存在してはならない魔法
森の中を歩き始めてから、しばらくが経った。
シラスは先頭を歩き、セレスティーヌと名乗ることすらできない少女は、その少し後ろをついてきていた。
「ねえ、シラス」
「何だ」
「あと、どれくらい歩くの?」
「街道に戻るまでなら、そう遠くない」
「そうなんだ」
少女は安心したように頷いた。
それから、数歩も進まないうちに、また口を開いた。
「ねえ、シラス」
「今度は何だ」
「お腹が空いた」
シラスは足を止めた。
ゆっくりと振り返る。
白い髪の少女は、悪びれる様子もなく自分のお腹を押さえていた。
「……さっきまで、何も食べていなかったのか?」
「分からない。でも、空いてるのは本当だよ」
「そうか」
シラスは再び歩き始めた。
「えっ、それだけ?」
「俺は医者じゃない。腹が減ったと言われても、どうしようもない」
「食べ物を持っていないの?」
「持っている」
「じゃあ――」
「俺の分だ」
少女は口を閉じた。
二人の間に、森の静けさが戻る。
しばらくして、少女が小さな声で呟いた。
「……けち」
「聞こえているぞ」
「聞こえるように言ったんだもん」
シラスは返事をしなかった。
記憶を失っているという割には、ずいぶん元気な娘だった。
先ほどまで自分の名前すら思い出せずに困っていたのに、食べ物の話になると遠慮がなくなる。
その切り替えの早さには、ある意味で感心させられた。
もっとも、感心したところで何かを分けてやるつもりはなかった。
今の自分にとって、食料は貴重な資源だ。次にいつ食事を取れるか分からない以上、見ず知らずの少女に気前よく与える余裕はない。
「……ところで」
シラスは歩きながら尋ねた。
「本当に何も覚えていないのか?」
少女は少し考えた。
「うん。名前も、家も、ここに来る前のことも。何かを思い出そうとすると、頭の中が真っ白になるの」
「痛みは?」
「少しだけ、頭が重いときはあるよ。でも、ずっと痛いわけじゃない」
「身体に怪我は?」
「たぶん、ないと思う」
「たぶんばかりだな」
「だって、自分のことなのに分からないんだもん……」
少女は不満そうに頬を膨らませた。
シラスはそれ以上、質問を続けなかった。
記憶喪失の原因を探るにしても、手がかりがなさすぎる。頭を打った可能性もあれば、魔法が関係している可能性もある。
ただし、後者を考えるなら、厄介な問題が一つあった。
記憶を失わせる魔法は存在する。
だが、人間の記憶に干渉する魔法は高度で、使用者にも相応の知識と技術が必要になる。少なくとも、そこらの魔法使いが簡単に扱えるものではない。
少女の身なりからは、魔術師らしい道具も見当たらなかった。
もちろん、道具を持たずに魔法を使う者もいる。
しかし、今の段階で判断するのは早かった。
「……まあ、街に着いたら誰かに診てもらえ」
「シラスは?」
「俺は関係ない」
「そっか」
少女は少し寂しそうに視線を落とした。
その反応を見ても、シラスの足は止まらなかった。
関わりすぎるな。
自分に何度も言い聞かせてきた言葉だった。
他人に情を移せば、失うものが増える。
今の自分には、守るべきものなどない方がいい。
そう考えていた。
そのときだった。
森の奥から、低い唸り声が響いた。
シラスは即座に足を止めた。
「……動くな」
声の調子が変わったことに気づき、少女も立ち止まった。
「え?」
「黙っていろ」
シラスは腰の剣に手をかけ、周囲を見回した。
風が止んでいる。
鳥の声も聞こえない。
先ほどまで漂っていた森の気配が、不自然なほど薄くなっていた。
そして、左手の茂みが揺れた。
一匹の魔物が姿を現す。
灰色の毛皮に覆われた、狼に似た獣だった。
ただし、普通の狼よりも一回り大きい。肩の高さはシラスの腰ほどまであり、口元から覗く牙は鋭く、前脚には獲物を引き裂くための太い爪が生えていた。
魔狼。
この地方の森に生息する魔物の一種だ。
単独で行動することもあるが、基本的には群れで狩りをする。警戒心が強く、よほど空腹でなければ人間に不用意に近づかない。
しかし、目の前の個体は違った。
黄色い瞳がシラスを捉えたまま、低く唸っている。
口の端から涎が垂れ、地面を掻く前脚に力がこもっていた。
「……腹を空かせているのか」
シラスは小さく呟いた。
その背後で、少女が息を呑む。
「な、何あれ……?」
「魔物だ。見れば分かるだろう」
「魔物って、あんなに大きいの?」
「個体差はある」
「そ、そうなんだ……」
少女の声が少し震えた。
無理もない。
記憶を失った状態で、森の中で魔物と遭遇したのだ。恐怖を感じるなという方が難しい。
シラスは剣を抜いた。
鞘から滑り出した刃が、木漏れ日を受けて鈍く光る。
「俺の後ろにいろ」
「でも……」
「いいから」
短く告げると、シラスは魔狼と少女の間に立った。
魔狼はその動きを見て、唸り声を強めた。
次の瞬間、地面を蹴った。
「っ!」
魔狼の巨体が、一直線にシラスへと迫る。
シラスは正面から受け止めようとはしなかった。半歩だけ横へずれ、魔狼の突進を紙一重でかわす。
爪が外套の端を掠めた。
すれ違いざま、シラスは剣を振るう。
刃が魔狼の肩を浅く切り裂いた。
「浅いか……!」
魔狼は着地すると同時に身体を反転させた。
普通の獣なら、一度傷を負えば警戒する。だが、魔物は違う。痛みに怯むどころか、血の匂いで興奮する個体さえいる。
目の前の魔狼も、その一匹らしかった。
再び低く身構え、シラスを睨みつける。
シラスは剣を握り直した。
力任せに斬っても、相手の動きが速ければ当たらない。無理に懐へ入れば、牙か爪を受ける。
ならば、地形を利用する。
彼はゆっくりと後退し、崩れた木の根が露出した場所へ魔狼を誘導した。
魔狼は警戒する様子もなく、再び飛びかかる。
その瞬間、前脚が木の根に引っかかった。
巨体がわずかに傾く。
シラスはその隙を逃さなかった。
踏み込み、剣を振り下ろす。
しかし、魔狼は最後の瞬間に身体を捻った。
刃は首を外れ、背中を深く切り裂いただけだった。
魔狼が地面に転がり、苦痛の唸り声を上げる。
「くそっ……!」
シラスは追撃しようとした。
だが、魔狼は予想以上に早く体勢を立て直した。
そして、シラスではなく、その後ろにいる少女へと視線を向けた。
少女は動けずにいた。
恐怖で足がすくんだのか、それとも何が起きているのか理解できていないのか。
どちらにせよ、魔狼の次の標的が自分だと気づいたときには、もう遅かった。
「おい、逃げろ!」
シラスが叫ぶ。
魔狼が地面を蹴った。
少女へ向かって、鋭い牙を剥き出しにして飛びかかる。
少女の青い瞳が、大きく見開かれた。
「……いや」
小さな声だった。
恐怖に震えた、か細い声。
それでも、彼女は目を逸らさなかった。
「来ないで……!」
その瞬間。
空気が、震えた。
音が消えたわけではない。
森の中に存在していたすべての音が、一瞬だけ遠ざかったように感じられたのだ。
シラスは反射的に目を細めた。
少女の足元から、淡い光が広がっていた。
青白い光。
それは地面に刻まれた見えない模様を浮かび上がらせるように、薄い円を描いて広がっていく。
石も、草も、濡れた落ち葉も。
光に触れたものが、わずかに震えた。
「……何だ、これは」
シラスは思わず呟いた。
魔法陣ではない。
少なくとも、彼が知っている魔法陣とは違った。
魔法を発動する際には、術式を組み立て、魔力を制御し、何らかの現象を引き起こすための手順が必要になる。
術者によって方法は異なるが、魔力を扱うには知識と訓練が欠かせない。
ところが、少女は何もしていなかった。
詠唱もない。
印を結ぶ動作もない。
杖も、魔導具も持っていない。
ただ、目の前の危険を拒むように、両手を胸の前で握りしめているだけだった。
それなのに。
彼女の周囲から溢れ出す魔力は、シラスがこれまでに感じたことのないほど濃密だった。
空気が重くなる。
肌が粟立つ。
魔狼の身体が、空中で突然停止した。
「……は?」
シラスは目を疑った。
魔狼は少女に飛びかかる直前の姿勢のまま、空中に縫い止められたように動かなくなっていた。
爪は伸びきり、牙を剥いた口は開かれたまま。
それでも、身体だけが完全に静止している。
いや、正確には違った。
魔狼の足先が、わずかに震えていた。
逃れようともがいているのだ。
しかし、目に見えない何かが、その巨体を押さえつけていた。
少女は自分の手を見つめた。
「……え?」
本人も、何が起きているのか分かっていないようだった。
「な、何これ……?」
声が震えている。
少女が一歩後ずさる。
すると、周囲の光が強くなった。
地面の落ち葉が風もないのに浮かび上がり、細かな土埃が少女の周囲をゆっくりと回り始める。
シラスは息を呑んだ。
この魔力の量は異常だった。
魔狼一匹を拘束するだけなら、ここまでの力は必要ない。熟練した魔術師ならば、もっと小さな術式で動きを封じられるはずだ。
だが、少女は魔狼だけを止めているのではなかった。
周囲の空間そのものが、彼女の意思に反応しているように見えた。
「おい、嬢ちゃん!」
シラスは声を張り上げた。
「そのまま動くな! 何をしたのか分からなくても、今は力を抑えろ!」
「わ、分からないよ!」
少女は涙目で叫んだ。
「わたし、何もしてない! ただ、来ないでって……!」
その言葉の途中で、魔狼の身体が大きく震えた。
少女の表情が強張る。
魔狼は拘束から逃れようと、最後の力を振り絞っていた。
低い唸り声が、再び森に響く。
少女は怯えたように肩をすくめた。
「やだ……!」
光が、一気に膨れ上がった。
シラスは咄嗟に腕で顔を庇った。
次の瞬間、衝撃が広場を駆け抜けた。
木々の葉が一斉に揺れ、地面に積もった落ち葉が円を描くように吹き飛ぶ。
魔狼の巨体が、見えない手に押されたかのように後方へ弾き飛ばされた。
地面を転がり、倒木に激突する。
鈍い音が響いた。
魔狼はしばらく動かなかった。
やがて、身体を震わせながら立ち上がると、シラスと少女を交互に見た。
黄色い瞳に、先ほどまでの獰猛さは残っていなかった。
恐怖。
明らかな恐怖だった。
魔狼は低く唸ることさえ忘れたように後ずさりし、次の瞬間、森の奥へと駆け去っていった。
枝が折れる音が遠ざかる。
やがて、何も聞こえなくなった。
静寂が戻った。
少女の足元に広がっていた光も、少しずつ薄れていく。
浮かんでいた落ち葉が地面に落ち、空気の重さが元に戻った。
シラスは、剣を構えたまま動かなかった。
何が起きたのか。
頭では理解できているつもりだった。
少女が魔法を使った。
魔狼を拘束し、弾き飛ばし、追い払った。
だが、理解できることと、納得できることは違う。
あれほどの魔力を、詠唱も術式もなく扱う人間がいるなど、聞いたことがなかった。
しかも、本人は魔法を使った自覚すらない。
「……おい」
シラスが声をかける。
少女はびくりと肩を跳ねさせた。
「ひゃっ!」
「……そこまで驚くな」
「だ、だって……!」
少女は自分の両手を見下ろした。
小さな手。
傷一つない指。
何も変わっていないように見える。
それなのに、つい先ほどまで、巨大な魔物が空中に止まっていたのだ。
「わたし……何をしたの?」
シラスはすぐには答えなかった。
答えられなかった、と言うべきかもしれない。
「魔法を使ったんだろう」
「でも、わたし、魔法なんて……」
少女は顔を上げた。
「わたし、魔法が使えるの?」
「それを俺に聞くな」
「だって、分からないんだもん!」
「俺だって分からん」
シラスは剣を鞘に戻した。
魔狼の姿は、すでに森の奥へ消えている。追いかける必要はないだろう。
それよりも、今は目の前の少女の方が気になった。
彼女が放った魔力。
あれほどの力が本当に本人のものなら、並の魔術師とは比較にならない。
いや、比較すること自体が間違っているのかもしれない。
「……少し、手を見せろ」
「手?」
「怪我をしていないか確認する」
少女は素直に両手を差し出した。
シラスは手のひらと指先を確認したが、傷も火傷も見当たらなかった。
「痛むところは?」
「ないよ。でも、なんだか、身体がふわふわする……」
「魔力を使った反動かもしれないな」
「魔力……」
少女は呟き、少し考え込んだ。
「ねえ、シラス」
「今度は何だ」
「わたし、怖いよ」
その声は、先ほどまでとは違っていた。
魔狼が去ったことに安心したのか、少女の瞳には今にも泣き出しそうな色が浮かんでいた。
「自分が何をしたのか分からない。どうしてあんなことができたのかも分からない。……わたし、自分が何なのか、本当に分からないの」
最後の言葉は、ほとんど囁きだった。
シラスは少女を見つめた。
先ほどの魔力を思い出す。
あれほどの力を持つ人間が、何も知らずに森を歩いていた。
名前も分からない。
過去も分からない。
自分の力さえ分からない。
普通に考えれば、危険な存在だ。
関わらない方がいい。
今すぐ街道まで連れていき、そこで別れればいい。
そうすれば、自分は再び一人で旅を続けられる。
それなのに。
「……少なくとも」
シラスは、ゆっくりと口を開いた。
「さっきの魔物を追い払ったのは、お前だ」
少女は顔を上げた。
「え……?」
「何が起きたのかは知らん。だが、お前があの力を使った。それは確かだ」
「それって……」
「今すぐ全部を理解する必要はないだろう。分からないなら、少しずつ調べればいい」
口にしてから、シラスはわずかに眉を寄せた。
らしくないことを言った。
他人の不安を和らげるために、わざわざ言葉を選ぶなど。
いつから自分は、こんなことをするようになったのだろう。
少女はしばらく彼を見つめていた。
やがて、その表情から少しだけ緊張が抜けた。
「……うん」
小さく頷く。
「そうだよね。分からないなら、調べればいいんだよね」
「ああ」
「シラスも、手伝ってくれる?」
「……街道までだと言ったはずだ」
「じゃあ、街道に着くまでに、何か分かるかもしれないね!」
「都合よく解釈するな」
少女は、ほんの少しだけ笑った。
それは、まだ不安を隠しきれない、ぎこちない笑顔だった。
それでも、先ほどまでの怯えた表情よりはずっとよかった。
シラスは歩き出そうとした。
そのとき、ふと足元に目が留まった。
魔狼が倒れ込んだ場所。
そこには、深い爪痕が残っている。
だが、その周囲の地面には、奇妙なものがあった。
円形に広がった落ち葉。
押し固められた土。
そして、石の表面に浮かび上がった、ごく薄い幾何学模様。
シラスはしゃがみ込み、指先で石に触れた。
模様は、すでに消えかけている。
自然にできた傷ではない。
だが、少女が魔法を使ったとき、地面に術式が現れたという記憶もなかった。
「……何なんだ、これは」
彼が呟いた瞬間、少女が後ろから覗き込んできた。
「どうしたの?」
「いや……」
シラスは指を離した。
「何でもない」
まだ、判断するには早い。
今見たものが魔法の痕跡なのか、それとも古い石に元から刻まれていた模様なのか。
確かなことは何一つなかった。
彼は立ち上がり、再び森の出口へ向かって歩き始めた。
「行くぞ。ここに長居する理由はない」
「うん!」
少女は元気よく返事をして、その後を追った。
数歩進んだところで、彼女はシラスの外套の裾をそっと掴んだ。
「……何だ?」
「また、魔物が出てきたら怖いから」
「さっきの魔法はどうした」
「自分でも、どうやったのか分からないもん!」
「……それもそうか」
シラスは諦めたように息を吐いた。
「勝手に離れるな。何かあったら、すぐに言え」
少女の顔がぱっと明るくなった。
「うん!」
返事だけは、ずいぶんと元気だった。
シラスは前を向いたまま、心の中で呟いた。
――本当に、面倒なことになった。
彼はまだ知らない。
自分が出会った少女の力が、どれほど常識外れなものなのか。
そして、その力が明らかになれば、彼女を求めて動き出す者たちが現れることも。
今はただ、森を抜けることだけを考えていた。
しかし、二人の背後。
誰もいなくなった古い広場で、石に刻まれた幾何学模様が、ほんの一瞬だけ青白く光った。
そして、何事もなかったかのように、再び静寂が森を包み込んだ。




