影の中で生き延びる
雨が上がった頃には、街の通りに朝の活気が戻り始めていた。
荷車の車輪が石畳を軋ませ、商人たちが店先に商品を並べる。焼きたてのパンの香りが漂い、酒場の扉からは昨夜の酔客を追い出す店主の怒鳴り声が聞こえてきた。
いつもと変わらない朝。
少なくとも、街の住人たちにとってはそうだった。
「……騒がしいな」
建物と建物の隙間に身を潜めながら、シラス・ナハトは小さく呟いた。
つい先ほどまで、彼は一人の男に追われていた。
追跡者の顔は覚えている。年齢は三十代半ば。右足をわずかに引きずり、左手の親指には古い傷がある。腰には短剣。歩き方からして、軍人ではない。
おそらく賞金稼ぎだ。
もっとも、確証はなかった。
ただ、シラスの顔を見た瞬間に男の目つきが変わったこと。そして、彼が路地に入ったあと、少し遅れて同じ道へ進んできたこと。その二つだけで十分だった。
指名手配犯を見つけた人間が、何を考えるか。
答えは簡単だ。
賞金だ。
「朝からご苦労なことだ」
シラスは壁に背を預け、通りの様子を窺った。
追跡者の姿は見えない。
だが、撒けたと決めつけるのは早い。相手が一人とも限らないし、街の出入口を見張られている可能性もある。
彼は深く息を吐くと、外套の襟を立て直した。
黒い外套。革のベルト。使い込まれたブーツ。そして腰に差した、飾り気のない剣。
どこにでもいる旅人の格好に見えなくもない。
しかし、顔を知られている以上、服装を変えただけで安心はできなかった。
シラスは路地の奥へ進み、崩れかけた木箱を踏み台にして低い塀を越えた。塀の向こうは、使われなくなった倉庫の裏庭だった。
雑草が伸び放題で、割れた窓からは湿った木材の匂いが漂っている。
人の気配はない。
彼は足跡が残らないよう、乾いた石の上を選んで歩いた。
五年前、冒険者として旅を始めた頃は、こんなことを気にしたこともなかった。
依頼を受け、魔物を倒し、報酬を受け取る。危険な土地へ踏み込むことはあっても、街中で誰かの視線を恐れながら歩く必要などなかった。
今では、宿を選ぶにも理由がいる。
表通りに面した宿は避ける。主人が親切すぎる店にも泊まらない。酒場で余計な話をせず、同じ場所に長居もしない。
食事をするときは出入口の位置を確認し、眠るときは剣を手の届く場所に置く。
そして、誰かが自分の名前を口にしたら、決して聞き流さない。
そんな生活が、いつの間にか当たり前になっていた。
「……慣れたくはなかったんだがな」
ぼやいても、状況は変わらない。
シラスは倉庫の裏口から外へ出ると、古い商店が並ぶ通りへ向かった。
この街に長居するつもりはない。
食料を補充し、街を抜ける。それだけだ。
問題は、どの道を使うかだった。
正門を通れば身元を確認される恐れがある。東門は街道が整備されているぶん、人の出入りも多い。南側には川があるが、橋を渡るには見張りの前を通らなければならない。
残るのは西側の旧街道。
道は悪く、途中には魔物が出る森もある。商人たちが避ける道だ。
だからこそ、追跡者も警戒を薄めるかもしれない。
「……西だな」
決めると、シラスは迷わなかった。
旅人向けの小さな雑貨店に入り、干し肉と硬いパン、それに水袋を一つ買う。店主は彼の顔を見ても特に反応しなかった。
だが、安心はできない。
「この辺りで、何か変わったことはあったか?」
会計を済ませるふりをしながら、シラスは尋ねた。
店主は硬貨を数える手を止めた。
「変わったこと? そうだな……最近、妙な噂があるくらいか」
「噂?」
「白い髪の娘を見たって話だ。森の近くでな」
シラスの表情は変わらなかった。
「それがどうした」
「どうしたもこうしたもないさ。こんな時期に、あんな場所を一人で歩いていたらしい。しかも、ずいぶん妙なことが起きたとか」
店主は声を落とした。
「魔物が突然逃げ出しただの、森の奥で光が見えただの。話す人間によって内容が違う。酔っ払いの作り話かもしれんがね」
「その娘は今どこに?」
「さあな。誰も知らんよ。見たって奴も、遠くから一度見かけただけらしい」
シラスは硬貨を置き、商品を袋に詰めた。
白い髪の娘。
それだけでは、何の判断もできない。
旅人は珍しくないし、森の近くで魔物が騒ぐこともある。光の噂に至っては、魔法の使い手が通っただけでも説明がつく。
一つ一つを結びつけて考えるには、情報が足りなかった。
「忠告しておくが、森には近づかない方がいい。最近は賞金稼ぎまでうろついているからな」
店主の言葉に、シラスは目を細めた。
「賞金稼ぎ?」
「ああ。何人かが西の街道について聞き回っていた。誰かを探しているらしい」
「……そうか」
「お前さんも旅人なら、気をつけな」
「ああ。忠告には感謝する」
シラスはそれ以上何も聞かず、店を出た。
店主が自分を怪しんでいた様子はない。
だが、賞金稼ぎが西の街道について調べているという話は気になった。
偶然かもしれない。
自分を追っている連中が、すでに逃走経路を予測している可能性もある。
どちらにせよ、予定を変える必要があるかもしれなかった。
シラスは人混みを避け、建物の影を選びながら街の外れへ向かった。
その途中、広場の掲示板が目に入った。
依頼書、迷子の捜索、魔物の討伐。
そして、その中に一枚だけ、周囲よりも新しい紙が貼られていた。
見覚えのある顔。
黒い髪。赤い目。
自分の似顔絵だった。
シラスは足を止めなかった。
立ち止まれば、誰かの目に留まる。ましてや、指名手配犯本人が自分の手配書を眺めていたら、笑い話にもならない。
それでも、通り過ぎる一瞬で十分だった。
紙の下部には、報奨金の額が記されている。
その金額を見て、シラスは内心で舌打ちした。
高すぎる。
あの額なら、腕に覚えのある冒険者だけでなく、普段なら危険な仕事を避けるような人間まで動きかねない。
しかも、彼を捕らえた者には追加報酬が出るという。
生死を問わず。
「……ずいぶんと人気者になったもんだ」
皮肉を呟き、彼は広場を離れた。
人気者という言葉ほど、今の自分に似合わないものはない。
人々が求めているのは、彼の無事でも言い分でもなかった。
欲しいのは、首にかかった賞金だけだ。
それを責めるつもりはない。彼らにとっては、手配書に書かれた情報がすべてなのだから。
問題は、その情報が正しいとは限らないことだった。
そして、シラスにはそれを証明する手段がない。
少なくとも、今は。
街の西側へ近づくにつれ、人通りは減っていった。家々はまばらになり、舗装された道も次第に荒れていく。
シラスは一度だけ背後を振り返った。
追ってくる者はいない。
だが、油断はしなかった。
彼は街の外壁に沿って進み、見張り台から死角になる場所を探した。やがて、崩れた石垣の向こうに、人ひとりが通れるほどの隙間を見つける。
古い排水路の跡だった。
普段から使われている道ではない。地面には泥が溜まり、石の隙間には苔が生えている。
シラスは腰をかがめ、剣の鞘が石にぶつからないよう注意しながら進んだ。
数分後、彼は街の外へ出ていた。
目の前には、低い丘と、遠くまで続く森が広がっている。
風が吹き、木々の枝がざわめいた。
シラスは水袋を取り出し、一口だけ水を飲んだ。
街を出られたからといって、危険が去ったわけではない。むしろ、ここから先は人目が減るぶん、待ち伏せされれば厄介だった。
彼は地面に目を落とした。
ぬかるんだ土に、新しい足跡が残っている。
二人分。
一人は重い荷物を背負っているのか、歩幅が不規則だった。もう一人は軽装らしく、足跡が浅い。
どちらも森へ向かっている。
シラスはしゃがみ込み、足跡の縁を指先でなぞった。
新しい。まだ雨に完全には崩されていない。
少なくとも、数時間以内に通ったものだろう。
「……嫌な予感しかしないな」
彼は立ち上がり、森へ続く道を見つめた。
賞金稼ぎか。
それとも、ただの旅人か。
答えは分からない。
確かなのは、今の自分には余計な争いをする余裕がないということだけだった。
シラスは森を避け、丘の斜面に沿って進むことにした。
遠回りにはなるが、足跡を残しにくい岩場を通れば、追跡をかわしやすい。
一歩進むごとに、街の喧騒が遠ざかっていく。
やがて、風の音と自分の足音だけが耳に残った。
その静けさの中で、先ほど聞いた噂がふと脳裏をよぎる。
白い髪の娘。
森の近くで目撃された、正体不明の少女。
魔物が逃げ出し、奇妙な光が現れたという話。
シラスは小さく首を振った。
今の自分には関係のない話だ。
誰かを助ける余裕も、他人の事情に首を突っ込む理由もない。
生き延びる。
まずは、それだけでいい。
「……そうだろ」
まるで自分に言い聞かせるように呟き、シラスは歩き続けた。
その先に何が待っているのか、まだ彼は知らない。
ただ、世界は彼を追い詰めることをやめてはくれなかった。




