたわけじゃない。次の街までだ。それ以上は知らん」
「うん!」
「……本当に分かっているのか?」
「次の街まで一緒なんでしょ?」
「そうだ」
「じゃあ、その間に、わたしの名前を思い出す方法も探せるかもしれないね!」
「……お前は本当に都合よく解釈するな」
少女は嬉しそうに笑った。
「そうかな?」
「そうだ」
シラスは歩き始めた。
今度は、背後から二つの足音が聞こえてくる。
一つは自分のもの。
もう一つは、少し軽く、時々リズムが乱れる少女のものだった。
彼は振り返らなかった。
ただ、歩く速度をほんの少しだけ落とした。
少女が隣に並ぶ。
「ねえ、シラス」
「今度は何だ」
「わたし、まだ名前がないから……呼ぶとき、困るよね?」
「……そうだな」
「何か呼び方を決めた方がいいかな?」
シラスは少し考えた。
名前を思い出すまでの仮の呼び方。
どうせ次の街までの短い付き合いだ。
余計な意味を持たせる必要はない。
「……おい、でいいだろ」
少女は足を止めた。
「えっ?」
「聞こえなかったか?」
「聞こえたよ! でも、それは名前じゃないよ!」
「名前が分からないんだから仕方ないだろ」
「仕方なくない!」
少女は頬を膨らませた。
「せめて、もうちょっと可愛い呼び方にしてよ!」
「……注文の多い奴だな」
シラスは面倒そうに頭を掻いた。
「なら、好きな呼び方を自分で考えろ」
「えー……」
少女は唸りながら考え始めた。
その様子を横目で見て、シラスは小さく息を吐いた。
自分の生活に、こんな騒がしい人間が加わるとは思ってもいなかった。
ましてや、魔狼を吹き飛ばすほどの魔法を持ち、名前すら忘れてしまった少女だ。
厄介事の塊と言ってもいい。
それなのに。
彼女の足音が隣にあることを、先ほどほど不愉快には感じなかった。
「……明日は早く出るぞ」
シラスが告げる。
少女は顔を上げた。
「うん!」
「だから、今日は余計なことをせずに休め」
「分かった!」
返事をした直後、少女は小さく付け加えた。
「……あのね、シラス」
「まだあるのか」
「明日も、干し肉を一切れくれる?」
「自分で食料を調達する方法を覚えろ」
「……けち」
「聞こえているぞ」
少女は、くすくすと笑った。
夕暮れの街道を、二人の影が並んで伸びていく。
まだ信頼と呼べるほどのものはない。
シラスは少女を厄介者だと思っているし、少女も彼が本当はどんな人間なのか知らない。
それでも、ほんの少しだけ。
二人の間にあった距離は、出会ったときよりも縮まっていた。
そして、彼らが向かう先には、まだ互いの知らない危険が待っている。
シラスが追われる理由も。
少女が記憶を失った理由も。
その答えは、まだ遠い。
今はただ、次の街を目指して歩き続けるだけだった。




