自分の名前を忘れた少女
森へ近づくにつれ、風の音が変わった。
街の近くでは、荷車の軋む音や人々の話し声が絶えず聞こえていた。しかし、丘を越えた先には、それらの喧騒が届かない。
聞こえるのは、木々の葉が擦れ合う音と、遠くで鳴く鳥の声。そして、乾いた土を踏む自分の足音だけだった。
シラス・ナハトは、森の手前で一度立ち止まった。
目の前に広がるのは、古い街道だった。
かつては商人や旅人が行き交っていたのだろう。道の両側には、崩れかけた石柱が並んでいる。苔に覆われた石の表面には、何かを刻んだような跡が残っていたが、長い年月に削られ、今では文字なのか模様なのかさえ判別できなかった。
街道の先は、深い森へと続いている。
シラスは周囲を見回した。
人影はない。
少なくとも、見える範囲には。
「……ここから先は、慎重に行くか」
彼は腰の剣に軽く触れ、歩き始めた。
街を出る前に見つけた二人分の足跡が気になっていた。追跡者のものかどうかは分からないが、わざわざ確かめに行くつもりもない。
今の彼に必要なのは、食料と休息、それから人目につかずに移動できる道だった。
厄介事は、できる限り避ける。
それが、指名手配犯になってから身につけた生き方だった。
森の入口を抜けると、木々の枝が頭上を覆い、昼間だというのに辺りが薄暗くなった。
地面には昨夜の雨が残り、落ち葉が湿った音を立てる。空気には土と苔の匂いが混じり、時折、どこかから冷たい風が吹き抜けた。
シラスは歩きながら、地面と周囲の木々を観察していた。
折れた枝。
獣の足跡。
新しく踏み荒らされた草。
何かが通った痕跡を見つけるたびに、彼はその方向と新しさを確かめた。
やがて、街道から少し外れた場所に、人間のものと思われる足跡を見つけた。
一人分。
歩幅は小さく、ところどころ不規則だった。
まっすぐ歩いていたかと思えば、急に方向を変えたような跡もある。途中には、泥の上に深く刻まれた足跡が残っていた。
「……迷子か?」
シラスはしゃがみ込み、足跡を見つめた。
この森に一人で入る人間は珍しくない。薬草を採りに来る者もいれば、近道をしようとする旅人もいる。
しかし、この足跡には妙なところがあった。
森の入口から奥へ向かっているのに、途中で何度も同じ場所を行き来している。
まるで、どこへ向かえばいいのか分からず、あてもなく歩き回っていたようだった。
シラスはしばらく考えたあと、立ち上がった。
「関係ないな」
そう呟いて、足跡とは反対の方向へ進もうとした。
そのときだった。
――チリン。
かすかな音が聞こえた。
シラスの足が止まった。
金属が触れ合うような、小さな音。
風に揺れた装飾品の音か。それとも、誰かが身につけている鈴の音か。
彼は音のした方向へ顔を向けた。
木々の向こうに、何かがある。
街道から外れた場所。枝葉の隙間から、崩れた石壁の一部が見えていた。
あそこに建物があるのか。
シラスは眉を寄せた。
この辺りに廃墟があるという話は聞いたことがない。地図を持っているわけでもないため、昔から存在していたのかどうかも分からなかった。
もう一度、音がした。
今度は聞き間違いではない。
チリン、と。
彼は小さく息を吐き、音のした方へ歩き出した。
あくまで様子を見るだけだ。
誰かが怪我をしているなら、周囲に危険がないか確認する程度はしてもいい。そう自分に言い聞かせながら、シラスは木々の間を抜けていった。
数十歩ほど進むと、視界が急に開けた。
そこには、小さな広場があった。
かつて何らかの建物が存在していたのだろう。地面には石畳の名残があり、片側には屋根を失った石造りの壁が立っていた。崩れた柱の根元には雑草が生い茂り、ひび割れた石の隙間から細い蔓が伸びている。
広場の中央には、朽ちた噴水らしきものがあった。
水は流れていない。器の部分は大きく欠け、底には雨水がわずかに溜まっている。その縁には、見慣れない模様が刻まれていた。
そして、その噴水のそばに――一人の少女が座っていた。
シラスは、思わず足を止めた。
少女は、こちらに背を向けていた。
小柄な身体を包んでいるのは、旅装束らしい衣服だった。薄汚れてはいるものの、破れた箇所は少ない。短い外套が肩を覆い、腰には小さな鞄が下がっている。足元には、泥のついたブーツが揃えられていた。
その少女が、膝を抱えて石の上に座っていた。
肩のあたりまで落ちる白い髪が、風に揺れている。
いや、ただ白いというだけではなかった。
陽の光が枝葉の隙間から差し込むたび、その髪は淡い銀色を帯び、まるで細い絹糸を何本も重ねたように滑らかに輝いた。
髪は左右で緩くまとめられ、低い位置で結ばれている。結びきれなかった細い毛束が頬の横に流れ、少女が顔を動かすたびにかすかに揺れた。
白い髪の下に見える横顔は、まだ幼さを残していた。
小さな鼻。
薄い唇。
そして、どこか不思議なほど整った顔立ち。
少女は手のひらに何かを載せ、じっと見つめていた。
小さな銀色の飾りだった。
それは細い鎖の先についた、花のような形をした金属片だった。表面には細かな傷があり、中央には青みがかった石が埋め込まれている。
少女はそれを指先でなぞったあと、困ったように首を傾げた。
「……これ、なんだったかな」
その声は小さく、森の静けさに溶けてしまいそうだった。
「どうして、持っているんだろう……」
返事をする者はいない。
少女は顔を上げ、広場の周囲を見回した。
右側に崩れた壁。
左側に木々の隙間。
正面には、森の奥へ続く細い道。
どれを見ても、何かを思い出す様子はなかった。
やがて彼女は、再び手のひらの飾りに目を落とした。
「……分からない」
その一言が、ひどく寂しく響いた。
シラスは黙って少女を見つめていた。
見たところ、怪我をしているようには見えない。服は多少汚れているが、血の跡はなかった。呼吸も落ち着いている。
ただ、様子がおかしかった。
普通、森の中で一人になった人間は周囲を警戒する。助けを求めるか、出口を探すか、少なくとも自分がどこにいるのか確かめようとする。
しかし、少女はそうしなかった。
まるで、どこへ行くべきなのかだけでなく、自分が何者なのかさえ分かっていないようだった。
シラスは小さく舌打ちした。
面倒なことになりそうだ。
そう思った瞬間、少女が顔を上げた。
青い瞳と、シラスの赤い瞳が合った。
少女は驚いたように目を見開いた。
しばらくの間、二人とも動かなかった。
風が吹き抜け、少女の白い髪が頬を撫でる。
先に口を開いたのは、シラスだった。
「……そこで何をしている?」
少女は瞬きをした。
「え?」
「こんな森の奥で、一人で何をしているんだと聞いている」
「あ……」
少女は周囲を見回した。
自分がどこにいるのか、今になって初めて意識したかのようだった。
「えっと……」
言葉を探すように、唇がわずかに動く。
しかし、返ってきたのは沈黙だった。
「……分からないのか?」
少女は申し訳なさそうに眉を下げた。
「うん……分からないの」
シラスは眉をひそめた。
「道に迷ったのか?」
「たぶん……そう、なのかな?」
「たぶん?」
「だって、ここに来る前のことも、よく覚えていないから」
あまりにもあっさりとした答えだった。
シラスは少女の顔をじっと見つめた。
冗談を言っているようには見えない。
怯えている様子もあるが、それ以上に、本人が自分の状況を理解できていないようだった。
「名前は?」
少女は口を開いた。
けれど、声は出なかった。
視線が宙をさまよい、指先が膝の上でぎゅっと握られる。
数秒後、少女は小さく首を振った。
「……分からない」
「名前まで忘れたのか?」
「うん……」
彼女は自分の胸元に手を当てた。
「自分の名前も、どこから来たのかも……どうしてここにいるのかも、何も思い出せないの」
その言葉を口にした途端、少女の表情が少しだけ歪んだ。
怖いのだろう。
自分のことが何も分からないという状況が。
それでも、彼女は泣かなかった。ただ、どうすればいいのか分からない子供のように、シラスを見つめていた。
シラスは息を吐いた。
「……記憶喪失か」
「きおく……そうしつ?」
「自分が誰なのか、何をしていたのか、覚えていない状態のことだ」
「ああ……」
少女は納得したように頷いた。
それから、少し考え込む。
「じゃあ、わたし、記憶喪失なんだ」
「自分のことだろうが。もう少し危機感を持て」
「危機感……」
少女はその言葉を繰り返したあと、慌てて背筋を伸ばした。
「そ、そうだよね。わたし、すごく大変なことになってるんだよね?」
「今さら気づいたのか」
「だって、さっきまでは、どうして何も思い出せないのかなって考えていただけだったから……」
「それを大変なことだと言うんだ」
「うぅ……」
少女は小さく肩を落とした。
妙な娘だった。
状況を理解していないわけではない。理解しようとしているのに、どこか反応がずれている。
シラスは額に手を当てた。
他人の面倒を見るつもりなどなかった。
ましてや、素性も分からない人間を連れて歩くなど論外だ。
自分は指名手配犯で、いつ賞金稼ぎに追われてもおかしくない身なのだ。
そんな自分が、記憶を失った少女を保護する理由などない。
「……立てるか?」
「え?」
「ここにずっと座っているつもりか。立てるかと聞いている」
少女は一瞬きょとんとしたあと、慌てて立ち上がろうとした。
しかし、長い間同じ姿勢で座っていたせいか、足元がふらついた。
「わっ……!」
身体が傾く。
シラスは反射的に一歩踏み出し、少女の腕を掴んだ。
細い腕だった。
驚くほど軽い。
少女は彼の外套を掴み、どうにか転倒を免れた。
「……ありがとう」
「礼はいい。怪我をされると面倒なだけだ」
「そうなんだ……」
少女は彼の顔を見上げた。
「でも、助けてくれたんだよね?」
「転ばれたら、ここから動けなくなるだろう」
「それって、助けてくれたってことじゃないの?」
「違う」
「……変なの」
少女は不思議そうに首を傾げた。
シラスは、すぐに手を離した。
これ以上関わると、余計な時間を取られる。
彼は少女から視線を外し、森の出口がある方向を確認した。
「ここから街道へ戻る。歩けるなら、自分で来い」
「街道……?」
「人が通る道だ。そこまで行けば、誰かに助けを求めることもできる」
少女は彼の言葉を聞き、少しだけ表情を明るくした。
「じゃあ、あなたも一緒に来てくれるの?」
「街道までだ。その先は知らん」
「そっか……」
少女は一度頷いた。
だが、すぐに困ったような顔になる。
「ねえ」
「今度は何だ」
「あなたの名前は?」
シラスは一瞬、答えるべきか迷った。
本名を知られること自体は問題ではない。問題は、彼女が自分の名前をどこかで口にする可能性だった。
もっとも、記憶を失った少女に、自分が指名手配犯だと説明するのも面倒だった。
「……シラスだ」
「シラス……」
少女はその名前をゆっくりと繰り返した。
「わたしは……」
そこまで言って、彼女は口を閉じた。
思い出せるはずがない。
それでも、自分だけ名前が分からないことが気になったのだろう。少女は少しだけ唇を尖らせた。
「……わたしの名前も、早く思い出せるといいな」
その声には、先ほどよりも強い不安が混じっていた。
シラスは何も答えなかった。
思い出せるかどうかなど、彼には分からない。
慰める言葉も持ち合わせていなかった。
だから、代わりに歩き出した。
「置いていくぞ」
「あっ、待って!」
少女は慌てて彼のあとを追った。
数歩進んだところで、彼女は再び足を止めた。
そして、振り返る。
崩れた噴水。
苔に覆われた石壁。
枝葉の隙間から差し込む、淡い光。
彼女はその場所をじっと見つめていた。
「……どうした?」
シラスが声をかけると、少女はゆっくりと首を振った。
「ううん……何でもない」
そう答えたものの、彼女の瞳には、言葉にできない戸惑いが残っていた。
何かを思い出しかけたのか。
それとも、ただ初めて見る景色を惜しんでいるだけなのか。
シラスには判断できなかった。
「行くぞ」
「うん!」
少女は小走りで追いつき、彼の隣に並んだ。
二人は、木々の間を抜ける細い道を歩き始めた。
黒い外套をまとった、赤い瞳の逃亡者。
白い髪と青い瞳を持つ、名前さえ思い出せない少女。
このとき、シラスはまだ知らなかった。
目の前を歩く少女が、ただ記憶を失っただけの人間ではないことを。
そして、この偶然の出会いが、自分の人生を大きく変えることになるのも。
今の彼に分かるのは、ただ一つ。
「……面倒なことになった」
「え? 何か言った?」
「何も言っていない」
「そう?」
少女は首を傾げたあと、にこりと笑った。
「じゃあ、よろしくね、シラス!」
「……よろしくするつもりはない」
そう言いながらも、シラスは彼女を置き去りにはしなかった。
森の奥から、再び風が吹き抜ける。
白い髪が揺れ、銀色の小さな飾りが、彼女の手の中でかすかに鳴った。
チリン。
その音は、二人の新しい旅の始まりを告げるように、静かな森へと溶けていった。




